Message2-19-0629

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  • Words: 2,711
  • Pages: 107
社 長 発 言 集 Ⅱ (平成 18 年~ )

(2005年11月名古屋工業大学における社長挨拶要旨)

社内報「つちおと」 平成18年1月号

p.2

25. 平成18年 愛知県建設業協会新年名刺交換会 会長挨拶

平成18年1月11日

p.9

24. 日本の建設業に経営が不在な訳

26. 「環境問題」から「アメニティとしての環境価値」へ

平成18年3月

p.12

27. 新入社員の皆さんに期待すること

社内報「つちおと」 平成18年4月号

p.19

28. 創立記念日にあたって

社内報「つちおと」 平成18年6月号

p.24

社内報「つちおと」 平成18年8月号

p.28

平成18年9月

p.33

31. 地震工学技術研究所設立記念式典 社長挨拶

社内報「つちおと」 平成18年11月号

p.35

32. 平成18年度矢作建設グループ技術発表会 社長挨拶

平成18年11月20日

p.37

公共事業正常化の議論に決定的に欠けているもの。

建設通信新聞 平成18年11月27日

p.39

平成18年11月28日

p.43

35. (日刊建設通信新聞 寄稿文)

社内報「つちおと」 平成19年2月号

p.67

36. 郷原信郎著「法令遵守が日本を滅ぼす」を批判する。

社内報「つちおと」 平成19年3月号

p.70

37. 新入社員の皆さんに期待すること

社内報「つちおと」 平成19年4月号

p.77

平成19年6月5日

p.82

〔中部経済同友会、環境委員長を務める山田社長による提言〕

( 5月12日創立記念式典での社長挨拶)

29. 第2の敗戦 -公共事業の黄昏- (日刊建設通信新聞 寄稿文)

ペテルブルグとニースの印象 30. (中部経済同友会 訪欧ミッションに参加して)

33.

(日刊建設通信新聞 寄稿文)

グローバル化の時代の建設業経営 34. (名古屋工業大学講義録) 平成19年 愛知県建設業協会新年名刺交換会 会長挨拶

グローバリゼイションと談合 38. (名古屋工業大学講義録) 39. 今年の夏休みには「罪と罰」を読もう

社内報「つちおと」 平成19年7月号

p.102

社内報「つちおと」 40. セールスプロモーション(販売促進戦略)について p.105 平成19年10月号 矢作建設工業株式会社

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24.日本の建設業に経営が不在な訳 (2005年11月名古屋工業大学における社長挨拶要旨)

本日は「地震工学技術プロジェクト」発足式にお招きを頂きまして大変ありがとうご ざいます。私共の会社もこのプロジェクトに先生方と御一緒させて頂けることを大変 光栄に思う次第です。 せっかくの機会でございますので日本の建設業が現在直面している課題について 経営者の立場から少しお話をさせて頂き、最後に当社の耐震補強技術であるピタコ ラムと地震工学技術研究所について触れさせて頂きたいと存じます。 日本の建設業は今ここにおられる皆様方がもし株の投資先として考えた場合、例 えばIT企業などと比べて真に魅力の無い投資先なのではないかと思われます。そ の最大の理由は皆さん方のように外部にいる人からみて、建設業に経営の強い力あ るいは意志といったようなものを感じとることができないからではないかと思います。 つまり会社として一体何をやりたいのか、どこに向かおうとしているのか、あるいは究 極的に目指しているものは一体何なのかなど一言で言えば企業としてのアイデンテ ィティーが確立されているようにはとてもみえないからだと思う訳です。 皆さん方が建設業に対して持たれるこのような直感は概ね正しいと思います。日 本の建設業に経営は不在です。何故でしょうか。それは長い間経営などというもの が建設業には必要でなかったからなんですね。その最大の理由は日本の建設業が その収益の大半を公共事業に依存してきたことによります。公共事業をやっている 限り建設業に経営は必要ないのです。何故ならば公共事業の買い手である発注者 と売り手である建設業の関係は、グローバル化された民間市場における買い手と売 り手との関係とは根本的に異なっているからなんです。 公共事業における買い手と売り手の関係は、同一のアイデンティティーに規定さ 矢作建設工業株式会社

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れたいわば身内同士の関係と言ってよいでしょう。これに対してグローバル市場に おける買い手と売り手の関係は、異なるアイデンティティーを持った他人同士の関係 と言えます。経営とは正にこの異なるアイデンティティーを持った、従って場合によっ ては互いに敵同士ともなり得る売り手と買い手が、それにもかかわらず共存共栄を実 現して行く為に不可欠な思想と実践のことに他なりません。 これに対し身内同士の関係にはそのようにダイナミックな思想も実践も必要ないの です。そこに必要なのは内部管理という調整技術だけであり、建設業は単にこれを 経営と勘違いしてきたんです。断わっておきますが私は建設業にこの技術が必要な いと言っているのではありません。私が言いたいのは外部世界と如何に関わるかを 考える経営というものは、明らかにこの技術とは別次元のものと言うことです。 しかし日本の民間市場もほんの10数年前までグローバル市場とはとても呼ぶこと のできない身内関係の優先する市場であったと思います。そこでは系列取引や資 本関係あるいは取引実績などで作られた濃密な身内の関係が経済合理性に優先し ていました。いや今でもその名残りは至るところに見えると言ってもよいでしょう。しか しこの20年来の民間部門における激しい国際競争が、そのような身内関係を優先さ せる非グローバル市場を急速に破壊して行ったことも事実です。その結果多くの日 本の企業が否応なく経営という困難な課題に直面していったのだと思う訳です。 しかし日本の建設業の主戦場である公共事業市場はこの間もグローバル化とは 無縁の身内市場であり続けました。これは戦後日本の矛盾を孕んだ公共性の在り方 によってそうならざるを得なかった事実で、建設業にそれをどうこうする当事者能力 はなかったと言えます。問題はこの非グローバルな公共事業市場で長い間充分な 利益を出すことができた為に、建設業が経営という困難な課題に深刻に直面したこ とがかつて一度もなかったということなのです。 建設業にとって民間事業とはその圧倒的なボリューム(我が社の場合全体の8 矢作建設工業株式会社

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0%)にもかかわらず、常にサイドビジネスであるにすぎませんでした。つまりバブル で需要が過熱した一時期を除けば、公共事業抜きでそれらの民間事業が独自に成 り立ったことはかつて一度もなかったのです。言い代えれば公共事業で稼いだ余剰 利益を前提として初めてそれらの民間事業は成立したと言っても良いでしょう。ところ がバブル崩壊後の財政の急激な縮減によって公共事業は戦後の歴史上初めて恒 常的なマイナス成長となり、またたく間にその市場規模はピークの50%の水準にま で落ちこんだのです。この水準で稼ぐ粗利益では民間部門の赤字を充分に補うこと ができないというのが正に今多くの建設業が陥った現況だと言えます。言い代えれ ば建設業は民間のグローバル市場におけるグローバル経営というものについ最近、 他の多くの民間企業に比べれば周回遅れで直面したと言えましょう。 しかし建設業にとって幸か不幸か公共事業は減ったと言ってもなおピークの50% のレベルで存続しています。建設業が経営のグローバル化から目を背けて、この非 グローバル市場を頼りにただ生きて行くことだけならばしばらくは不可能ではないか もしれません。事実そのように考えている建設業が日本では大半であると私などは 思っています。 しかしもし私が投資家ならば勿論買いは、他の産業より周回遅れではあっても建 設業の中ではトップランナーとして数年前からグローバル経営をスタートさせ、それ を断行してきた我が社のような企業であると思います。しかも我が社は今や経済のグ ローバル化の意味を最も深く理解する企業の一つでもあると自負しています。それ は他の産業と異なり建設業が殆んど成熟技術だけで成り立つ産業であることによる と思います。つまり建設のハードウェアだけでは我々は顧客に対して差別化ができ ないんですね。 しかしこれは現在におけるすべてのハイテクハードウェア産業の未来像ではない でしょうか。つまり形あるモノだけによる差別化に拘わっていたのではどんな企業も 矢作建設工業株式会社

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グローバル化の時代に永続的で普遍的な差別化は出来ないということに、成熟産業 である建設業であるからこそ我々は逸速く気付いたとも言えるのです。 我々はグローバル化の時代の建設業を知識集約産業と位置付け、我が社が売る べき真の商品は情報であると考えています。その情報とは我々の顧客が建設物を手 に入れることで得たいと考えている価値(=アメニティ)とそれを実現するコストとの間 にある連関情報です。我々はあらゆるアメニティとそれを実現するコストの連関につ いての専門家なのです。これが我々のアイデンティティーに他なりません。 このように我が社のアイデンティティーを定義した瞬間に我々は顧客のアイデンテ ィティーについて無関心であることができなくなります。建物のアメニティとは顧客が 自らのアイデンティティーをよりよく実現する為の手段に他ならない訳です。言い代 えれば顧客のアイデンティティーの在り方によって顧客の必要とするアメニティはす べて異なる訳です。従って顧客のアイデンティティーについてもし我々が無知であ れば、そもそもどのようなアメニティが顧客に最もふさわしいのか我々は全く見当も つかないでしょう。だからそれを知る為に我々は顧客のアイデンティティーに深くコミ ットしなければならないのです。

建設物の価値 (=アメニティ)

アイデンティティーの よりよい実現

顧客

コスト

建設業

矢作建設工業株式会社

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しかしこれだけのことならば例えば設計事務所や建築デザイナーあるいはデベロ ッパーなどにも充分可能なことであるように見えます。しかし我々にあって彼らに欠 けているもの、それがアメニティに連関したコスト情報というお客様にとっての他者の 視点なのです。我々は顧客の表面的なアイデンティティーに安易に迎合するような アメニティを有した建物の企画をしたり設計はしません。それはアメニティとコストの 連関について知らない設計事務所や建築デザイナーあるいはデベロッパーならや りかねないことかもしれません。しかしその時彼らは他者として顧客のアイデンティテ ィーにコミットしているのではないのです。それに対して我々はコストという顧客にと って最も強力な制約条件の中で、顧客が真にそうありたいと願う彼自身とは一体何 であるか、そしてそれを実現するのに最も適切なアメニティとは一体何であるかを顧 客と共に考えるのです。 それならば設計部を自前で持つ他のゼネコンになぜそれができないのでしょうか。 身内市場である公共事業に依存する多くのゼネコンはそもそも自分とは異なるアイ デンティティーというものがあることを理解しません。というかそういうものに全く無関 心と言った方が良いかもしれません。しかし「顧客とは敵の別名かもしれない。」など と考えたこともない彼らがそうなってしまうのは言ってみれば必然です。従って彼らの 行う企画や設計は顧客のアイデンティティーを深く理解した上で生まれるアメニティ を表現したものには成り得ません。それはせいぜい建設についてアマチュアである 顧客の言うなりにただ図面を引いたものにすぎません。あるいは逆にゼネコンの中 にある設計部が独立した設計事務所のように権力を持ち施工部と対立してしまうこと で、コストを知っているというゼネコン本来の強みを全く生かすことができないケース もあります。どちらもコスト情報に最も近い施工部自体が他者である顧客のアイデン ティティーを理解できない為に、顧客にとって最適のアメニティとは何かという問題に 辿り着けないという点では同じです。 矢作建設工業株式会社

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我が社にあっては施工を自社で行う第一の目的は他ゼネコンのように利益をそこ で具現化する為という以上に、顧客にとって最適のコスト=アメニティ情報とは何かを 常に押えておく為と言った方が適切です。利益はそうすれば自然についてきます。 従って我が社の目指しているのは総合請負業という伝統的なゼネコンのあり方という より、例えばトヨタのような自動車メーカーが考えていることに近いかもしれません。 自動車メーカーが自前の工場生産に拘わるのは工場での利益の具現化という目的 以上に、顧客にとって最適のコスト=アメニティ情報とは何であるかを常に知っておき たいという経営の要請にある筈です。 市場のグローバル化が進みきのうのハイテクが今日のローテクに簡単になってし まうような世界にあって、企業に真の差別化を可能にするのは顧客のアイデンティテ ィーをよりよく実現する為の情報そのものを商品とすること以外にはあり得ないように 思われます。しかしその情報とは単に或る価値についての情報なのではなく、その 価値を実現する為のコストという他者の視点に裏打ちされた連関情報でなければ無 意味です。その為に我々は一方で建物のアメニティのあらゆるバリエイションとそれ らを実現するコストの連関情報が詰まった我が社の仮想情報図書館が、常に最新鋭 のものとなるよう整備し続けなくてはなりません。その上で我々は顧客のアイデンティ ティーの真の姿が何であるかを学ぶことによって、その情報図書館から商品としての 最適情報を見つけ出すのです。これがグローバル化の時代に知識集約産業として 建設業が、普遍的な差別化を実現する唯一の道筋であると私は思うのです。 最後に我が社独自の耐震補強技術であるピタコラムと来年7月に開所予定の地震 工学技術研究所について一言申し上げます。 ピタコラムは現在急速に売り上げを伸ばしていますが、いずれ商品としての寿命も つきるでしょう。また現在のような日本の耐震補強市場自体も長期的には小さくなっ て行くことは間違いありません。 矢作建設工業株式会社

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従って企業としてはピタコラムの次に何を為すべきかを考えておくのは当然のこと です。それはやはり市場のグローバル化に対応して行くということがキーワードにな ります。ピタコラムが実現しているものは、買い手(建築ユーザー)が現代建築に期 待している基本的アメニティの一つである「地震に対する高度かつ高品質な安全」と いうものです。言い代えればピタコラム自体はこの建築の基本的アメニティを実現す る為の一つの応用技術であるにすぎない訳です。従って経営的に肝心なことはピタ コラム自体ではなく、むしろこの「地震に対する高度かつ高品質な安全」という買い 手が現代建築に期待している基本的アメニティの方なのです。これは買い手のアイ デンティティーの実現に直結しています。すべてはここから考え始めなければなりま せん。たまたま日本における中低層の既設建築物にはピタコラムはこの基本的アメ ニティの要請に高い水準で、かつ低コストに応えられますがその他の建築物あるい は市場を外国にまで広げれば、当然この要請にもっと高いレベルで応えたり、ある いはもっと低コストに応え得る様々なその他の技術が必要になる筈です。例えばこ の基本的アメニティをもっと高品質に実現しようとするならば、耐震(こわれない)技 術より制震や免震(ゆれない)技術の方が更に優れています。あるいはこの基本的ア メニティを例えばファイバーコンクリートなどを使うことでもっと低コストに実現できれ ば、先日大地震に見舞われたパキスタンのような開発途上国であっても使ってもらえ るかもしれません。従って当社はピタコラムの専門家である前にこの「地震に対する 高度で高品質な安全」という建築の基本的アメニティと、それを実現するコストとの連 関についての専門家でなければならないのです。その為には地震の建築物に及ぼ す影響を幅広く研究する必要がある訳で、それが今般の地震工学技術研究所の構 想に結び付いた訳です。当研究所を拠点とする「地震工学技術プロジェクト」からも 様々な成果が生まれることを心から期待しております。 御静聴ありがとうございました。 矢作建設工業株式会社

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25.平成 18 年 愛知県建設業協会新年名刺交換会 会長挨拶 平成 18 年 1 月 11 日 皆様、新年明けましておめでとうございます。 ただ今ご紹介頂きました愛知県建設業協会会長の山田でございます。 本日は新年早々公務ご多忙の中、愛知県知事、名古屋市長ならびに中部地方整 備局長様をはじめご来賓の皆様方多数のご出席を賜り会員を代表いたしまして心か ら厚く御礼申し上げます。 さて公共事業におきましては H18 年度予算原案が H17 年度比 4.4%減と 5 年連 続の削減となり、さらに地方自治体の厳しい財政状況やプロジェクト特需の反動等を 併せ見ても事業量の縮小は当面続くことが予想されます。また改正独占禁止法が 1 月 4 日より施行され、建設業界への風当たりは益々厳しくなることと思われます。 そのような中で昨年末に表面化した建築の耐震偽装事件は、建設業界に内在す る構造的な問題を浮き彫りにしたように思われます。それは我々の業界がいかに外 部の世界に対して無関心であり続けてきたかということです。 我々にとって外部の世界とはまず第一に我々のお客様のことです。或いはお客 様がやろうとしていることです。例えばデベロッパーのマンション設計に対する拘りと いうものがどのような理由から生まれてくるのかを、もし我々が彼らの立場で完全に 理解できたとすれば、デベロッパーがいかに多くの間違ったことをやっているかが 我々には判る筈です。 つまりモノづくりのコスト情報を握っている我々から見れば、デベロッパーのやろう と望んでいることはもっと合理的かつ効率的に解決できることである筈なのです。 しかし我々がデベロッパーの立場に立って彼らの拘りを文字通り完全に理解する ことは不可能です。にもかかわらず我々は彼らの拘りに深い関心を持つことはできる 筈です。この深い関心は結局デベロッパーという他者に対する深い同情心あるいは 矢作建設工業株式会社

