福井俊彦日銀総裁と村上ファンドの「深い縁」

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3月9日、福井俊彦総裁が率いる日銀は、量的緩和政策の解除を発表した。日銀当座預金残高を 目標値として、資金供給を拡大させていく量的緩和政策は、日銀史上、例をみない政策だった。 日銀が量的緩和政策に踏み切ったのは、福井氏の前任者である速水優前総裁当時の'01年3月 だ。その前年の'00年8月、速水日銀は、念願だったゼロ金利政策の解除を政府の反対を押し切っ て実現していた。ところが、国内景気はその後、失速感を強めて、株価も下落してしまった。そうした なかで、速水総裁が絶望のうちに、決断を迫られて、そうせざるを得なくなったのがゼロ金利政策へ の回帰と、量的緩和政策の実施だった。 '03年3月に速水氏の後任として日銀総裁に就任した福井氏はその当時、富士通総研理事長を務 めていた。 若い頃から「将来の総裁候補」と目されて、順調に副総裁まで上り詰めていたが、突然の日銀接待 不祥事によって、その問題の責任を取る形で、'97年に日銀を辞したからだ。自他共に認める総裁有 力候補だっただけに、「本人も無念の色が濃かった」と、日銀OBの1人は当時を振り返っている。 速水氏の総裁就任そのものが福井氏が引責辞任せざるを得なくなった状況下での予定外の登板 劇だった。速水氏は、金融危機が深刻化するなかで、金融政策の舵取りを担う繁忙の日々を送っ た。それに比べると、一民間シンクタンクのトップという福井氏のポストは無聊をかこつものだったとい われる。 そうした状況下にあって、福井氏はある会社のアドバイザリーボードのメンバーを務めていた。それ が'99年8月に設立されたM&Aコンサルティング、いまや、株式市場関係者ならずとも、その名を耳 にしたことがあるだろう村上ファンドだった。 '01年7月に同ファンドが出資者などに配布した資料のなかに「アドバイザリーボード」に関する説明 が次のように記されている。 「(メンバー)現在、確定しているメンバーは、福井氏(株式会社富士通総研理事長、元日銀副総 裁)、中川勝弘氏(東京海上火災保険株式会社顧問、東京海上キャピタル会長、元通商産業審議 官)、並びに国内大手金融機関及び米国機関投資家(ファンド出身者)である」 さらにアドバイザリーボードの役割としては「ファンドの投資対象やパフォーマンスに関する議論お よび監視」「投資先の経済改善策についての助言」「GP(ジェネラルパートナー)の主要メンバーが 退社する場合、ファンド継続の可否について判断すること」などの項目が並んでいる。 同資料では、ファンド・スキームが描かれている。その中で、福井氏などがメンバーとなっているアド バイザリーボードはケイマン現地法人に属しているような位置付けだ。いずれにしても、福井氏が村 上ファンドのアドバイザリーボード・メンバーとして、前述したような役割を担っていたことが資料から 裏付けられる。 その福井氏が総裁となって華々しく日銀に返り咲いたのは'03年3月だった。福井氏は持ち前の滑 らかな弁舌と、政府との一体感を強調するスタイルで、速水氏当時に悪化していた政府との関係を 改善していった。その象徴が量的緩和政策の徹底だったことはいうまでもない。 具体的には、就任前まで15~20兆円だった日銀当座預金残高目標を就任間もなく、17~22兆円 へと引き上げて、さらに4月には27~30兆円へ、そして、 '04年1月には30~35兆円へと引き上げ続けた。その姿勢からは、つねに量的緩和という異常な政 策を渋りがちだった速水氏とは対照的な積極さが滲み出ていた、といっても過言ではない。