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尊敬の念からしか生まれようのないものでしょう。 同じことはデベロッパーにも言えます。もし彼らが我々の握っているコスト情報に 完全に精通していたら、もっと合理的で効率的な設計で自らの拘りを実現できる筈 です。しかし彼らにもそれは現実には不可能なのです。にもかかわらず彼らも我々 の握っているコスト情報に深い関心を持つことはできる筈です。そしてやはりそれは 建設業という彼らにとっての他者に対する深い同情心あるいは尊敬の念が無くては 生まれようのないものなのです。 しかし現実はどうでしょう。デベロッパーと建設業は互いに相手のやっていること について尊敬の念に基づいた深い関心を持ち合っているでしょうか。答えは No で す。両者の間の関係は一言で言えば相手への無関心としか言いようのないものでし ょう。 しかし今回の事件ではっきりしたのは、両者は今までのように単独ではもはや生き 残って行けないということなのです。互いに今までのように相手に対して無関心であ っては生き残れないということがはっきりしたのです。今回の事件は、聞く耳や見る 目のあるデベロッパーと建設会社にそのようなことを思い知らせた筈です。そういう 意味では今回の事件は両業界にとって大変良いことでもあったのです。 建設業界が外部の世界に対してこんなにも無関心で鈍くなってしまったのは、長 年の慣行から生まれた悪弊にすぎません。しかし黙って公共事業をやっていれば利 益を出して生き残って行ける時代は既に終ろうとしています。我々が生き残ろうとす るのならば外部の世界にもっともっと関心を持たなければなりません。 皆さん、我々は我々の受信感度を飛躍的に高めて外の世界で起っていることに 深い関心を持とうではありませんか。そしてその高められた感性に基づいてお客様 に対して或いは社会に対して発信もしてみようではありませんか。お客様も社会もそ のような発信を待ち望んでいる筈です。何故ならば我々の熟知しているモノ作りのコ 矢作建設工業株式会社

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スト情報とは世界でも我々しか知らない大変貴重な情報なのですから。 他者から聞く耳を持った時、我々は本当は大変強い存在なのです。そのことに自 信を持ってこの難局を皆さんと共に乗り切ることを祈念いたしまして、私の新年のご 挨拶とさせて頂きます。

矢作建設工業株式会社

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26. 「環境問題」から「アメニティとしての環境価値」へ [中部経済同友会、環境委員長を務める山田社長による提言] 平成 18 年 3 月

1.提 言 「環境問題」から「アメニティとしての環境価値」へ 経済のグローバリゼイションをもたらした高度情報化社会(ネット社会)は、世界中 の誰もがいつでもどこでも低コストで情報のやりとりをすることを可能にした。 このようなネット社会では、世界各国の市民がそれぞれの地域状況に応じたユニ ークな発想の下で実践した様々な環境への取組みが情報発信され、しかもそれらは 互いに影響を与え合っている。それらの取組みから分るのは市民が環境を単に解 決すべき「問題」としてネガティブにとらえているのではなく、市民の生活をより豊か で意味あるものとする為に不可欠な「アメニティ(快適さ)としての環境価値」としてポ ジティブに、かつ柔軟に考えていることである。言い代えればこの「アメニティとして の環境価値」こそが、「市民のアイデンティティーの実現」にとって最も重要な役割を 果すと多くの市民は考えているのだ。正にこれが愛知万博市民パビリオンの発したメ ッセージでもあった。 そうであれば企業も環境価値とは何かを企業単独の発想で追及するのではなく、 幅広く世界各国のそれぞれの現場で市民によって発想され実践された「アメニティと しての環境価値」とは何であるかを学んで行かねばならない。 ところでこれらの「アメニティとしての環境価値」を実現するコストについて、市民は 必ずしも充分な情報を持っている訳ではない。そうであれば「アメニティとしての環境 価値」というせっかくの市民の発想と実践も、社会全体の中では効率的に実現不可 能な「絵に描いた餅」となりかねない。むしろこれらのコストについて最も良く知り得る 立場にいるのは企業の方である。何故ならば企業こそが市場原理を通してどのよう 矢作建設工業株式会社

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な価値であっても最も効率的、合理的に作り得る権能を授けられた唯一の社会的主 体であるからだ。「アメニティとしての環境価値」もその例外ではない。企業こそが「ア メニティとしての環境価値」実現のコストを最も良く知り得るのである。 言い代えれば企業が市民によって発想された「アメニティとしての環境価値」につ いて学ぶことにより、それらを最も効率的、合理的に実現するコストについての情報 が社会の中に初めてもたらされる。逆にこれらの情報こそ市民が企業から最も学び たいことでもある筈だ。何故ならばこれらの情報によって「アメニティとしての環境価 値」自体も建設的な影響を受け、その内容が更に深まって行く可能性を持つからだ。 つまり企業と市民がこのように自己に欠けているものを互いに学び合い補い合うこと が、「市民のアイデンティティー」を社会全体の中で最も効率的かつ合理的に実現す る近道となるばかりでなく、企業にとっても市場の中で環境問題を主体的な当事者と して解決できる唯一の道筋となるに違いない。

市民のアイデ ンティティ-の 実現=市民の 豊か で 意味あ

コスト

アメニティとして の

企業

市民

〔図 A〕

矢作建設工業株式会社

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〔補足〕 図 A の説明 最も普遍的な公共性 企業のアイデンティティー

市民のアイデ ンティティ-の 実現=市民の 豊か で 意味あ

コスト

アメニティとして の

企業

市民

・図 A はグローバリゼイションの中で有り得べき企業と市民の最良の関係=理念的な 関係を示す。 ・それは政府という第3項抜きで「最も普遍的な公共性」が実現する可能性をも示唆 する。

グローバリゼイションは一方で企業と市民のエゴイスティックな行動(いわゆる「ハゲ タカ」的なものはその代表例である。)を生む契機を常に発生させるだろう。それは 社会の様々な情報を取得する能力上の差異が、グローバル化(高度情報化)の過程 で両者の間に常に生まれるからである。しかしグローバル化の本質である高度情報 化社会は、そのような差異が長期にわたって両者の間に存続することも又許さない。 グローバリゼイションの中では非常に短期間の内にこの差異は均衡化するのである。 言い代えればグローバリゼイションにおいてこのような差異が生まれるのは偶然の事 故の結果のようなもので、実は両者にとって本質的な差異とは言えないのだ。従って グローバリゼイションの中で普遍的、理念的な企業・市民関係を考える場合、これら の差異を前提としてはならない。そうではなく、むしろこれらの差異が完全に均衡化 矢作建設工業株式会社

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された状態を努めて想像してみることが重要である。そのうえでなお両者の間に残 存する差異は、企業と市民それぞれのアイデンティティーの差異であり、これのみが 両者の本質的差異であることが分かる。この企業と市民のアイデンティティーの差異 をそれぞれが認め、自覚し、しかも相互に尊重しあった時、上図に示されるような理 念すなわち「最も実り多い企業と市民の関係」――それはカントのいう「世界市民主 義的な関係」の一形態である――が出来するだろう。

2.提言に至るプロセス (1)提言へのアプローチ 1996 年からの 8 年間にわたる前回までの中部経済同友会環境委員会は、環境問 題に対する企業活動の様々な実践事例を多様な視点から調査検証し提言につなげ てきた。 今回はグローバル化の進むこれからの経済の中で「企業は環境問題をどのように 市場の中で位置付けられるのか。」を考察し、若干の調査検証と併せて提言につな げて行くこととした。 これまで環境問題は官による上からの規制や政策によって解決を図ろうとすること が多かった。このため企業にとって環境問題とは端的に言えばそれらの規制や政策 に従うための負荷や負担のことであった。つまりこれまで環境問題は企業にとってや むを得ない受け身の対応をとらざるを得ないものであり、本質的には企業が環境問 題の当事者となることはなかったのである。 企業が環境問題に対して当事者となり得るのは、「様々な価値を市場原理を通し て最も合理的かつ効率的につくることが出来る」という企業本来の機能を使うことによ ってである。言い代えれば企業が当事者として積極的に環境問題を解決していくた めには市場の中で環境を考え直さなければならない。しかしそのためには環境を 矢作建設工業株式会社

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「問題」ではなく「価値」と定義しなおす必要があるだろう。ところで市場の中では何 が「価値」であるかを決定するのは企業ではない。それを決めるのは市民 (需要者、 エンドユーザー、買い手)なのである。つまり企業が環境問題を市場で解決するため には、市民が考える「環境価値」とは何かをまず学ぶ必要があるのだ。

(2)環境価値とネット社会の果たす役割 経済のグローバリゼイションをもたらした IT革命とそれが生んだネット社会は、市民 が世界中の市民と情報のやりとりをすることを極めて容易にした。そのために市民の 情報収集力や発信力は格段に向上し、かつては中央に集中していた情報や知恵は 地球規模で社会に分散した。 これまで環境問題の解決に向けてそれぞれの現場で単独に発想し実践してきた 市民も、同じ関心を持つ他地域の市民とネットワークを形成し地球規模で交流するこ とが可能になった。その結果市民の考える「環境価値」は互いに影響を与え合うこと で大きな拡がりと深さを持つようになった。言い代えればネットによる情報交流を通じ て、市民は「環境価値」を個々の市民の個別的な願望を実現するためだけの価値に 留まらせず、世界の市民にとって共通の普遍的な願望を実現するための公共的な 価値にまで昇華させたのである。 これは環境に関する市民のグローバルな共同体がネットワークによって正に形成 されつつあるということで、このことによって初めて企業も環境を市場の中で位置付 けることが可能になったのだ。しかし企業がグローバル市場におけるこのような価値 の製作者であろうとするならば、世界の市民にとって何が普遍的な願望であるかに ついても思いをめぐらさなければならないだろう。

矢作建設工業株式会社

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(3) 提言への着眼点 (a)愛知万博における市民参加に注目 おりよく今回の当委員会活動期間中に開催された愛知万博は「環境」がメインテ ーマであり、そこでは環境に関する市民のグローバルな共同体がネットを通じて現 実に形成されつつあるのを垣間見ることができた。なかでも瀬戸会場における「市民 パビリオン」では環境に関する世界各国の市民のメッセージやプロジェクトが連日の ように情報発信された。我々はここで情報発信された世界各国の市民によるメッセー ジやプロジェクトを調査することで、市民の考える「環境価値」とはどのようなものかを 検証し、併せて市民にとっての「普遍的な願望」すなわち「市民にとってのアイデン ティティーの実現」とは何かを考えてみた。

(b) 検証 ― 市民にとって「環境価値」とは何か ― 我々は愛知万博市民パビリオンにおいて「地球を愛する100人」という名称で情 報発信された多くのメッセージとプロジェクトを調査し、市民の考える「環境価値」とは どのようなものであるかを探った。 それらのメッセージやプロジェクトは各地域の市民の生活に根ざした、大変素朴 だが卒直で切実な願望から生まれたものである。そこから分かるのは市民が自らの 生活あるいは人生を如何に「楽しくよろこばしく、またつながりを持ったものに」したい と望んでいるかだ。「環境価値」とは正に彼らの生活あるいは人生がそのようなものと なる為に不可欠なアメニティ(快適さ)のことである。このアメニティとは広い範囲の快 適さのことであり、例えば「安心」「安全」「次世代の幸福」なども含まれよう。つまり市 民は彼らのアイデンティティーを実現するために「アメニティ(快適さ) としての環境価値」を必要としているのだ。 矢作建設工業株式会社

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会員の皆様にはこの「地球を愛する100人」によるメッセージとプロジェクトに、添 付のDVDを通して是非直接ふれて頂き、「アメニティとしての環境価値」と「市民にと っての普遍的な願望」=「市民にとってのアイデンティティーの実現」のイメージをま ず感じて頂きたい。また本提言第 3 章は当委員会ワーキングメンバーによる「地球を 愛する100人」の要約文であり、第4章はその内の一つである「アサザプロジェクト」 をワーキングメンバーが調査取材した記録である。DVD同様に参考にして頂きた い。 なおこのDVDのコピー化と会員への配布をお許し頂きました万博協会には深謝 致します。

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27.新入社員の皆さんに期待すること 平成 18 年 4 月 3 日

今年も皆さん方のような新卒の新入社員が入社する4月がやってまいりました。考 えてみると前月に学校を卒業したばかりの若い人々を、4月にまとめて採用するとい う制度は不思議なものであるような気がします。もっとも現在はフリーターのように学 校を卒業しても定職につくのではなく、アルバイト的な仕事で生活している人も多い ようですから、皆さん方のような新卒新入社員が全く普通であるとは言えないのかも しれません。 しかしかつてはやはり社会全体がそれほど豊かではなく、学校を卒業したらすぐ に実社会の一兵卒として、多くの若者は企業に就職するのがあたり前であった訳で す。つまり学校を出るまでは実社会という戦場に赴くまでのモラトリアム期間で、それ が卒業と同時に一転して大人になるように社会から要請されていた訳です。 勿論実際には昨日まで子供であった者がすぐに大人になれる訳がなく、そのよう な振りをすることを強いられたというのが正確なところでしょう。恐らく皆さん方も今日 からは、少なくとも見た目には大人のように振るまわなければいけないと緊張してい る筈です。 しかし実際に子供から大人になるのは、皆さん方が想像している以上にむずかし いことです。特に現代のような豊かな時代にあっては、なおさら一人の子供が大人 へと成長することは困難であるように思います。事実大人になることなく、子供のまま でいる人が社会には無数にいます。それでも一見何とかなってしまうのが、豊かな社 会の恐ろしいところです。 つまり外見や見てくれが大人のようであれば、豊かな社会にあっては大人である 振り、つまり世間や自分自身を大人であるかのごとくゴマかすことは比較的簡単なん 矢作建設工業株式会社

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ですね。でもそういう人々は実際には子供のままですから、何か不測の事態が起る と一気にその本性が子供であったことを暴露します。そのことで自分が今まで子供で あったことに気がついて反省し、それをきっかけに大人になって行けば良いのです が、中々年をとってから、あるいは社会的地位を得てからそのような反省に至ることも また難しいのです。ですから皆さんは出来るだけ若い内にそのような不測の事態に 出会い、仮にそのことで大きな挫折経験をするとしても、その後自分が子供であった ことを反省できればそれは大変ラッキーなことであったと思って下さい。 そもそも大人とは何でしょうか。それは子供と何が違うのでしょうか。子供からみた 世界と言うのは、あくまで自分一人の眼から見た世界、自分一人の頭で考えた世界 のことなんですね。だからどんなに彼の眼が良かったり頭が良くても、すべて彼の世 界は自分だけを起点とした世界です。 皆さん方の多くはそれは当然のことであるし、仕方の無いことではないかと思われ るかもしれません。確かに世界がそのようなモノとしてまず私達の前に現われるのは、 いたしかたのないことです。しかし同時に私達が未知のことについても想像する勇 気を本当に持っているのならば、私達以外の他人もすべて自分一人を起点とした世 界をそれぞれ持っていることに思い至る筈です。大人とはこのような「想像する勇気」 を持っている人のこととも言えます。何故そのようなことを想像してみるのに勇気が必 要なのでしょうか。それは勿論「私の世界」が「他人の世界」と実は全く両立していな い可能性を認めることになるからです。これはそのようなことを考えたこともない子供 にとっては、大変恐ろしいことでしょう。子供は自分の前に現われている世界と全く同 じ世界が、他人の前にも現われている筈だと思いこんでいるからです。ですから子 供というものは結果的に自分の世界の中にだけ安住することを好みます。しかし想 像する勇気を持った大人は、自分の世界と他人の世界が全く異なっている可能性を 受け入れ、すべてはここから考え始めなければならないと覚悟した者のことと言えま 矢作建設工業株式会社

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す。 確かに法律や文化、習慣、伝統などの作る様々な社会的規範や、同じ言語を使う ことによる相互理解の可能性によって、世界は一見誰にとっても同じように安定した 秩序を保っているかのようにみえます。しかし逆に私の世界と他人の世界が本当は 全く両立していないからこそ、そのような様々な社会的規範や言語による相互理解 が長い時間をかけて育まれてきたとも言える訳です。 皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、17世紀イギリスの思想家でホッ ブスという人がいます。彼はこのような社会的規範や規制の全くない状態を、人間の 本来あるべき自然状態と呼び、そこでは万人の万人に対する闘争が日常の当り前の できごととなると言っています。何故ならばこの自然状態においては人間がそれぞ れのエゴイズムを何の制約もなく追及する為に、最終的には互いに殺し合うしかなく なるからだと彼は言うのです。例えば国が統一されるまでの内戦とは正にそういうも のかもしれません。日本の戦国時代はその良い例です。そしてこのような恐ろしいこ とにならないようにする為に、あるいはこのような恐ろしいことを終らせる為に、人間 一人一人の世界が互いに異なっていることは一時棚上げにして、相互に社会契約 を結んだのが、リバイアサンすなわち国家であると言うのです。そしてこの国家によ って作られる様々な社会的規範によって、自然状態では殺し合うしかなかった人間 は、初めて平和に共同生活を営むことができるようになったと言っています。このよう なことを考えたホッブスも、また極限まで想像できる勇気を持った大人であったことが お分かりになると思います。 しかしこの社会契約においても私と他人の世界が異なっているという事実は、先 程も言ったように一時棚上げにされただけなんですね。社会契約によって作られた 様々な社会的規範によって、世界は一見安定した秩序を保っているかのように見え ますが、この事実が無くなった訳では決してないのです。 矢作建設工業株式会社

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ところで経済のグローバリゼイションとは、世界中の市場が高度情報化によって急 速に一体化したことを指しますが、そのことで市場はかえって収拾のつかない自然 状態へ回帰してしまったとも言えます。グローバル化以前の市場では例えば大企業 と中小企業や個人の間には質量ともに大きな情報格差があり、つきつめればこのこ とが大企業の持つ圧倒的な力の源泉となっていました。ところが IT 革命によってなし とげられた高度情報化は、皮肉にもこの情報格差を急速に埋めてしまったのです。 それは今まで市場の弱者であった中小企業や個人も、本質的には大企業と対等な 力を得たことを意味します。従って今まで大企業中心とは言え、ある種の安定や秩 序が市場の中には形成されていたのですが、市場が高度情報化し一体化したこと でかえってこの安定や秩序はなくなってしまったのです。 この市場における自然状態の中では、従来のように情報格差に基く差異から生ま れる商品の差別化は、極く短期間しか通用しません。何故ならば儲かるビジネスに は世界中から誰でも簡単に参入ができるからです。多くの人々はそのような市場に おける商品の差異とは、結局価格によるものしかなくなると考えています。もしそうで あればグローバル市場に明るい未来があるとはとても考えられません。それは形を 変えた「万人の万人に対する闘争」だからです。 そうではなくもう一つ別の差異があることに私達は気がつかなければなりません。 それは先程申し上げたように、私達一人一人の世界が異なっているということから生 まれる差異です。これを私達一人一人のアイデンティティーの差異と言っても良いで しょう。この差異に気がつくとは、他人のアイデンティティーに関心を持ち、それを尊 重するということに他なりません。その結果他人のアイデンティティーも私のアイデン ティティーと同様に完全無欠なものではないことに私達は気がつく筈です。しかし正 にそのことによって両者は互いに足りないところを補い合う必要に目覚め、そうする ことでより良い生活や人生を送れる可能性にも思い至る筈です。 矢作建設工業株式会社

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このアイデンティティーの差異への関心から生まれる商品の差別化こそ、私達矢 作建設の目指しているものです。それは我が社の設計施工能力や、マンションの企 画開発能力あるいは販売力、更にはピタコラムという我が社独自の耐震補強工法に 至るまですべて同じであります。これらの商品や能力が差別化されるかどうかは、顧 客を始めとする我が社にとっての他者と、我が社のアイデンティティーの差異に、我 が社がどれだけ敏感であるかにかかっているのです。あるいはどれだけ多くの社員 が「想像する勇気を持った大人」であるかが問われている、と言っても良いでしょう。 私はここで明言しておきますが、我が社にあって評価されるのはこの大人だけで す。子供は残念ながら評価されません。しかし殆どの皆さんは、今はまだ子供でしょ う。でもだからと言って落胆しないようにして下さい。先程も言ったように皆さん方がこ れからの失敗や挫折の経験を正面から受けとめさえすれば、皆さん方はいつでも大 人へと生まれ変われるのです。皆さん方の価値ある失敗や挫折とその後の成功を心 よりお祈りいたします。

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28.創立記念日にあたって (5月12日創立記念式典での社長挨拶)

当社はあさっての5月14日に57回目の創立記念日を迎えます。しかし現代という 時代が昭和24年の創立時とは大きく異なる時代であることは言うまでもありません。 殊にこの20年近くの間に我々が経験してきたことは、過去に例のないものであった と思います。それは一言で言えば経済のグローバリゼイションということです。我々 建設業は最初は少しずつしかその影響を受けなかったのですが、気がついてみた らいつのまにかグローバリゼイションの大波にどっぷりと呑みこまれていました。 今からふりかえって考えてみればそれは当然のことだったのですが、我々のお客 様がグローバル化の波に洗われているのに、我々建設業だけがその波から逃れら れる訳はそもそもなかったのです。にもかかわらずなかなか我々はそのことに気が つくことができませんでした。その大きな理由の一つが公共事業の存在です。公共 事業という最も非グローバルな市場で長い間利益を出せた為、我々は経済のグロー ひとごと

バル化を他人事として考えていたことは否めません。 しかし我々が聖域として考えてきたこの公共事業市場も、今年になって一年前に は誰も予想できなかったほどの激変を遂げました。公共事業市場で今起っているこ とは、正にこの市場では起る筈のなかったグローバリゼイションそのものと言えます。 公共事業市場とは一般の民間市場と異なり、買い手に生き残りの為の競争が課せら れていない特殊な市場です。このような買い手独占の特殊な市場である公共事業が グローバル化されれば、その帰結は売り手間のダンピング競争でしか有り得ないの は当然のことです。もはや我々は今までのように公共事業に頼ることはできません。 我々が生き残って行く為には、民間のグローバル市場で成功を治めるしか無いこと がはっきりしたのです。 矢作建設工業株式会社

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民間市場の買い手は自らもグローバル市場で生存をかけた厳しい競争をしてい ます。正にこの理由によってのみ、民間市場はグローバル化されたからと言って、必 ずしも価格だけのダンピング競争市場にはならない可能性を持ちます。何故なら買 い手は買い手自身の競争に打ち勝つ為に、彼らの生き残りにとって最も合理的な手 段を提供する売り手を選択するに違いないからです。この時価格すなわちコストは 彼らの合理的な生き残りにとって一つのファクターであるにすぎません。 例えばある商品の価格が恐ろしく高くとも、それが買い手の生き残りにとって重要 な価値を持っているのならば、その選択が買い手にとって最も合理的である場合も 当然あり得ます。一般的に買い手は、「価格とそれが実現している買い手にとっての 価値」の最適な組み合わせを持った商品を常に選択しようとするでしょう。ここで何が 「最適な組み合わせ」であるのかは、彼らの生存を賭した主観が決定することです。 従ってもし売り手が買い手の直面している生存競争や、その結果生まれてくる彼の アイデンティティーというものをありありと想像することができるならば、売り手は何が 買い手にとって「価格と価値」の最適な組み合わせであるかを知り得るし、またそのよ うな商品を開発し得るのです。 建設業においても同様です。我々は元来建設コストの専門家です。ですからどん なに複雑な建設物でも少々の時間があればそのコストがどれだけかかるかを正確に 知ることができます。しかしこのコストが実現している建設物がお客様の生き残りにと ってどのような意味や価値を持っているのかを、我々は我々元来の知識から知ること はできないのです。それを知る為にはやはりお客様の直面する生存競争を、できる だけお客様の立場に立ってありありと想像することでお客様のアイデンティティーに 迫って行く他ありません。そうすることによって初めて我々はお客様の生き残りに最 も適した「コストと価値の組み合わせ」が何であるかを知ることが可能になります。 我が社が会社全体としてそのような想像力を持とうとするならば、私達一人一人が 矢作建設工業株式会社

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他者とのアイデンティティーの差異について敏感であるような企業文化を是非育て て行く必要があります。しかしこれは従来の企業経営において、実はあまり重視され てこなかったことです。何故ならば従来の経営の発想では、企業が顧客とのアイデ ンティティーの差異に必ずしも正面から向き合わなくとも、自らのアイデンティティー と信ずるもの、言い代えれば自分が正しいと信ずる理念に頼ることで商品の差別化 は充分に可能であると考えられてきたからです。 そうであれば会社全体がその正しいと信ずるアイデンティティーあるいは理念に ベクトルを一つに合わせ、一人一人の社員にもその為の規範や規律を求める方が、 経営としては効率が良いことになります。その場合私達一人一人が他者とのアイデ ンティティーの差異に敏感であるような企業文化は、このベクトルへの結集を妨げる ものとしてむしろ敬遠されてきたとさえ言えるでしょう。しかしIT革命が引き起こした 社会の高度情報化は、このような企業のアイデンティティーや理念のあり方に疑問 符をつきつけたと思います。 現代のグローバリゼイションをもたらした高度情報化社会は、今まで資本力のある 企業に集中していた様々な情報や知識を一気に世界中の消費者やライバル企業に まで拡散してしまいました。しかしこれらの情報や知識の独占あるいは寡占こそ、実 はかつて企業が商品を差別化する際の原動力であったもので、企業の利益の源泉 でもあったのです。つまりこれまで企業と顧客との間、あるいは企業とライバル企業と の間には厳然とした情報格差があり、これこそ企業が顧客のアイデンティティーに必 ずしも正面から向き合わなくとも、商品の差別化を可能にした根本的な理由だった のであり、理念やアイデンティティーがその根本の理由であった訳ではないのです。 ところが20世紀末に生まれた高度情報化社会はそのような情報格差をかつてのよう には簡単に作らせもしないし、またそれが一旦出来たとしても容易に長続きをさせま せん。 矢作建設工業株式会社

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このような事態となって私達は初めて、顧客のアイデンティティーにダイレクトに向 き合う必要に晒されたと言えます。高度情報化社会においても私達と顧客との間に 最後まで残る差異とは、情報格差に基く情報や知識の差異ではなく、それぞれのア イデンティティーそのものの差異に他ならないからです。顧客とのアイデンティティ ーの差異に私達が深く下降し沈潜してみることで、初めて私達のアイデンティティー も顧客に対して独自のものとなり、それは商品の差別化を可能にするものともなり得 るのです。このようなことを高度情報化社会は明らかにしたと思います。そうであれば 我々がこれから目指し作って行かなければならない企業文化も、かつてのようなもの であってはならない筈です。 異質な他者の持つ差異は確かに私達を途惑わせたりムッとさせることもある訳で すが、それは大抵の場合私達本来の自己に何か欠けているものがあることを私達に 告げるシグナルです。そんなことは知りたくないから他者に対して無関心になる、と いうのはエゴイズムの観点からみれば大変分りやすい理屈ですが、そのようにして いては私達が生きのびて行く為のアイデンティティーを確立することは出来ません。 その意味でグローバリゼイションとは私達がエゴイストであっては生き残れない時代 と定義できるかもしれません。このような時代を難儀な時代と感じるか、それとも人生 において他者との掛け替えの無い関係を一つでも多く作れる良い時代と感じるかは 我々次第なのです。

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29.第 2 の 敗 戦 ― 公共事業の黄昏 ― (日刊建設通信新聞への寄稿文 平成 18 年 6 月 26 日掲載)

今年になって日本の公共事業市場で起っていることは、正にこの市場では起こる 筈のなかったグローバリゼイションそのものと言える。日本の公共事業市場とは一般 の民間市場とは異なり、買い手に生き残りの為の競争が課せられていない(かのよう に思われている)特異な市場である。そしてこの市場の唯一の商品である土木施工 は、事実上他の民間市場においては全く需要のない商品である。この二つの決定 的な特徴を持つ公共事業市場がグローバル化、すなわち完全自由競争化されれば、 まず最初に起るのは売り手間のダンピング競争であり、次に起るのは土木施工業の 相次ぐ廃業と公共事業そのものの消滅でしか有り得ない。 一般の民間市場の買い手は、自らもグローバル市場において生存をかけた厳し い競争をしている。正にこの理由によってのみ、民間市場はグローバル化されたか らと言って、必ずしも価格だけのダンピング競争市場にはならない可能性を持つ。何 故なら買い手は買い手自身の生存競争に打ち勝つ為に、彼らの生き残りにとって最 も合理的な手段を提供する売り手を選択するに違いないからである。この時価格す なわちコストの高低は、彼らの合理的な生き残りにとって一つのファクターであるに すぎない。 例えばある商品の価格が恐ろしく高くとも、それが買い手の生き残りにとって大変 重要な価値を持っているのならば、その選択が買い手にとって最も合理的である場 合も当然あり得る。一般的に買い手は、「価格とそれが実現している買い手にとって の価値」の最適な組み合わせを持った商品を常に選択しようとするだろう。ここでど のような組み合わせが「最適な組み合わせ」であるのかは、買い手の生存を賭した 矢作建設工業株式会社

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主観が決定することである。従ってもし売り手が買い手の直面している生存競争や、 その結果生まれてくる彼のアイデンティティーというものをありありと想像することがで きるならば、売り手は何が買い手にとって「価格と価値」の最適な組み合わせである かを知り得るし、またそのような商品を開発し得るのである。これがかつてシュンペー ターの言ったイノベーションの本質的な意味であり、正にこの売り手のイノベーション のおかげで民間市場はグローバル化されたからと言って、必ずしもダンピング競争 市場とはならないのである。逆に言えばイノベーションが無ければ民間市場も価格 のみによるダンピング競争市場にいつでも成り得るし、更に言うならばイノベーション が無ければその産業自体は究極的に消滅するしかないのだ。 これに対して公共事業市場は買い手である発注者に生存の為の競争が課せられ ていない(かのように思われている)。その為に発注者には、そもそも売り手のイノベ ーションを受け入れる明白で真剣な動機がない(かのように思われている)。しかしあ えて言えば発注者の総体である国家も、実は自らのより良い生存に重大な関心を持 っても良い筈である。いやそれどころか、普通の国ならば本来それを持つのはあたり まえと言うべきだろう。もしそうであれば国家が公共事業におけるイノベーションすな わち「価格と価値の最適な組み合わせ」を受け入れる動機も有り得る。だが何が最適 な組み合わせであるのかはやはり国家の「生存を賭した主観」が決定することで、こ こには客観的なモノサシなど無いのだ。 国家のこのような主観を正当化し根拠付けるには、公共事業におけるイノベーショ ンが国家のよりよい生存にとって必須であるという国民的な合意が形成されていなけ ればならない。もしそれができない場合、公共事業におけるイノベーションは究極的 には超法規的な基準でなされるか、あるいは既存法の厳正な適用によって消滅して もやむなしとされるかのどちらかである。 今まで公共事業は言うまでもなく前者の扱いを受けてきた。だからこそ公共事業 矢作建設工業株式会社

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は今まで消滅しなかったのだ。それを正当化する国家の論理は、繰り返すが国のよ りよい生存の為に公共事業におけるイノベーションは例えば防衛における場合と同 じように不可欠であるというものだ。しかしこの論理は国民という他者の広汎な支持が 無い限り、役人の単なる主観であり恣意にすぎない。にもかかわらずかつてはこれ に対する国民的支持が曖昧なものにせよ確かにあった。その事によってこの国家の 論理あるいは主観はかろうじて真剣味と正当性を持ち得たのである。ちなみに日本 における公共事業のイノベーションとは、工事の価格と工事の品質という価値には明 白で重大な連関があることを前提にしたうえで、その最適な組み合わせが何である かについての国の主観的判断のことである。従って公共調達の基本法である会計 法が容認する公共事業のダンピングは、国の主観的判断では国益に反することにな る。 だがやはりこのような判断の帰結である超法規状態の黙認は、様々な社会的コス トを生む。それは単に公共事業が国民にとって高い買い物になると言うようなレベル の話ではない。そもそも社会がこのような超法規状態を黙認するとは、社会が自らの マフィア化を容認するということにもなり得るのだ。そのことによって生じる社会的コス トが、公共事業が消滅することによって生じる社会的コストを明らかに上回る、と国民 的なレベルで考えられ始めたのが正に現在の公共事業問題の本質だろう。 しかしこの算術を正確にこなす者など実は誰もいないことを忘れてはならない。公 共事業が滅ぶことによって生じる社会的コストとは一体どれ程のものになるのだろう か。これは何十年も時が経ってみないとわからないことである。同様に社会の非マフ ィア化によって、社会的コストはどれ程軽減できるものなのだろうか。これも正確には 誰も分らないことである。どちらが損か得かは誰にも客観的には分らないことで、や はりこれも主観に基く判断だろう。そしてこの主観は公共事業が国益の為に絶対に 必要であるというもう一方の主観と同様に、利害を異にする他者との合意形成だけが 矢作建設工業株式会社