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■企業は資金をファンドへ投資 修正に動いたのが昨年夏前ごろからであり、その後福井総裁は徐々に量的緩和解除の意向を口 にするようになった。政府に対しては物価上昇率の具体的な数値を提示するなど、ほぼ1年近くし て、ようやく量的緩和に終止符を打ったのがこの3月の出来事だった。その間、3年にわたって、福 井氏は莫大なマネーを金融市場へ注ぎ込んだ。 そうした異常な金融政策を打ち切ることを決定した3月9日の記者会見で、量的緩和が果たした役 割に関する質問への福井氏の回答内容は「今後は金融政策は説明しやすくなる」という、実に曖昧 な内容にとどまった。しかし、それは無理もなかったかもしれない。 「日本の景気回復は、米国景気と中国景気の拡大に支えられたもの。輸出の拡大で景気回復した」 (外資系アナリスト)といわれて、「消費者物価の上昇もほとんどは石油価格の上昇に依存している」 (有力シンクタンク)というなかでは、量的緩和の効用は不明確だからだ。むしろ、日銀内部ですら驚 きがあった量的緩和の拡大策によって、如実に反応が現れたのは証券市場だった。 「企業借入という資金需要の実需が出てこない環境下で、マネーは株式市場などに流れ込ん だ」(大手証券幹部) 量的緩和が継続される下で、ゼロ水準で微動だにしなくなった短期金利は、株式市場における信 用買いの投資家層にただ同然の投資資金をもたらしたし、企業間のカネ余りが激化して、投資ファ ンド、買収ファンドなどへの投資資金の流入を加速させた。 もちろん、そうしたなかで、福井氏がアドバイザリーボードのメンバーを務めた村上ファンドの投資 ビジネスも、大きく飛躍することになったわけだ。福井氏は、その意思の有無はともかく、日銀総裁就 任後も、量的緩和によって村上ファンドによき結果をもたらし続けたことになる。

■村上・宮内・福井を結ぶ盟友関係 ちなみに、日銀総裁前、富士通総研理事長に就任してほぼ3年が経過した '01年に、福井氏は経済同友会の副代表幹事に就任している。当時、経済同友会のドンといわれて いたのはオリックス会長の宮内義彦氏だ。「福井氏と宮内氏は同年齢で、ともに関西出身ということで 仲がよかった」(財界関係者)ことで知られている。 その宮内氏のオリックスが主要株主にあったのが、村上ファンドにほかならない。それだけではな い。村上ファンドは運用に際して、企業の純資産額を算出する場合、不動産については、公示価 格、路線価のほかに、オリックスによる時価評価も利用していた。ここには、単なる資本関係以上の 密接さが感じられる。 そして、村上ファンドは前代未聞の量的緩和が拡大する中で、企業買収を続けたのである。村上 ファンドに出資するオリックスの宮内氏と、その盟友としての福井氏の存在は、いやがおうにもヤ目立 つユのである。 ある日銀OBはこう語る。 「日銀不祥事で退任を余儀なくされた当時、福井氏は絶望していた」 おそらく、福井氏はもはや、自分が日銀総裁に上り詰めることはないと諦めていたのかもしれない。 しかし、福井氏はその後、その実力を買われて日銀総裁の座を射止めた。これは、自らが意図しな かった展開だったのかもしれないが、それにしても、金融政策、なかでも量的緩和の効果がビビット に反映する証券市場において、企業買収ファンドという組織のアドバイザリーボードを務めたのは、 思慮が足らなかったのではないか。 関係業界への天下りが厳しく禁じられている昨今の状況下において、天下りならぬ天上りとでもい うような職業選択には不透明さを払拭できない。少なくとも、福井氏は量的緩和に終止符を打った現 在、総裁就任前に、村上ファンドのアドバイザリーボードに就任した経緯と、その後の関係につい て、自らきちんと説明する義務がある。 だが、本誌の取材に対する日銀政策広報の福永憲高氏の答えはこうだった。 「福井が民間人であった時代に『M&Aコンサルティング』のアドバイザリーボードのメンバーであっ たことは事実ですが、日本銀行総裁就任前に辞任しております。 当該メンバーに関する就任・辞任については、民間企業時代のことですので、日本銀行からは公

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表しておりませんが、今回のような質問に対してはお答えしてきております」 しかし、就任前に福井氏本人は、アドバイザリーボードのメンバーを辞任したことを自らは公表して いない。個別に照会があった場合には、その旨を答えてきたというのだが、これでは隠していたとい われても仕方がない。 中央銀行の説明責任、透明性は総裁個人にも及ぶことは、イタリア、ドイツなどの中央銀行幹部た ちが、不透明な振る舞いで辞職していることでも明らかだ。 (2006年4月号掲載)

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