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作る正当性を必ずしも常に持っている訳ではないのである。 しかしもし国民が、法の支配そのものの価値に新たに目覚め、法の厳正な運用に よって将来仮に大きな損失を自らがこうむるとしても、自己責任原則によりそれを甘 受する、あるいは希望的にはそのような大きな損失の発生する前の予兆の段階で、 法そのものの変更を自らの代表に託せられるような政治的成熟を獲得する、という覚 悟と見込みがあるのならば何も言うことはない。しかし今の日本国民には恐らくその 覚悟も見込みも無いであろう。にもかかわらず私はそのような政治的成熟は国民自 らが大きな損失によって贖うことでしか獲得できないものだろうとも思う。であれば法 の厳正な運用を公共事業にもしてみるが良いのである。たとえ公共事業がそのこと によって滅びるとしても。 これは無責任な発言であろうか。いや真に無責任なのは、公共事業にせよ法の支 配にせよ、本質的には役人の主観や恣意から始まる価値判断にすぎないものを、唯 一正当化し公共化するのは「様々な利害を異にする他者との討議等を通じた合意形 成」でしかないにもかかわらず、国家も国民も今まで全くそれを真面目に考えてこな かったことなのである。「様々な利害を異にする他者との討議等を通じた合意形成」 とは、法にも国益にも先立つ戦後日本の社会契約の理念に他ならない。従ってそれ は政治の始原とも言えるが、この政治は単に政治家だけによって担われるものでは ないのだ。 これは我々全体が政治的に全く未熟ということなのであり、遡れば他者というもの の存在に対して我々が恐ろしく鈍感であるということに根を発している。このような政 治的未熟さとその源である他者の存在に対する鈍感さは、61年前のあの痛切な国 家と国民の失敗を考えれば本来驚くべきことだが、結局我々はあの失敗からまだ充 分には学んでいないのかもしれない。しかしもう一度我々が失敗を繰り返すことが、 我々の他者への目覚めとその結果である政治的成熟の為に何がしかの意味を持つ 矢作建設工業株式会社

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のであれば、現在の公共事業の消滅などかつての大日本帝国の消滅に比べれば、 日本の未来の為に安いものだと私は思うのである。少なくとも土木に携わっている多 くの人々は、このことによる自身の人生最大の挫折を正面から受け止めることによっ て、今まで見えなかった他者の存在に初めて目覚めるチャンスを得るのだから。

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30.ペテルブルグとニースの印象 (中部経済同友会 訪欧ミッションに参加して) 平成18年 9 月

去る9月2日より一週間にわたって、ヨーロッパ東端のペテルブルグと、地中海に 面したヨーロッパ最大のリゾート地である南仏ニースを中心とするコートダジュール 地方を訪問できたのは、私にとって得難い経験であった。 それは一方のペテルブルグが、未だに150年前のドストエフスキーの小説にでて くるような、ヨーロッパの後進国ロシアの雰囲気を色濃く残した街であるのに対して、 もう一方のニースに代表されるコートダジュール地方が、世界中から集まる大富豪の 為だけに存在しているかのような、正に英語で言うところのNeatな街の典型に思わ れたからだ。 ニース近郊のアンティーブで世界一おいしいと言われるブイヤベースの昼食をと っている時、副団長の岩崎さんがしみじみと「この街には生活臭というものが全く感じ られなくて、何か変だ。」とおっしゃられたのは、真に正確な観察だったと思う。Neat である為には、ゴミとか工事現場とか労働者とかそう言った生活臭のあるモノは隠し てしまわなければならないのだ。そう言ったモノを上手に隠してしまう技術が文化で あるのならば、ここは世界で最も文化の進んだところだろう。 しかしロシアにはそのような文化は無い。ペテルブルグの下町であるセンナヤ地 区は、「罪と罰」の舞台となった所で、今回の旅で私は是非そこだけは訪れてみたい と思っていた。希望がかなって行ってみると、そこは150年前の「罪と罰」の世界がそ のまま残っているような生活臭に満ち満ちた街で、ホームレスや酔払い、あるいはス リなどが昼間から横行している、正にNeatとは対極にある場所なのであった。しかし 「罪と罰」の登場人物マルメラードフは、自分の娘ソーニャが極貧の家族の為に売春 婦に身を落とした話を、主人公のラスコーリニコフに対して自虐的に告白する中でこ 矢作建設工業株式会社

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うも言うのだ。「学生さん(ラスコーリニコフのこと)、娘はなんといっても(こういう商売 をしている以上)、お金をかけていつもこぎれい(Neat)にしていなけりゃなりません。 しかしあなたにお分かりになりますかな、このこぎれいにしているということの意味 が?」。 やはり大思想が生まれるのは、このような街からであろうと私は強く思ったのであ る。

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31.地震工学技術研究所設立記念式典 社長挨拶 平成18年10月16日

矢作建設の社長をしております山田でございます。本日は、弊社地震工学技術 研究所の設立記念式典の開催にあたり、皆様方にはご多用のなか全国各地からの ご臨席を賜りまして厚く、御礼申し上げます。 私ども矢作建設は「デザインC」を経営理念に掲げ、建設の専門家として、お客様 のアイデンティティーをよりよく実現する為の優れた技術をお客様とともに追求してま いりました。 その一環として、私どもはお客様が現代建築に期待する重要な価値の一つであ る、「地震に対する高度で高品質な安全」が、どのようなコストでどのように実現できる かを、深く知りたいと考えてきたところであります。 地震災害と建設技術に対する深い関心、この思いを持って今般「地震工学技術 研究所」を設立いたしました。 私どもは、既に「ピタコラム」という完全外付耐震補強工法を持っております。「ピタ コラム」は、画期的な優れた工法だと自負しており、公共施設を中心に日本全国に 普及しつつありますが、一方でお客様が求める「地震に対する高度で高品質な安 全」を実現する手段の一つに過ぎないとも思っております。お客様の求める「価値と コストとの最適な組み合せ」を考え、さらに多くのお客様に貢献できる優れた技術を 開発せねばなりません。 世界中の至る所で大地震が起き、大きな被害が出るたびに、私どもは新たな負債 を負い、「地震に対する高度で高品質な安全」の実現への使命感を強く感じます。こ の「地震工学技術研究所」を最大限活用して研究を進め、さらに優れた技術を開発 し世界に貢献することを皆様にお約束したいと思います。ご臨席の皆様方にもこれ 矢作建設工業株式会社

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まで以上のご指導ご支援を賜りたく心よりお願い申し上げます。 本日は、この後公開実験とささやかな懇親の場を設けております。皆様方より貴重 なご意見など頂けたら幸いと存じますのでよろしくお願い申し上げます。 最後になりましたが、本日ご臨席賜りました皆様方のますますのご発展を祈念い たしまして、簡単ではございますが私のご挨拶とさせていただきます。ありがとうござ いました。

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32.平成18年度矢作建設グループ技術発表会 社長挨拶 平成 18 年 11 月 20 日

皆さんこんにちは。 本日は技術発表会ということで8件もの事例発表があるそうですが、これを機会に 皆さん方にもグローバリゼイションの中での建設業のあるべき技術、あるべき姿とは 何かということを深く考えてもらいたいと思います。 高度情報化社会がもたらしたグローバリゼイションの中では、誰もが厳しい生存競 争に直面しています。我々のお客様も例外ではありません。そのようなお客様は、ど んな商品の購入にあたっても、何が彼のより良い生存にとって最も優れた「価値と価 格の組み合せ」であるかを究極的には選択の基準とします。このような理由で、我が 社はお客様が建設に求める様々な価値を実現するコスト構造の専門家でなくてはな りません。言い代えれば我々は、建設のコストに関する膨大な知識や情報のデータ ベースを持った、知識集約型企業でなくてはならないのです。 しかし単にこのようなデータベースを持つだけでは勿論ライバルとの差別化を図 ることはできません。このようなデータベースはどのようなライバルでも持つことが出 来るからです。我々は更にお客様が目指している「より良い生存」とは何であるか、言 い代えればお客様のアイデンティティーとは何であるかについて、人間的に想像す る力を持たなければなりません。そのようにして初めて我々は、我々のデータベース からお客様のアイデンティティーの実現に最も貢献できる「価値と価格の組み合せ」 を検索することができるのです。 従って建設現場の経営的な位置付けも従来とは大きく変化します。施工技術の実 践の場である建設現場は、単に利益を具現化する場としての位置付けだけでなく、 むしろこのデータベースを質・量ともに常に最新・最良のものにする役割の最前線を 矢作建設工業株式会社

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担う場として経営的には位置付けられます。我々が優れた知識集約型企業を目指 すのであれば、現場においてのみ可能な、コストに関する実践的なデータ収集から 離れることはできないからです。ここに現場の本質的な重要性があるのであって、現 場でのモノ作りのみに自己完結的な意義を見出すのは単なるモノづくりのフェチズ ムにすぎません。 グローバル化の時代に、我々が生き残り成長して行くには、この道しかないと私は 考えています。皆さんのご協力を是非お願いする次第です。 最後に本日は有意義な発表がたくさん聞けることを期待して私の挨拶とします。

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33. 公共事業正常化の議論に決定的に欠けているもの。 平成 18 年 11 月 27 日

現在日本中で繰り広げられている公共事業についての様々な批判や議論、ある いはその改革案等は、すべてポイントがずれていると思う。 その根本的な理由は、建設業の民間市場がここ10数年程の間に大きく変質し、 公共事業とは全く異なる原理によって動いていることが明白になったにもかかわらず、 殆どの人がそのことの意味を正確に理解していない為に、依然として公共事業と民 間市場が同じ土俵で論じられていることにある。しかしこれは大きな間違いである。 例えば現在の公共事業におけるダンピング問題は、もう一方の民間市場が正常 かつ健全に発展して行く為には、大変良いことでもあるのだ。ほんの少し前まで公共 事業にダンピングが無かった時(つまり公共事業が正常であった時)、民間市場にお いては、我々は顧客の過剰なコストダウン要請に対して、専門家としての知恵を全く 使うことなく簡単にダンピングで応ずることができた。その原資となる公共事業からの 利益が充分にあったからである。 その結果民間市場はいつまでたっても売り手にとって利益の出せる市場とはなら ず、専門家としての売り手の知恵も育つことはなかった。 ところが現在のように公共事業がダンピング市場となると、民間市場における顧客 のコストダウン要請に、売り手は単純にダンピングで応ずることは出来なくなる。そこ で売り手は初めて専門家としての知恵を振りしぼり、「利益を出しつつ、コストダウン を実現する道」を考えざるを得なくなる。しかしライバルも最早公共事業の利益を原 資とするダンピングはできないから、ここでは知恵のあるものだけが殆どの場合勝つ。 これが民間市場が正常かつ健全に発展して行くという意味なのである。 ここで明らかになったのは、現代のグローバル化した民間市場の支配原理、すな 矢作建設工業株式会社

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わち市場原理が、多くの人が考えるように単純な価格競争ではなかったということだ。 グローバリゼイションに直面する顧客は、常に自らのより良い生存に最も役立つ「価 値と価格」の組み合わせを持った商品を選択する。単純な価格競争になるのは、商 品の価値が顧客にとって同じである場合だけだ。 従って市場における売り手の知恵とは、何が顧客にとって最も優れた「価値と価 格」の組み合わせであるかを専門家として洞察する力のことなのである。それを決定 するのは最終的には顧客の「生存を賭した主観」に他ならない。だから売り手の知恵 とは、顧客の「生存を賭した主観」に専門家として肉薄する力と言っても良い。 しかし一方で、このような主観的判断によって決まる知恵の勝負ではなく、建前上 は客観的な価格の勝負だけに頼ることになっている公共事業が、もし本当にどこま でも建前を貫くのであれば、それは果てのないダンピングにしかならず、結果的に は売り手にも見捨てられどんどん衰亡して行くしかなくなるだろう。 では公共事業の発注者には、民間市場の顧客のような「生存を賭した主観」は無 いのであろうか。勿論それは有り得る。しかしそれはつきつめれば「国家の生存を賭 した主観」のことである。膨大な公共事業の発注件数を考えれば、売り手がそのよう な国家の主観を満足させる「価値と価格」の組み合わせを持った商品を仮に開発で きたとしても、発注者が常に国家の生存を賭した真剣さを持って、それを正しく評価 し判定するのは不可能であろう。反対にこの真剣さを持てないような買い手は、売り 手からみると市場のパートナーには到底成り得ない。従ってその次善の策として公 共事業の計画経済化の議論は出てくるのである。 計画経済とは、買い手が市場における専門家としての売り手の知恵に頼らず(頼 れず)、自らの生き残りに最適な「価値と価格」の組み合わせを、自らで決断する経 済である。それは客観を纏(まと)う制度化された主観に他ならない。しかし最終的な 決定要因が、市場原理と同じく買い手の主観であるという面では、実は民間市場と 矢作建設工業株式会社

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何ら変わることは無い。ここに欠けているのは、市場における専門家としての売り手 の知恵だけである。言い代えればそこには市場が欠けているのであり、これを補うの は政治の知恵しかない。 そうであれば公共事業の計画経済化の議論を、堂々と進めれば良いではないか と思うが、単純にそうしただけでは、今度は民間市場がまた歪んでしまう。我が社は それは断固お断りである。民間市場の現在の歴史的な正常化の可能性を歓迎する 建設業は、すべてそう考えるだろう。つまり民間市場を再度歪めてしまうぐらいなら、 公共事業が衰亡するのは止むを得ないと、建設業自身が既に考え始めているの だ。 これは、公共事業と民間市場が各々正常となる為の支配原理、すなわち計画経 済と市場原理が、実は互いに二律背反の関係にあるということに他ならない。これを 解決する唯一の方法は、同一の建設業が公共事業と民間市場の両方に参入するこ とを禁止するしかない。つまり公共事業に参入する建設業は、そこで得た利益を民 間市場に移転してはいけないのである。これこそが現在の公共事業に関する議論に 最も欠けている本質的な視点で、そのことが担保さえされれば、公共事業の計画経 済化の議論は、どのような批判に対しても正当化できる。 公共事業は政府主導の公明正大な計画経済にしない限り間違いなく滅びる。従 って現在焦眉の急を要するのは、計画経済で得た利益が民間市場に移転しないこ とを担保する実効的な制度を設計することである。私はそれはそんなに難しいことで はないと思う。 公共事業の計画経済化など、この官業民営化の時代にできる訳がないと多くの人 が思うかもしれない。しかし計画経済にするからと言って、公共事業の請負までが官 業化する訳ではない。現在と同じように請負自体は、民営のままで良いのである。私 の言うのは民営化されているからと言って、価格競争の実質的に無い、言ってみれ 矢作建設工業株式会社

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ば売り手独占の特権を公共の福祉の名目で与えられた企業が、市場原理の支配す べき一般の民間市場に参入するのは不公正であるということだ。反対に言えば、この 不公正さえ是正できれば、公共事業の計画経済化の議論は、道義的にも論理的に も更には政治的にも、あらゆる批判に勘えられるのである。

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34.グローバル化の時代の建設業経営 平成 18 年 11 月 28 日 名古屋工業大学講義録

―― (1)耐震補強とピタコラム ――

皆さん今日は。私は矢作建設工業という会社の社長をしております山田文男と申 します。 私共の会社は名古屋工業大学さんとは昔から色々な御縁があります。たくさんの 卒業生が私共の会社の役職員として仕事をしているというばかりでなく、主に土木や 建築に関する様々な技術研究を、多くの先生方や学生、院生の皆さん方と長い間一 緒にさせて頂いております。 殊に昨年からスタートした私共と名工大共同の地震工学技術プロジェクトにおい ては、私共が今夏長久手に開所した地震工学技術研究所を主な実験施設として、 建築や土木の様々な構造体に、地震動が及ぼすダイナミックな影響を解析し、新た な耐震、制震、あるいは免震技術の開発につなげようとしています。 これらの新技術はいずれもその実用コストと性能との連関にも深い注意が払われ ます。というより正にこのコストと新技術の性能、つまりユーザーにとっての価値との 連関こそが、最も大きな研究課題と言えるのかもしれません。 私共は既にピタコラムという名前の有力な耐震補強工法を持っております。 これは名工大とではなく、東京の芝浦工業大学との共同開発によるもので、研究 が始まったのはかれこれもう20年近く前のことになります。 ピタコラムのピタ、すなわちP.I.T.A.の意味はプレートインクルーデッドコンクリ ート、タイトリーアタッチトということですが、それは鉄板を真中にはさみこんだ厚さ20 センチ程のコンクリート構造体を、既設建物の柱、梁すなわちコラムにアンカーとコ ンクリートで固着させることによって、建物全体の耐震性能を引き上げるというピタコ 矢作建設工業株式会社

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ラムの仕組みからのネーミングなんですね。 現在のピタコラムは、現場のコンクリート打ちで構造体を作っていますが、実は 元々20年前に研究を始めた当時、私共が開発しようとしたのは、このピタコラムでは なく、工場生産を前提としたプレートコンクリートという超高層建築用の構造部材だっ たんです。 20年前とはバブルの最盛期の時期ですが、その頃超高層建築の一般的構造部 材である鉄骨の価格は、このバブルの影響で猛烈に上昇していました。 そのような時代背景の中で、私共は値段の高い鉄骨ではなく、鉄のプレートを内 蔵した安価なプレートコンクリートを使うことによって、超高層建築の大幅なコストダウ ンを実現しようとしていた訳です。 その為に私共はプレートコンクリートの強度などの様々な性能実験を、芝浦工大と 一緒に地震工学技術研究所の前身となる実験施設で行っていました。これが後の 耐震補強への応用に際して、有意義な実験データになったことは言うまでもありませ ん。 このプレートコンクリートの研究は、今から14~15年前にはほぼ一段落しました。 最終的な完成形とまでは行かなかったのですが、実験用の建物も試作し、それは先 程お話した地震工学技術研究所と同一敷地内にある、私共の子会社の事務所とし て現在も使用されております。 しかし本来の目的である超高層建築用の建築部材として、プレートコンクリートは とうとう一度も利用されることはありませんでした。それは正に研究が一段落したその 当時から、バブルが崩壊し始め、鉄骨の価格が急速に下がってきたからなんです。 つまり性能的には鉄骨とほぼ同程度のものがすでに出来上がっていたのですが、 価格競争力がバブル崩壊による鉄骨の急速な価格低下で、それほど強いものでは 無くなってきたんですね。そうであれば単純に鉄骨を使う従来の施工法の方が良い 矢作建設工業株式会社

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場合が多いのです。 通常ならこれでプレートコンクリートは、お蔵入りということなんですが、たまたま11 年前の阪神大震災をきっかけとしてプレートコンクリートは息を吹きかえしました。そ れは日本の社会には今までなかった、既設建物の耐震補強へのニーズが、この地 震によって突然生まれたからなんですね。 阪神大震災というのは、日本人がテレビ等の画像を通じて、史上初めてリアルタイ ムで大地震が大都会を襲った時の、恐ろしさ悲惨さを実感した最初の地震であった と思います。 日本の耐震補強市場というのは、正にこの地震をきっかけに誕生しました。 今「日本の」と申し上げましたが、実は耐震補強市場などというものは、世界中で 日本にしかありません。ですから正確に言えば耐震補強市場は、阪神大震災をきっ かけとして、世界で初めて日本で生まれたと言った方がよいかもしれません。 そしてこの市場は未だに日本にしかありません。それは言うまでも無く、日本が大 変豊かな社会だからなんですね。 皆さんも御存知のように世界中のいたる所で、大地震はひっきり無しに起っていま す。昨年のパキスタンの大地震でも、10万人近くの人が亡くなっていますが、テレビ などでみるとあの時崩壊した建物のコンクリートの塊からは、非常に細い鉄筋がわず かばかりのぞいているだけでしたね。ああこれでは大した地震でなくても簡単にこわ れてしまうだろう、と多くの方が思われた筈です。 でも多分パキスタンのような開発途上国では、いつ来るかわからないような地震の 為に、社会的にそんなにお金はかけられないんですね。 しかし阪神大震災が発生した11年前の日本の社会は、すでにこの「いつやってく るかわからない災難」に対しても、充分にコスト負担ができるだけの豊かな社会にな っていたわけです。 矢作建設工業株式会社

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ところでこのコスト負担によって実現するものとは、結局地震に対する建築ユーザ ーの安全という価値です。それも震度7クラスの大地震動にそなえるものですから、 かなり高度な安全という価値への需要が、社会に突然生まれた訳です。 それではその価値を実現するコストは、どうなっているのでしょうか。一番わかりや すいのは、震度7に耐えられないような建築は、全部こわして建て替えてしまうことで す。 しかしこれにはあまりにも莫大なコストがかかる為に、豊かな日本でもさすがにそ の負担は出来ません。 そこで次善の策として、耐震補強という考え方がでてくる訳です。 しかし耐震補強といっても、様々な工法がある訳です。それらの工法が実現しよう としている価値とは、いずれも震度7クラスの地震動にも耐えられるような、建物の安 全という価値ですが、それを実現する為のコストは、一つ一つの工法によって大きく 異なる訳です。 ここでコストというのは広い意味のコストで、例えば工期、外観、メンテナンス費用、 そして勿論本体の工事費等、要するに建築ユーザーが、地震に対する高度な安全 という価値を手に入れる為に、負担しなくてはならないすべてのコストの総和というこ とです。 一旦お蔵入りになったプレートコンクリートが、耐震補強に応用できないかと私共 が考えたのは、このコスト面において強力な優位性を持つ工法に、プレートコンクリ ートが生まれかわる可能性があったからなんですね。 プレートコンクリートの特長は、先程もお話したように鉄板をサンドウィッチの中身 のように真中にはさみこんだ、厚さ20センチしかない大変軽いコンクリート構造物で あるにもかかわらず、総合的に鉄骨以上の性能を実現し、しかも鉄骨以上の価格競 争力を持つことでした。 矢作建設工業株式会社

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ピタコラムは工場生産のプレートコンクリートとは異なり、現場で鉄板を既設建物の 外部柱、梁にアンカーで接合し、コンクリート打設によって柱、梁に固着させるもので すが、構造体としての考え方はプレートコンクリートと全く同じです。そのことによって ピタコラムは、他の一般的な耐震工法と比べると、明らかに有利な点がいくつか生ま れてくるのです。 まず柱、梁の補強体として一般的な鉄筋コンクリートと比べると、圧倒的に薄くて軽 いにもかかわらず、同等以上の性能があること。またこれも補強材として一般的な鉄 骨に比べた場合、ピタコラムはコンクリート構造体である為に、後のメンテナンスが大 変楽であること。また同じ理由で鉄骨よりRCの柱、梁への固着力が強くなること。ま た外観のそこなわれかたも鉄骨よりははるかに少ないでしょう。 また何よりもピタコラムは外部だけの工事でできる為、建築ユーザーにとって工期 中も建物が利用できるというメリットがあります。 つまり震度7から建築ユーザーを守る、安全という価値を実現する為の総合的コス トという点において、ピタコラムは他工法に比べると圧倒的に有利なのです。 この為に一旦お蔵入りとなっていたプレートコンクリートは、10年程前に息を吹き 返し、ピタコラムとして生まれ代わることができたのです。

―― (2)建設業にとって技術とは何か ――

さてここから私がお話したいのは、建設業における技術とは何かというテーマです。 あるいはもっと一般的に、企業にとって技術とは何かという問題にまで踏みこめたら とも思っています。 皆さんもすぐにおわかりのように、建設業の技術は殆どすべてが成熟技術と言わ れるもので、例えばIT産業のようにハイテク技術とはあまり縁がないようにみえます。 矢作建設工業株式会社

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ですから建設業は参入障壁が低く、誰でも簡単に業界に参入でき、建設不況と言わ れる今でも50万社以上の企業が、業界内にひしめいているとよく言われる訳です。 またどの企業も技術的にそれほど独自のものを持っている訳ではないので、技術力 による差別化が大変しにくく、結局価格競争で差別化を図るしかない、ともよく言わ れます。 実際建設業界の価格競争は激しいものですが、それは建設業が商品として主に 売っているのが、「施工請負い」といわれるものだからなんですね。 施工請負とはある任意の設計図面が、指定した通りの建設物を期日内に完成させ、 顧客に引き渡す約束のことです。ですからここで問題になるのは、図面通りにモノを 作る能力すなわち施工技術のことですね。この施工技術が差別化できるかどうかが 問題になる訳です。 皆さんもすぐにお分かりのように、日本の建設業は建築基準法や建設業法などの 様々な法規制のおかげで、どこもあるレベル以上の技術水準にはすでに達していま す。 また細分化された多種多様な専門工事業者が、日本中のいたる所に多数存在す ることもあり、現在の日本の建設業であれば、まずどこであっても大概の建設物を設 計図面通りに作ることは可能です。 これはつまり日本の建設業は、施工技術そのものではライバルとの明白な差別化 が、困難だということなんですね。従って現代のようなグローバル化の時代になり、競 争が激しくなると、この施工技術に頼っているだけでは、会社として満足できる結果 を出せないのは、当然のことと言えるかもしれません。 建設業における施工技術とは何かを、もう少し詳しく考えてみましょう。施工技術と は、設計図面の指示通りの建設物を作ることでした。従ってまずそれは図面を正確 に読む技術とも言えます。 矢作建設工業株式会社

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図面を正確に読むとは、結局その図面を細かく分析、分解して、その建設物を作 るには、どのような資材や機材あるいは労力等が、どれほどの数量必要なのかを詳 細に知ることと言えます。 例えばどのような種類のコンクリートが何トン要るのか、どのような種類の鉄筋が何 トン要るのか、型枠は何平米要るのか、資材を吊り上げるクレーンはどのようなもの が何基要るのか、作業をする職人は工種毎に、どれほどの期間にわたって何人必 要なのか、作業をする足場は何平米要るのか、という具合です。それらすべてが正 確にわからなければ、実際にモノを作ることなどできないことは、すぐにお分かり頂 けると思います。 そのような様々な資機材や労力の一単位あたりの価格を我々は単価と呼んでいま す。 これらの様々な単価は、需給の関係で日々変化している訳ですから、例えば資機 材や労力等の単価一覧表のようなものはありますが、実際にはあまり役にたちませ ん。それは生きたデータとは言えないのです。生きた数字は、現実にそれを供給先 から毎日購入している建設業だけが知っています。 このようにして図面に描かれた通りの建設物を作る為に必要な、様々な資材、機 材、労力等の数量と、それぞれの単価を知るということの意味は、結局その建設物に 特有のコスト構造を正確に把握するということに他なりません。このコスト構造を正確 に把握することによって、我々は初めてその建設物を作る為に必要な実際のコスト がいくらであるかを知ることができる訳です。 これが建設業の施工技術の核心で、我々は、長い間これこそが建設業のアイデ ンティティーだと思ってきた訳です。しかし先にも述べたように、この技術そのもので は、我々は他社との明白な差別化を図ることができない訳です。ここでアイデンティ ティーとは皆さん方には聞きなれない言葉かもしれませんが自分の正体、自己の存 矢作建設工業株式会社

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在証明、あるいは本当の自分というような概念として受け取って下さい。 ところである建設物に特有のコスト構造を、このようにいつも正確に把握する為に は、それ以外のどんな建設物のコスト構造であっても、常に正確に把握できる能力 が欠かせません。これは良く考えてみると大変な能力で、建設のあらゆるコストにつ いての膨大な知識や情報の集積が、企業の内部にあって初めて可能なことなんで すね。 つまり建設業は、目には見えないけれども、建設のコストに関する巨大なデータバ ンクを内部に持った組織であると言えます。言い代えれば施工技術とは、そのような データバンクが存在して、初めて成り立つ技術なんですね。 そうであれば建設業のアイデンティティーの本質的な部分は施工技術の専門家と いう点にあるのではなく、建設に関するあらゆるコスト構造の専門家という点にある、 というべきでしょう。施工技術とは建設業のアイデンティティーの表層部分にしかす ぎない訳です。 しかし建設業のこのより本質的なアイデンティティーの意味を、我々が明確に理解 しているとはとても言えないのも事実です。 それは逆説的に聞こえるかもしれませんが、我々が自らの表層的なアイデンティ ティーの中に閉じこもってしまい、他者としての顧客のアイデンティティーに全く無関 心であることが主な原因だと思われます。 しかしこの他者としての顧客のアイデンティティーこそ、実は我々のアイデンティテ ィーの最も深い部分が本当はどういうものであるかを、我々にはっきりと教えてくれる 唯一のファクターだと私は思っています。

―― (3)企業とグローバリゼイション ―― 矢作建設工業株式会社

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かつて経済がグローバル化する以前、顧客と我々は互いに他者であるというより は、概ね共通の価値観や世界観を持った身内同士であったと言えましょう。それは 言ってみれば戦後復興の価値観、あるいは高度成長の価値観と呼べるものであり、 当時の日本国民全体に共有されたものであったと思います。 このような同一の価値観を持った身内同士の関係であれば、我々は特別に顧客 のアイデンティティーというものに関心を持たなくとも、自分にとって意味や価値のあ るものは、顧客にとっても同様に意味や価値のあるものと考えることができました。 ところが30年近く前に始まった経済のグローバリゼイションによって、我々の顧客、 特に国際競争に直面していた企業は、徐々に独自のアイデンティティーを確立しな いと自らの生き残りが難しくなってきたんですね。それは彼らにとって最も重要な顧 客である海外の買い手が、彼らとは全く異なるアイデンティティーを持った他者であ ることが、次第に明白になってきたからです。 高度成長まで日本の企業にとって国際競争とは、主に低価格を武器にしたある面 で単純な戦いで、外国の顧客と言えども買い手のアイデンティティーというものに、 それほど売り手が関心を持たなくとも、商品は売れたのです。 しかし高度成長の末期になると、国内の所得水準の向上を担った日本の企業も、 必然的に高コスト体質となり、今までのような低価格のみを武器とした戦略の継続は 不可能となりました。 ここで彼らは初めて、価格が高くとも売れる商品を作る必要に迫られたと言えま す。 価格が高くとも売れる商品とは、その価格に見合う価値を持っている商品のことで すね。しかしそのような価値があるかどうかを決定するのは、彼ら売り手ではありませ ん。それは彼らの顧客が決めることです。 矢作建設工業株式会社

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では顧客はどのようにしてそれを決めるのでしょうか。ここで考えて欲しいのは、グ ローバリゼイションのもとでは売り手だけでなく、買い手も常に厳しい生存競争に直 面しているということです。考えてみればそれは当然のことで、買い手は常にグロー バル市場において「何か」の売り手でもある筈だからです。個人消費者は自らの労 働力の売り手であり、企業が買い手であれば、そうであることは言うまでもありませ ん。 従って顧客は、その消費行動においても突きつめれば、自らのより良い生存に最 も役立つ商品を、常に選択しようとする筈です。 そうであれば売り手が、買い手の考える「より良い生存」というものについて真剣な 関心を持つのは当然のことでしょう。これが他者としての顧客のアイデンティティーに 売り手が関心を持つと言うことに他なりません。 このように顧客のアイデンティティーと直接向き合うことによって、今度は売り手の アイデンティティーが、次第にその本質的な姿を売り手自身に対して明確に現し始 めます。 何故ならば顧客が売り手に求めているのは、単に彼にとって最も価値のある商品 なのではなく、常に彼にとって最も適切な「価値と価格の組み合せ」を持った商品で ある筈だからです。 もし価格という顧客にとっての絶対的な制約条件がなければ、彼の求める価値は いつも無限大のものとなるだけです。しかしそのようなことはどんな場合でも有り得ま せん。 顧客は商品の価格、すなわちコストというものを、彼のより良い生存を実現する上 で、避けることの出来ない制約条件として常に意識せざるを得ないからです。 そうであれば売り手は、必然的に顧客が商品に求める様々な価値を実現する、コ スト構造の専門家でなければならないことになるでしょう。 矢作建設工業株式会社

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売り手がそのようなコスト構造の専門家であって初めて、買い手にとって最適な 「価値とコストの組み合せ」を持った商品の開発も、原理的に可能となるからです。 言い代えればそれは、売り手の事業領域におけるあらゆるコストについての、膨 大な知識や情報のデータベースを持った、知識集約型企業の姿に他なりません。そ して肝心なことは、彼がこのような自らのアイデンティティーの最も深い部分に思い 至るには、顧客が彼とは全く異なった生存競争を戦う他者であることを洞察する力が 欠かせないということです。 このような経験を我々の顧客の多くは、この30年の間に徐々にしてきました。そし てそれは現在も日本中のいたる所で進行中のことです。従って我々建設業が今、グ ローバリゼイションの手厳しい洗礼を受けているのも、歴史の必然と言えます。 グローバリゼイションの手厳しい洗礼とは、かつて極く親しい身内だと思っていた 我々の顧客が、実は我々とは全く異なる生存競争を戦う他者、すなわち我々の全く 見知らぬ他人にいつの間にか変っていたという事実に、我々が初めて直面するとい うことなのです。 しかし我々がこの事実を勇気を持って受け入れ、そのうえで、この顧客独自のアイ デンティティーを努めて共感的に想像してみない限り、我々も又自らのアイデンティ ティーの最も深い部分を知ることはできません。 それは我々が今までそう思い描いてきたように、建設の施工技術そのものの中に あるのではなく、その技術をそもそも成り立たせている、あらゆる建設のコスト構造の 専門家という点にあるのです。 従ってこれからの建設業は、建設のコストに関する膨大な知識や情報のデータベ ースを持った、知識集約型企業というアイデンティティーを確立しない限り、その事 業の継続は困難でしょう。 施工技術の実践の場である建設現場は、従来のように利益を具現化する場として 矢作建設工業株式会社

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の位置付けより、むしろこのデータベースを質・量共に、常に最新のものにする役割 の最前線を担う場として、位置付けられるべきです。我々が優れた知識集約型企業 を目指すのであれば、現場でのみ可能な、コストに関する実践的なデータ収集から 離れることはできないからです。 ここに現場の本質的な重要性があるのであって、現場でのモノ作りのみに自己完 結的な意義を見い出すのは、単なるモノ作りフェチズムにすぎません。それは決し て経営ではないのです。 しかし日本の建設業経営者には、このモノ作りフェチズムが経営であると勘違いし ている人がなんと多いことでしょう。 それは世界にとってグローバリゼイションが逃れられぬ宿命であり、そうである以 上我々の顧客は我々とは全く異なる生存競争を、各々戦う他者である他ないという 現実を、直視できないことから生まれる錯誤なのです。 この現実を直視できない限り、建設業を知識集約産業として位置付けることなど到 底出来ないでしょう。

― (4)高度情報化社会の到来が意味するもの ―

従って今回の私のお話は、すべてグローバリゼイションが我々人類にとって逃れ られぬ宿命である、ということがそもそもの出発点となっています。 グローバリゼイションとは一体何でしょうか。これが1970年代の末期に起ったIT革 命による高度情報化社会の到来と軌を一つにしたものであることは、皆さんも御承知 のことと思います。 元来資本主義経済あるいは市場経済とは、経済活動における人間の利己心(セ ルフインタレスト)を積極的に認めるものです。一人一人の人間や企業が、セルフイ 矢作建設工業株式会社

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ンタレストに基いて経済活動を行うことで、社会はカオスに陥るのではなく、それどこ ろか神の見えざる手によって最も効率よく豊かになって行く、という自由放任の原則 を持っているのです。 従ってそれは当初から既にグローバリゼイション的なのですが、実はグローバル 化以前の市場経済は、全くの自由放任であったとは到底言えないのです。 まず国家というものの存在によって、市場には様々な規制や規範が課せられ、そ の結果人間の利己心にも一定の枠が課せられていました。 あるいは市場の自由放任は、それが国家の利益すなわち国益と合致する限りに おいて認められたものだったとも言えましょう。言い代えれば国家は、国益と合致し ないような市場の自由に、いつでも規制をかける能力をかつては持っていたというこ とです。 では国益の範囲内であれば、市場は常に自由放任であったかというと、これも必 ずしもそうとは言えません。 自由な市場とは、そのプレーヤーである個人や企業が、基本的に平等で対等な 条件、あるいはルールに基いてゲームをする場所です。 しかし現実には大企業と中小企業や個人は、市場において同じ条件で戦ってい たとは言えないのです。 その中で最も本質的なものが情報力の格差という問題です。大企業が大企業で ある由縁とは、正にその圧倒的な情報力にありました。 そのおかげで彼らはどんなものであっても、世界のどこに行けば最も安く買えるの か、あるいは最も高く売れるのかという情報を、中小企業や個人よりずっと速く手に 入れることができた訳です。 グローバル化以前の商品の差別化とは、つきつめるとこの情報力の格差によって つくられたものと言えます。 矢作建設工業株式会社

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ある企業のもっている情報と、その他のライバルや顧客のもっている情報の格差 が大きければ大きいほど、有利な情報を持った企業の商品の差別化能力が、大きく なるのは当然のことだからです。 そしてこのような情報の格差状態を常に作り出し維持することは、資本力のある大 企業にのみ可能なことで、それは高度情報化以前の市場においては、構造的にそう ならざるを得ない宿命であったとも言えましょう。 このような理由で資本力の無い中小企業や個人は、グローバリゼイション以前に は大企業とは対等に戦えなかったのです。 しかし正にこのような情報の不平等が、構造的に組み込まれていたからこそ、市場 には大企業を頂点とするヒエラルキーが生まれ、それは国家による経済管理と相ま って、市場の安定に貢献してきたとも言える訳です。 ところが1970年代の後半に起ったIT革命が生んだ高度情報化社会は、市場に 組み込まれていたこの構造的な情報の格差状態を破壊してしまったんですね。 IT革命によって、今やパソコンをインターネットに結ぶだけで、世界中の誰もが非 常に安価に世界中へ様々な情報を発信でき、また同様に世界中から様々な情報を 受信できるようになりました。 その結果、大企業だけでなく中小企業や個人であっても、世界のどこに行けば最 も安く買え、あるいは最も高く売れるのかという情報や知識を、簡単に手に入れられ るようになった訳です。 それは結局大企業と中小企業や個人が、本質的には同じ力を持ったことを意味し ます。 またこのことは、同時に国益と合致しないような市場の自由を規制できた国家の能 力にも、重大な限界をもたらす事になりました。 資本は国の管理を逃れて簡単に国境を越えて移動し、また無数の強力な情報力 矢作建設工業株式会社

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を持った個人や中小企業が誕生したことで、市場のヒエラルキーは無意味なものと なりつつあるからです。 従ってグローバリゼイションとは、結局社会や市場の高度情報化そのものを意味 する言葉と言っても良いと思います。 このことによって、かつて大企業が資本力にモノを言わせ作りあげてきた、市場に おける情報の格差状態、あるいは情報の非対称性といっても良いのですが、そうい うものは、無意味なものとなりつつあるのです。 この情報の格差こそかつての商品の差別化の原動力で、世界で我が社しか持っ ていない知識や技術とは、結局この情報の格差から生まれたものであった訳ですね。 その情報の格差が、高度情報化によって無効になりつつあるのが、グローバリゼイ ションの本質なのです。 従ってかつてのように技術だけの差別化に基く、全く独自な商品というものは、仮 に有り得るとしても、その寿命は大変短くなってしまったのです。 そのような技術や知識は、高度情報化社会においては、少なくとも同業者であれ ば誰もが獲得可能なもので、それに基くビジネスが少しでも儲かるのであれば、非 常に短期間の内に、世界中から誰かが同じ技術や知識を持って、そのビジネスに参 入してくるに違いないからです。 イノベーションと言うことが良く言われますが、この言葉の意味も良く注意してみる 必要があります。 イノベーションすなわち技術革新というものが、結局かつてのように、情報の格差 状態が普遍的に構築できることを前提とした、或る知識や技術の占有のことを意味 するのならば、それは虚しいものです。そのようなことが、高度情報化社会にあって は長期にわたって可能である筈がないからです。 つまり高度情報化社会にあっては、ライバルや顧客との間の技術や知識だけの差 矢作建設工業株式会社

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異に基くような商品の差別化は、原理的には成り立たないと考える方が正しいので す。 これは企業が、自分の事業領域における技術や知識の専門家である必要が無い と言う意味ではありません。 それは必要条件であるにすぎず、それ自体からは本質的な差異は生まれないと 言っているのです。 それでは本質的な差異、高度情報化社会にあっても解消され得ないような本質的 な差異などというものが、そもそも有り得るのでしょうか。 それこそが、グローバリゼイションに直面する一人一人の人間や企業のアイデン ティティーの独自性から生まれる差異に他なりません。高度情報化社会が明らかに したのは正にこのことで、知識や情報の差異が生まれるのは、言ってみれば偶然の 事故のようなものであり、それらは高度情報化社会にあっては短期間で解消されて しまうが、一人一人の人間や企業の持つ本質的なアイデンティティーの独自性から 生まれる差異は、最後まで解消され得ないのです。 従って高度情報化社会における商品の普遍的な差別化は、顧客のアイデンティ ティーの独自性と売り手のアイデンティティーの独自性から生まれる差異そのものに 根ざしたものでなくてはなりません。 先程、グローバル化した経済における売り手のアイデンティティーとは、彼の事業 領域におけるコストについての膨大な知識や情報のデータベースを持った知識集 約型企業の姿に他ならない、と申し上げました。 しかし彼はこのデータベースそのもので、差別化を図る訳ではないのです。その ようなものは、他のどのようなライバルも持ち得る知識や情報にすぎません。 商品の差別化は、このようなデータベースが、顧客のアイデンティティーの実現、 あるいは顧客のよりよい生存というものにどのように貢献できるかを、売り手が知り得 矢作建設工業株式会社

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るかどうかにかかっているのです。 それは自分とは異なる顧客のアイデンティティーの独自性、あるいは顧客の目指 すよりよい生存というものについて、売り手が共感的に想像する力を持っているかど うかということに他なりません。つまりここで問われるのは、他者というものに対する、 人間としての売り手の想像力なのです。

―― (5)イノベーションの本質 ――

私は以前セブンイレブンの会長である鈴木敏文氏のインタビューをある雑誌で読 んで、感銘を受けたことがあります。 その中で彼はこういうことを言っていました。セブンイレブンでは、日清のカップヌ ードルのようなナショナルブランドのカップ麺とは別に、自社で開発した様々なプライ ベイトブランドのカップ麺を売っています。 ナショナルブランドの価格は150円、これに対して自社開発したプライベイトブラ ンドの価格は、平均するとそれより100円高い250円だそうです。 ところが100円高いにもかかわらず、売り上げは圧倒的にプライベイトブランドの カップ麺の方が多いと言うんですね。この秘密を鈴木さんは概ね次のように語ってい ました。 経済がグローバル化する以前の売り手市場においては、ナショナルブランドのカ ップ麺は、売り手にとっては大変有り難い商品で、店に置いておけばそれはどれだ けでも売れた。 しかしグローバル化の時代となって、買い手市場になると、どこでも買えるようなこ れらのナショナルブランドのカップ麺は、価値の差別化が元々できていない訳だか ら、どうしても激しい価格競争に巻きこまれてしまう。 矢作建設工業株式会社

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従って買い手市場にあっては、ナショナルブランドよりも価値の高いカップ麺をプ ライベイトブランドで開発し、商品の差別化を図らなければならない。 その結果セブンイレブンでは、この価値の差別化を明確に図ったプライベイトブラ ンドのカップ麺の方が、値段は100円高いにもかかわらず、圧倒的に多く売れてい るということなのですね。 これをもう少し分析的に言えば、プライベイトブランドのカップ麺の250円という価 格とそれで実現する新しい価値の組み合わせの方が、ナショナルブランドの150円 という価格とそれで実現する従来の価値の組み合せより、セブンイレブンのカップ麺 ユーザーには、より魅力があったということになります。 私にはこの100円の価格差というものが大変おもしろかったですね。多分200円 の価格差だったらダメだっただろうと思うんですね。どんなに価値のあるカップ麺で あっても、恐らく350円では高すぎる。しかしどこでも買えるナショナルブランドのカッ プ麺よりあるレベル以上においしければ、価格は150円でなくとも良く、250円まで なら払っても良い、セブンイレブンのカップ麺ユーザーにとってはそういうことだった と思うんですね。 カップ麺のヘビーユーザーというのは、皆さん方のような学生、あるいは高校生や 中学生のような若い人々が、恐らく圧倒的に多いと思うんですが、そういう人々の持 つ独自のアイデンティティー、あるいはもっと簡単に言えばライフスタイルというもの に対する、大変共感的な想像力が、「250円とそれによって実現する価値」という組 み合わせを持った、新しいカップ麺を生んだのだろうと思う訳です。 ここにはカップ麺に関する、特殊な技術や知識がある訳ではないと思います。言 われてみれば、それは誰にでも作れる商品だと思うんですね。 ですからセブンイレブンの開発スタッフは、カップ麺製造の専門家ではあったでし ょうが、何も新技術をその為に駆使した訳ではないと思う訳です。 矢作建設工業株式会社

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彼らが専門家として知っていたのは、カップラーメンの様々な価値を生み出す 様々なコスト構造であり、従って専門家としてカップ麺のコストに関するデータバンク を社内に持っている必要はあったでしょう。 しかし商品の差別化は、それ自体からは生まれません。たとえばそのデータバン クから、350円という価格で、もっとおいしいカップ麺ができたとしても、それは市場 では失敗したかもしれない訳です。 彼らのデータバンクには、様々なコスト構造と価値の組み合わせがデータとしてス トレージされているし、また新たにもされ得るでしょうが、正解はその内の一つなので す。 しかし彼らは、その正解に自力では到達できない訳ですね。彼らが正解に辿り着 くには、カップ麺のユーザーである皆さん方のような、現代日本という自由でストレス の多い社会に生きる若者の生活や人生、あるいは夢や絶望というようなものまでを、 出来るだけ共感的に、あるいは人間的に想像してみる他ない訳です。そしてそのよ うな彼らが、よりよい生存を送る為に、専門家としてどのように貢献できるかを考えて みるしかないのです。 その結果が、ナショナルブランドより100円高の250円という価格と、ナショナルブ ランドとは明確に差別化された価値という組み合わせをもった、新商品の開発であっ た訳です。 技術革新、すなわちイノベーションとは、そのような過程の中で明らかになった買 い手のアイデンティティーの独自性を、より明確に実現する為になされる、売り手側 のアイデンティティーの一層の独自化の試みと言えます。つまりそれは両者のアイ デンティティーの差異を際立たせる為の一つの手段なのです。 その為に新しい技術や知識は開発されるのであって、もし売り手が顧客という他 者への共感、あるいは想像力を欠いたままでイノベーションを考えたとしたら、それ 矢作建設工業株式会社

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は全く無意味なものとなるでしょう。 高度情報化社会にあっては、新技術自体の持つ価値は、すぐに無差異化されま す。それはつまり無価値化されるということです。 その結果それは誰にでも使える汎用技術として、売り手のデータバンクにストレー ジされるだけに終るかもしれません。 しかしそのような汎用技術であっても、顧客のより良い生存を実現する為の価値を 持った固有のコスト構造として甦ることも当然あり得る訳です。そしてそれが可能にな るのは、やはり売り手が顧客という他者のアイデンティティーに、向き合った時だけな のです。

―― (6)ピタコラムとイノベーション ――

最初にお話した我が社独自の耐震補強工法であるピタコラムも同じことです。ピタ コラムで使われている技術はすべて成熟技術で、それは真似をしようと思えば日本 の建設業ならば誰にでも真似のできるものです。 ピタコラムが今のところ商品として差別化できているのは、単にその技術がイノベ イティブなものであるからではないんですね。 ピタコラムは特許や施工技術の習熟難度、あるいは現在の主な市場である公共 事業市場の閉鎖性等、要するに市場が完全にグローバル化されていないことによっ て守られている部分が多いのです。 もし日本の社会がそういう諸々の情報の格差状態の全く解消した本当のグローバ ルな社会であれば、我が社だけがピタコラムビジネスで利益をあげるなどということ は到底不可能でしょう。 従って日本社会における高度情報化の進展と、ピタコラムの寿命は、反比例する 矢作建設工業株式会社

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と私は考えています。それは先程も言ったように、グローバリゼイションの宿命なので す。 しかし真にイノベイティブなものとは、そのような技術の一つ一つにあるのではあり ません。我々の顧客である多様な建築ユーザーが直面している各々の生存競争の 独自性を、我々がどこまでシンパシィーを持って理解できるのか、そしてそのような 彼らがより良い生存を実現する為に、建設の専門家として我々はいかなる貢献がで きるのか、あるいはそのような貢献をなす為に我々の専門性はどのように進化して行 くべきなのか、このようなことを想像力を持って考え、実践して行くことこそが真にイノ ベイティブな事だと私は考える訳です。 ですから最初にもお話しましたが、ピタコラムが、大地震の多発するパキスタンの ような社会で受け入れられるかと言うと、それは今のところまだ無理なんですね。パ キスタンで暮す人々には、彼らのより良い生存の為に、ピタコラムで得られる安全より 優先すべきものがまだたくさんあります。それは例えば明日のパンであったり、夜露 さえしのげれば良いという住宅であったりする訳です。 日本で暮す我々は、日本の常識で地震に対する安全という価値を、どこであって も通用する普遍的な価値として考えがちですが、パキスタンではそのコストを考えれ ば、ピタコラムの安全という価値の優先順位が低くなるのは当然の事です。 しかしそうであるからと言って、パキスタンの人々が地震に対する安全という価値 に無関心であるなどと考えるのは、全くの間違いです。それは彼らがパキスタンで直 面している生存競争の過酷さが生んだ、やむを得ない選択の結果なのです。 地震への高度な安全という価値を作るコスト構造の専門家として、むしろ我々はパ キスタンにおいて未だ全く無力なのだという事に思い至るべきでしょう。 この無力さの自覚は、パキスタンで暮す多くの貧しい他者への人間的な関心が深 まれば深まるほど強くなります。高度情報化社会は一方でそのような他者への人間 矢作建設工業株式会社

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的な関心を呼び覚ます役割をも担っています。 突きつめればこの他者への人間的な関心に基く、専門家としての無力さの自覚こ そ、新たなイノベーションの原動力となるものなのです。 従って最初に申し上げたように、私共と名工大共同の地震工学技術プロジェクト では新技術の性能とその実用コストとの連関こそが、最も大きな研究課題となるので す。

―― (7)他者への目覚め ――

最後に、これから社会に出ていかれる学生の皆さんに「他者への目覚め」というこ とを少しお話します。 日本のような歴史的に同質性の強い社会では、なかなか他者を意識する機会は 少ないかもしれません。殊に皆さん方のような実社会に出る前の学生の身分であれ ば、回りにいるのはクラスメイトや友人、あるいは家族などの身内だけであることも多 いと思います。 勿論、皆さんの身近にも皆さんとは気の合わない奇人や変人が、たくさんいるかも しれません。しかしそういう人々に対しては皆さんは無関心であることも許される訳で す。 親しい身内との付き合いというのは、本当に気楽な遠慮のないもので、それは羽 根ぶとんにくるまれるような快適さに似ています。 このような身内指向は、実は皆さん方が実社会に出ても、いたる所で発見すること になる日本社会の一つの特徴です。 会社に入れば会社の同僚と親しく身内のお付き合いをし、会社の経営者層にな れば、会社の外で経営者同士の身内のお付き合いをするというのは、極くあたり前 矢作建設工業株式会社

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にある日本の社会の日常です。 そこで話される内容は、特別に難しいことではなく、一般的に差し障りのない、誰 にでも受け入れられるようなものとなるのが普通です。何故ならば、そのような身内の 付き合いの中で、人々が求めているのは、心の慰安であり、安心であり、平和である からです。 人間が生きて行くうえでそういうものを必要とするのは当然のことですが、日本で は実社会のお付き合いの中で、そのようなものを得ることが出来てしまうということな のでしょう。 しかし日本の社会が今後急速にグローバル化し、必ずしもその同質性を保てなく なった後も、社会がそのような機能を果せるとは私にはとても思えません。 にもかかわらず社会にそのような機能を強く期待する人々が多数いることも私は 良く知っていますが、それはグローバリゼイションという全世界的な潮流に逆行する 虚しい期待だと思う訳ですね。 先程も申し上げたようにグローバリゼイションとは社会の高度情報化ということで、 これはもう絶対に後戻りの出来ない人類にとっての宿命だと思います。 高度情報化によって人類が得たものとは、世界中の情報に誰でもがアクセスでき る能力で、これはかつては一部の特権階級だけが持っていたものなのです。しかし このように情報アクセスが平等になったことで、かえってすべての情報や知識は原理 的には無差異化され、その結果それらは無価値化されてしまうのです。何故ならば あらゆる価値は差異からしか生まれないからです。 そのような潮流にある社会の中で、真に価値のあるものを作り出すのが、グローバ ル化の世代である皆さん方に課せられた本当の使命だと私は思います。 そして結局それは先程も申し上げたように、異質な他者に対する人間的な関心か らしか生まれないものなのです。同質な社会をグローバル化の時代に無理矢理維 矢作建設工業株式会社

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持することは元々不自然であるだけでなく、日本人から他者に対するシンパシィとい う、本当の価値の源泉を失わせていくばかりだと思います。 ではかつて日本人が社会の同質性から得ていた心の平安や平和を、我々はどこ から得たら良いのでしょうか。正直に言って私はその答えを今持ち合わせておりませ ん。 我々は大変難しい時代の入り口に立っています。しかし、我々がもう後戻り出来な いところにいるのも確かなのです。その問いに答えるには恐らく新たな哲学や宗教 的なアプローチが必要となるでしょう。 それは又別の機会に、皆さん方と共に考えなくてはならないテーマだと思いま す。 本日は、御静聴ありがとうございました。

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35.平成 19 年 愛知県建設業協会新年名刺交換会 会長挨拶 (日刊建設通信新聞 寄稿文 2007 年 1 月 22 日掲載) 平成 19 年 1 月

皆さんあけましてお目出度うございます。私は愛知県建設業協会会長の山田文 男でございます。まずもって今年一年が皆さん方にとって良い年になりますよう心か らお祈り申し上げたいと思います。 さて建設業界にとって昨年は真に試練の一年であったと思います。と同時に様々 なことが見えてきた一年でもあったと思います。 公共事業のダンピングがこれ程長期にわたって続いたことはかつて無く、ダンピン グの無い公共事業を前提としていた建設業の経営は、正に惨憺たる有り様に陥りま した。 このダンピングが、昨年来の談合等に対する強力な取締りによってもたらされた 「コンプライアンスの徹底」の結果であることは明らかです。つまり建設業がコンプラ イアンスを徹底すれば、公共事業はダンピングにしかならないということが、この一年 の経験で分ってしまったのです。 言うまでもなく我々建設業も日本という法治国家の住人であり、良き市民として法 の支配を厳正に受け入れる義務を負っています。しかしそのことと、ダンピング無き 公共事業がもし両立しないとするのならば、それは法か公共事業のどちらかが、間 違っていることになります。 私は法が間違っているとは思いません。日本が自由民主主義とグローバルな市 場経済主義を国是とする国である限り、現代日本の憲法を頂点とする法は基本的に 正しいものだと私は確信しています。 それでは公共事業が間違っているのでしょうか。いやそうではなく、現在の公共事 業を社会の中でどのように位置付けるべきかを決定する、最初の前提そのものに誤 矢作建設工業株式会社

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まりがあるのだと思います。この間違った前提のもとで公共事業の様々な制度設計 が為されている限り、公共事業はもはや社会の中で成立できないところにまで追い つめられてしまったのだと私は思います。 公共事業に従事するすべての人々のアイデンティティーは、突きつめれば「世の 為、人の為」ということです。これはグローバルな市場経済のアイデンティティーであ る「セルフインタレスト」、つまり「利己心の追及」とは全く異なるものです。言うまでも なくこのセルフインタレストに基く自由な競争こそが、グローバルな市場経済の推進 力の本質となるものです。しかし同時に、このセルフインタレストではどうしても実現 することのできない公共の利益が、まだまだ日本にたくさんあることも明らかです。公 共事業もその内の一つと言えるでしょう。これらのことはすべての国民に理解できる ことだと思います。 そうであるのならば、公共事業がセルフインタレストの支配すべき市場経済の中に おいても成立し得るという、今まで広く信じられてきた前提そのものが、根本的に間 違っていることになります。もしそれが間違っているのならば、公共事業を、セルフイ ンタレストでは実現できない利益の為に存在する、公的な領域に帰属すべきものと して、社会の中で新しく位置付けし直すことがどうしても必要となるでしょう。 しかし一方でその位置付けが、セルフインタレストの領域である市場経済のあるべ き公正なルールを、歪めてしまうようなものであってはならないのは当然のことです。 つまり公的な領域に帰属しているという理由で、もし公共事業から市場競争を排除 せざるを得ないとするならば、その公共事業に携わるものは結果的に無競争の特権 を享受することになります。しかしその特権を享受するものが、同時にセルフインタレ ストの領域においても市場競争に参入できるとするならば、それは市場の平等という 市場原理の最も重要なルールを公金を使って損なうことと同じで、大きな不公正とな ります。またそれは、突きつめれば政治にしかできない、公的な領域の効率性の管 矢作建設工業株式会社

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理を、尻抜けにしてしまうことでもあるでしょう。そのようなことを野放図に許していた のでは、社会における公的な領域の正当性も、セルフインタレストの領域の正当性も 共に成り立ちません。 しかし私は、そのような不公正を原則的に許さない、正義と道理にかなった新しい 公共事業の制度が必ず有り得るし、長い目で見ればこのような制度だけが国民の支 持を得ることになるだろうと確信しています。そうでなければ公共事業はこのままダン ピングの継続によって社会から滅び去るか、不法な手段で生き残りを図るしかない からです。勿論、この不法な生き残りは当面のものであるにすぎず、数年後には再 度社会から今回以上の厳しい指弾を受けることは確実でしょう。 昨年一年間に我が業界に起った様々な事件――その中には、大変悲しい事件も あった訳ですが、それらを無駄にすることなく、これからの公共事業の正常で健全な 発展の為に活かしていくことこそ、愛知県建設業協会の今後の最大の使命であると 最後に宣言させて頂き、新年の御挨拶に代えたいと存じます。御静聴どうもありがと うございました。

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36. 郷原信郎著「法令遵守が日本を滅ぼす」を批判する。 (注1)

元特捜検事で現桐蔭横浜大学法科大学院教授の郷原信郎氏の著書「法令遵守 が日本を滅ぼす」を読んだが、グローバリゼイションに直面する建設業経営者 として、私は郷原氏の主張を批判せざるを得ない。 彼の主張は実は何も目新しいものではなく、私に言わせれば単に「法の理念」 を、あるいはもっと一般的に「理念」というものの意味を、本当には理解して いない多くの人々にありがちな意見の一つにすぎない。例えば公共事業の談合 についての郷原氏の意見は、一言で言えば、談合は社会の要請に応える為の必 要悪であると言うものだ。これは昔から建設業界の自己弁護としてあっただけ ではなく、他の分野の多くの人々からも言われ続けてきた陳腐な意見である。 何故この意見が陳腐であるかと言うと、郷原氏や多くの人々が「社会の要請」 と言う時、そもそもこのような要請を前提としないと成り立たないような社会 とは、あるべき理想の社会とは懸け離れた間違った社会ではないのかという視 点が、彼らに全く欠落しているからである。 郷原氏はこの本の結論部分でこうも言っている。「急激に変化する環境に適応し て組織が進化するためには、・・・組織の構成員が社会的要請に対して鋭敏に反応 すること、・・・組織自体が社会の要請に鋭敏に反応することに尽きます。」。この結論 もよくある通俗的な意見にすぎない。何故ならばそれは、「急激に変化する環境」を 無条件に所与のものとして認め、人間や企業がその中で上手に生き残って行く為に は、唯その変化をもたらした社会の要請に機敏に順応するしかないと言い切ってし まう、典型的な理念無きリアリズムであるからだ。 理念無きリアリズムとは、実は真のリアリズムでもなんでもなく、人間性を放棄した 矢作建設工業株式会社

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単なる動物的な(彼の使った例で言えば「三葉虫」的な)自己保存本能にすぎない。 勿論人間も動物であるから自己保存本能はある。しかしそうであるからと言って、自 己保存本能だけに開き直って、理念など無くとも人間は生きて行けるかと言うと、そ んなことは決して無いのである。 ここで問題にすべき理念とは「法の理念」である。特に日本の法の頂点である「憲 法の理念」である。憲法が予定している理念的な日本のあるべき社会とは、政治的 には成熟した民主主義によって公正平等に統治され、経済的には公正なルールに 基いたグローバルな市場経済主義によって生き生きとした経済活動が営まれるよう な社会である。 日本国の憲法が予定するこのような社会の基本構造は、勿論近代市民社会的な 価値観に基く理念を反映したものである。この理念が西欧諸国のように日本人自ら によって勝ちとられたものではなく、敗戦によって外部から与えられたものであること は事実だが、だからと言ってそれに正当性が無いなどということには全くならない。こ れに代わる現代日本のあるべき社会の基本的理念は、我々日本人が世界の中で本 当に尊敬され、またより繁栄して行きたいのであれば、他に在りようは無い。 問題は郷原氏も言うように、この理念が日本人自らによって勝ちとられたものでは 無い為に、日本人の血肉とは未だになっていないことだ。従って戦後の日本社会が、 今に至るまで憲法の予定するような成熟した民主主義と公正なルールに基くグロー バルな市場経済主義の国であったとは言えないのも事実だろう。言ってみれば戦後 の日本とは疑似民主主義に統治され、疑似市場経済主義によって経済活動が営ま れてきたような国である。郷原氏の言葉で言えば、それが社会の実態であった。 しかしその現実の社会が憲法の予定するあるべき社会と乖離している以上、時代 の色々な局面で様々な事件が発生するのは避けられないことである。事実様々な政 治経済の事件が時代の変り目で起ってきた。しかしこれはあるべき社会に、現実の 矢作建設工業株式会社

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社会が近づいて行くためには必然のことで、そういう意味では現実の社会が極めて 健全であったことの証明でもあるのだ。公共事業の談合問題もこの文脈の中でのみ 考えるべきことである。 具体的に説明しよう。我々のような現代のグローバリゼイションに直面する建設業 経営者にとって、恐らく最も重要な市場は民間の建築市場である。この市場におい て、我々は建築の専門家として存分に知恵を振るって、互いに競い合い、互いに高 め合いたいと願っている。この「専門家としての知恵」を競い合える市場こそ、憲法が 予定する公正なルールの支配するあるべきグローバルな市場経済と言っても良い。 ところが現実の民間建築市場は、必ずしも「専門家としての知恵」を競い合うような 市場にはなっていない。何故か。それは実質的に無競争であった公共事業が生み 出す利益を原資としたダンピング受注が、この民間市場において横行していたから である。 迂闊にも我々は長い間そのことに気がつかなかった。一方で「専門家としての知 恵」を競い合いたいと我々は願いつつ、一方でその舞台となるべき市場を自らの手 で壊していたのである。これは経営の自己矛盾以外の何ものでもないが、かつての ように談合を必要悪として容認するような社会環境において、個々の企業の努力だ けではどうにもならない大きな不条理とも言えた。 ところがこの一年間の公共事業における有無を言わせぬ「コンプライアンスの徹 (注2)

底」から生じた、公共事業の激しいダンピング競争が、今正に民間の建築市場の環 境を一変させつつあるのだ。何故ならば、ダンピングにより最早公共事業からの利 益を当てに出来なくなった建設業にとって、今度は民間建築市場におけるダンピン グ受注が、急速に不可能となりつつあるからである。 これはどういうことかと言うと、憲法の予定するあるべきグローバルな市場経済の最 も重要なルールである「市場の公平性」が、期せずして日本の民間建築市場におい 矢作建設工業株式会社

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て歴史上初めて実現しつつあるということなのである。言い代えれば談合の本質的 な不公正とは、この「市場の公平性」という市場の基本的なルールを税金を使って徹 底的に破壊してきたことにあったのだ。 従ってこの先、たとえ談合が無くなったとしても、公共事業が実質的に無競争のま まで残るのであれば、この不公正は無くならない。公共事業において実質的な無競 争を享受するものが、民間市場において市場競争に参入するのは、どんな場合でも この「市場の公平性」のルールを損なう大きな不公正となるからである。 反対に公共事業が現行制度のようにあくまで競争原理に拘わるのならば、結局は 客観性を担保する為に価格競争にしかならない。とするならば、それは正に現在の ようなダンピング競争にしかなり得ず、そこでは健全な公共事業は究極的には成り立 たない。 公共事業のあるべき制度改革とはこれらのことを充分に理解したうえで、為されな くてはならない。しかしそれが為されるまでは、たとえその為に「健全な公共事業」が 成り立たないとしても、あくまでコンプライアンスの有無を言わせぬ徹底が優先される べきである。何故ならば、このような単に「健全な公共事業」とは、あるべき公正な市 場の犠牲を前提にしなければ成り立たないという点で、「あるべき社会」の実現を永 遠に阻む「悪」であるからだ。 その意味で郷原氏が、「大切なことは、細かい条文がどうなっているなどということ を考える前に、人間としての常識にしたがって行動することです。そうすれば、社会 的要請に応えることができるはずです。」と第3章で述べているのは、特に欺瞞的で ある。 仮に検事のような公権力の担い手が、グローバリゼイションに直面する建設 業経営者のように談合の本質的な不公正がどこにあるのかを理解できなくとも、 もし建設業にコンプライアンスの形式的厳密さを常に徹底させることさえでき 矢作建設工業株式会社

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れば、最高法規である憲法の予定するあるべき社会に、現実の社会も徐々に近 づいて行くことができるのだ。単に「健全な公共事業」ではなく、真に「ある べき公共事業」とは、このプロセスの中からしか生まれない。 コンプライアンスの徹底では社会の要請に応えられぬなどという、元検事には全く ふさわしくないことを主張する郷原氏が学ぶべきなのは、そのような社会はあるべき 社会では無くむしろ滅び去るべきである、というカントの啓蒙の精神である。

(注1)郷原信郎著「法令遵守が日本を滅ぼす」は新潮新書で2007年1月20日に発行されてい ます。

(注2)コンプライアンスとは一般的に「法令遵守」と言う意味で使われています。

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公共事業の談合問題に当社はどう向きあうか 株主の皆様におかれましては日頃より当社経営に対しまして温かい御支援と御理 解を頂いておりますことを心から感謝申し上げます。 さて御承知のように昨年来、一年間以上に亘って日本の建設業界は、公共事業 における談合等の法令違反について司法当局から強力な取締りを受けております。 その結果もたらされた業界全体の「コンプライアンス(法令遵守)の徹底」により、公共 事業はかつて無いダンピング競争市場となり、そこから利益を得るのはもはや殆ど 不可能となりました。 当社は、しかし、この大きな業界環境の変化を基本的に歓迎したいと思います。 それはこのような大変化だけが建設業の経営を真にあるべき正常な姿へ導いて行く と信じるからです。 恐らくダンピングが続く公共事業は、このまま行けば滅び去って行くしかないでし ょう。しかしそのことについて建設業は残念ながら責任を負うことはできません。それ は政治が負うべき責任です。 これはたとえて言うならば国鉄が民営化してJRとなった後、不採算の地方路線が どんどん切り捨てられて行ったことと似ています。元々民間企業である建設業が、不 採算となった公共事業を切り捨てて行くのは当然のことだからです。裏返して言うな らば、不採算の地方路線を公共の福祉の為に維持できるのは、国有鉄道でしか有り 得えなかったように、不採算の公共事業を公共の福祉の為に施工できるのは、本来 国営建設業しかないと私などは思います。 しかしいずれにしてもそれは政治の問題です。しかもそれは、真に成熟した民主 主義だけに解決可能な政治的問題であるように思われます。 当社はむしろ公共事業のダンピングが期せずしてもたらした、もう一方の民間建 築市場の歴史的な正常化への動きを、前向きに受けとめたいと思っています。何故 矢作建設工業株式会社

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ならば、この市場においてこそ当社は、「専門家としての知恵」を存分に振るって競 争に打ち勝ち、株主の皆様の御期待に応えるべきだと考えるからです。 どうか株主の皆様におかれましては、建設業界にとって歴史的な大変化が今起っ ていることを御覧察頂き、この変化を基本的に良いものと考える私共に、相変らぬ御 支持と御支援を賜りますよう心からお願い申し上げ、「社長レター」第5号発行の御挨 拶とさせて頂きます。 敬具 2007年3月

【注記】これは、『郷原信郎著「法令遵守が日本を滅ぼす」を批判する。』を社長レター第5号として 発行するにあたり、株主の皆様に挨拶文として同封したものです。

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37.新入社員の皆さんに期待すること

昨年の入社式でもお話をしたテーマなのですが、今年もまた同じことを繰り返した いと思います。それは皆さん方に是非大人になって欲しいということです。 先月まで学生であった皆さん方の多くは、まず間違いなくまだ子供のままであろう と私は思っています。子供という意味は、勿論肉体的な意味ではなく精神的な意味 においてですが、それはある面でやむを得ないことだとも思います。しかし皆さん方 だけでなく、実は社会人としてもう立派な大人と認められているような人々の中にも、 精神的には子供のままに留まっている人がたくさんいます。皆さん方には、このよう なみせかけだけの大人になるのではなく、これから精神的な意味でも是非真の大人 になって頂きたいのです。 それでは精神的な意味で大人であるような人とはどのような人でしょうか。それは 突きつめて考えると、人類にとって共通の普遍的な理念あるいは理想が確かに存在 することを信じ、その理念や理想に向かって現実の世界が徐々に近づいて行くよう に、それぞれの専門分野において冷徹なリアリストとしてあらゆる行為のできる人の ことだと私は思っています。 では人類にとって共通の普遍的な理念とは一体何でしょうか。18世紀ドイツの啓 蒙の哲学者として名高いカントは、それは「目的の国」を作ることだと言っています。 「目的の国」とは、人間の人間性が社会のどのような要請の為であっても単に「手段」 として使われることを否定し、反対にこの人間性の実現こそをその社会自体の究極 の「目的」とするような国のことです。 これは少し難しい表現かもしれませんが、現在世界の民主主義国家と言われるよ うな国々の持つ憲法すべてに共通する、基本的な理念の更に根源となるような理念 矢作建設工業株式会社

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だと言えます。つまり世界の民主主義国家の憲法が考えるあるべき国家像や世界像 とは、カントのいう「目的の国」を究極の理想としていると言っても良いのです。 日本の憲法も同様のものです。日本の憲法が予定している理念的な日本のある べき社会とは、政治的には成熟した民主主義によって公正平等に統治され、経済的 には公正なルールに基いたグローバルな市場経済主義によって、生き生きとした経 済活動が営まれるような社会です。このような社会の基本構造は、カントの言う「目的 の国」という普遍的な理念に社会が近づいて行く為に不可欠なものと考えても良い 訳です。 この理念はヨーロッパ近代市民社会的な理念とも言われます。従ってこの理念が、 西欧諸国のように長い時間をかけて日本人自らによって勝ちとられたものではなく、 敗戦によって外部から日本に与えられたものであることは事実ですが、だからと言っ てそれに正当性が無いなどということには全くなりません。これに代わる現代日本の あるべき社会の基本的理念は、我々日本人が世界の中で本当に尊敬され、またより 繁栄して行きたいのであれば、他にはありようはないと私は思います。 問題はこの理念が日本人自らによって勝ちとられたものでは無い為に、未だに日 本人の血肉とはなっていないことです。従って戦後の日本の社会が、今に至るまで 憲法の予定するような成熟した民主主義と公正なルールに基くグローバルな市場経 済主義の国であったとは言えないのも事実でしょう。言ってみれば戦後の日本とは、 疑似民主主義に統治され疑似市場経済主義によって経済活動が営まれてきたよう な国で、それが正に社会の実態であった訳です。 しかしその現実の社会が憲法の予定するあるべき社会と乖離している以上、法の 支配の下では、時代の色々な局面で様々な事件が発生するのは避けられないこと です。事実様々な政治経済の事件が時代の変り目で起ってきました。しかしこれは あるべき社会に現実の社会が近づいて行くためには必然のことで、そういう意味で 矢作建設工業株式会社

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は現実の社会が極めて健全であったことの証明でもあるのです。 つまり時代の色々な局面で、今の社会の在り方は間違っているという社会自体の 自覚があったという点で、日本の戦後は根本的には健康であったと言える訳です。 皆さんも昨年来一年間以上に亘って、日本の建設業界が公共事業における談合 等の法令違反、すなわちコンプライアンスの不徹底の為に、厳しい取締りを受けてき た事は御存知でしょう。公共事業の談合問題は大変複雑で考えるのにやっかいな 問題ですが、これもやはりあるべき社会に現実の社会が近づいて行くプロセスの中 で必然的に起った事件と考えるのが、唯一の正しい問題のとらえ方だと私は思いま す。 具体的に説明してみましょう。私達のような現代のグローバリゼイションに直面する 建設業にとって、恐らく最も重要な市場は民間の建築市場だと思います。この市場 において私達は、つきつめれば単に物質的利益の為だけでなく、建築の専門家とし て存分に知恵を振るい互いに競い合うことによって、顧客という他者の人間性のより よい実現に貢献し、同時にそのことによって専門家としての自らの人間性をよりよく 実現したいと願っています。これこそ憲法が予定する公正なルールの支配するある べきグローバルな市場経済の理念であり、カントの「目的の国」をも射程に入れたも のだと思います。 ところが現実の民間建築市場は、必ずしもこの「専門家としての知恵」を競い合え るような市場にはなっていません。何故でしょうか。それは談合等によって、実質的 に無競争であった公共事業が生み出す利益を原資とした、ダンピング受注がこの民 間市場において横行していたからなのです。 迂闊にも私達は長い間そのことに気がつきませんでした。一方で「専門家としての 知恵」を競い合いたいと私達は願いつつ、一方でその舞台となるべき市場を自らの 手で壊していたのです。これは経営の自己矛盾以外の何ものでもありませんが、か 矢作建設工業株式会社

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つてのように談合を必要悪として容認するような社会環境において、個々の企業の 努力だけではどうにもならない大きな不条理とも言えました。 ところがこの一年間の公共事業における有無を言わせぬ「コンプライアンスの徹 底」から生じた、公共事業の激しいダンピング競争が、今正に民間の建築市場の環 境を一変させつつあるのです。何故ならば、ダンピングにより最早公共事業からの 利益を当てに出来なくなった建設業にとって、今度は民間建築市場におけるダンピ ング受注が、急速に不可能となりつつあるからです。 これはどういうことかと言うと、憲法の予定するあるべきグローバルな市場経済の最 も重要なルールである「市場の公平性」というルールが、期せずして日本の民間建 築市場において歴史上初めて実現しつつあるということなのです。言い代えれば談 合の本質的な不公正とは、この「市場の公平性」というあるべき市場の基本的なルー ルを、税金を使って徹底的に破壊してきたことにあったのです。 従ってもし司法当局がこれからも現在のように、建設業に対してコンプライアンス の厳密な遵守を常に徹底させることさえできれば、最高法規である憲法の予定する あるべきグローバルな市場経済に、現実の民間建築市場も徐々に近づいて行くこと ができる筈です。またそれは同時に現実の社会を、憲法の予定するあるべき社会に 徐々に近づけて行くことでもあるでしょう。単に「健全な公共事業」ではなく真に「ある べき公共事業」は、このプロセスの中からしか生まれないと私は確信しています。 このような理由で私達は、現在の談合等の法令違反に対する司法の強力な取締り と、その結果起っている公共事業のダンピング問題を基本的に歓迎しています。そ れは私達の暮らす日本という国が、「あるべき社会」に徐々に近づいて行く為に避け られない生みの苦しみであると同時に、一方の民間建築市場にとっては正に「ある べき公正な市場」の誕生そのものを意味しているからです。この「あるべき公正な市 場」においてこそ、私達は専門家としての知恵を存分に振るうことによって、「目的の 矢作建設工業株式会社

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国」の成員となることができるのです。 裏返して言えば、このような「あるべき公正な市場」が存立できないような今までの 社会環境の中では、私達が仕事を通して普遍的な理念の存在に思い至ることも難し く、それが日本の建設業に携わる多くの人々が、精神的に子供のままに留まってき た最大の理由ではないかと私は思っています。 しかし期せずしてもたらされた今般のコンプライアンスの有無を言わせぬ徹底は、 私達が子供のままに留まらざるを得なかった最大の理由を吹きとばし、それはやが て私達に「目的の国」が絵空事などではなく、確かに存在可能なものであることを確 信させるでしょう。 最初にも言ったように大人とは、人類にとって共通の普遍的な理念が確かに存在 することを信じ、その理念に向かって現実の世界を徐々に近づけて行く為に、それ ぞれの専門分野において冷徹なリアリストとしてあらゆる行為のできる人のことです。 皆さんが大人になる為の条件は既に整いつつあります。あとは皆さんの努力次第な のです。

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38.グローバリゼイションと談合 平成 19 年 6 月 5 日 名古屋工業大学講義録

1. 「子供社会」日本 昨年の秋にも皆さん方にここでお話をいたしました。それは「グローバル化の時代 の建設業経営」というテーマだったのですが、今回もそれに関連したことを話したい と思います。 今年の四月に当社も30名程の新入社員を迎えました。その入社式の挨拶の中で 私は、「3月まで学生であったあなた方新入社員は、精神的にはまだ大人ではなく子 供のままであるに違いない。」と話しました。 私は別に彼らを批判したり非難するつもりでそのように言った訳ではなく、彼らが 子供のままに留まっているのは、ある面でやむを得ないことと考えたうえでの発言で した。この物質的に豊かで貧しさとはあまり縁のない日本という国で、一人の人間が 子供から大人へと成長して行くのは、かえって大変難しいことであるのは、間違いな いように思われるからです。 ですから私の言いたかったのは、今彼らが子供のままに留まっているのはいたし かたの無いこととしても、これから彼らには仕事を通して、精神的な意味でも是非真 の大人になってもらいたいということでした。 何故そんなことをわざわざ言わなければならなかったかを説明します。それは日 本の社会、とりわけ建設業に携わっている人々の中に、精神的な意味で大人と呼べ るような人が極めて少なく、多くの人々が子供のままに留まっているように私には以 前から思われたからです。勿論見かけはみんな立派な大人なのですが、精神的に は子供と言わざるを得ない人が、我が業界にはたくさんいるのです。 しかし私の見るところ、これは本当は建設業界に限った話ではなく、恐らく他の分 矢作建設工業株式会社

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野で仕事をしている多くの人々にも共通して言えることではないかと疑っています。 本当にもしそうであれば、これは恐ろしいことです。日本中の一見すると立派な大 人にみえる社会人の多くが、実は精神的には子供のままに留まっているのならば、 日本はディズニーランドではないですが、子供の国と言ってもよく、それでは日本の 将来は大変危ういものにならざるを得ないからです。 いや正確に言えば仮に社会に子供のような大人が多いとしても、その社会の様々 な分野の指導層が、本当の大人でガッチリと固められているのであれば、その社会 はまだなんとか持つと思います。しかし社会の指導層にあたる人々までが子供のま まであれば、それは破滅的なことになります。そしてそれはあながち、日本の社会の 様々な分野で有り得ないことではないように思われるのです。その一つの典型が建 設業界であるのは間違いないと思います。

2. 「目的の国」 それではそもそも精神的な意味で大人であるとは、一体どういうことでしょうか。そ れは突きつめて考えると、人類にとって共通の普遍的な理念あるいは理想が確かに 存在することを信じ、その理念や理想に向かって現実の社会が徐々に近づいて行く ように、それぞれの専門分野において冷徹なリアリストとしてあらゆる行為のできる人 のことだと私は思っています。 では人類にとって共通の普遍的な理念とは一体何でしょうか。18世紀ドイツの啓 蒙の哲学者として名高いカントは、それは「目的の国」を作ることだと言っています。 「目的の国」とは、一人一人の人間の人間性が社会のどのような要請の為であっても 単に「手段」として使われることを否定し、反対にこの人間性の実現こそをその社会 自体の究極の「目的」とするような国のことです。 これは少し難しい表現かもしれませんが、現在世界の民主主義国家と言われるよ 矢作建設工業株式会社

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うな国々の持つ憲法すべてに共通する、基本的な理念の更に根源となるような理念 だと言えます。つまり世界の民主主義国家の憲法が考えるあるべき国家像や世界像 とは、カントの言う「目的の国」を究極の理想としていると言っても良いのです。 日本の憲法も同様のものです。日本の憲法が予定している理念的な日本のある べき社会とは、政治的には成熟した民主主義によって公正平等に統治され、経済的 には公正なルールに基いたグローバルな市場経済主義によって、生き生きとした経 済活動が営まれるような社会です。 このような社会の基本構造は、カントの言う「目的の国」という普遍的な理念に社会 が近づいて行く為に不可欠なものと考えても良い訳です。 この理念はヨーロッパ近代市民社会的な理念とも言われます。従ってこの理念が、 西欧諸国のように長い時間をかけて日本人自らによって勝ちとられたものではなく、 敗戦によって外部から日本に与えられたものであることは事実ですが、だからと言っ てこれがヨーロッパからの借り物の理念で、日本においては正当性が無い、などとい うことには全くなりません。 これに代わる現代日本のあるべき社会の基本的理念は、我々日本人が現代のグ ローバル化した世界の中で本当に尊敬され、またより繁栄して行きたいのであれば、 他にありようはないと私は思います。 問題はこの理念が日本人自らによって勝ちとられたものでは無い為に、未だに日 本人の血肉とはなっていないことです。従って戦後の日本の社会が、今に至るまで 憲法の予定するような成熟した民主主義と、公正なルールに基くグローバルな市場 経済主義の国であったとは言えないのも事実でしょう。言ってみれば戦後の日本と は、疑似民主主義に統治され、疑似市場経済主義によって経済活動が営まれてき たような国で、それが正に社会の実態であった訳です。 しかしその現実の社会が、最高法規である憲法の予定するあるべき社会と乖離し 矢作建設工業株式会社

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ている以上、法の支配の下では、時代の色々な局面で様々な事件が発生するのは 避けられないことです。事実様々な政治経済の事件が、時代の変り目で起ってきま した。 しかしこれはあるべき社会に、現実の社会が近づいて行くためには必然のことで、 そういう意味では現実の社会が、極めて健全であったことの証明でもあるのです。 つまり時代の色々な局面で、今の社会の在り方は間違っているという社会自体の 自覚があったという点で、日本の戦後は根本的には健康であったと言える訳です。

3. 公共事業の談合問題 皆さんも昨年来一年間以上に亘って、日本の建設業界が公共事業における談合 等の法令違反、すなわちコンプライアンスの不徹底の為に、厳しい取締りを受けてき た事は御存知でしょう。公共事業の談合問題は、大変複雑で考えるのにやっかいな 問題ですが、これもやはりあるべき社会に現実の社会が近づいて行くプロセスの中 で、必然的に起った事件と考えるのが、唯一の正しい問題のとらえ方だと私は思い ます。 これまで建設業界だけでなく他の分野の多くの人々からも、公共事業の談合は現 実の社会の要請に応える為に、暗黙の内に認めざるを得ない必要悪だと考えられて きました。 それは公共事業は、会計法という法律の規定で、本来は単純な価格競争だけの 入札で工事の請負業者を決めることになっており、もしこの法律の建前通りに入札を 行えば、公共事業は際限の無い低価格競争、すなわちダンピングにしかならないこ とが明白だからです。正に今の公共事業の現況がそれを証明しています。 勿論いつかは、50万社とも言われる多くの建設業者の淘汰と、それに伴う大混乱 を経たうえで、赤字でもないけれど黒字でもない需給の均衡点で、入札価格は決定 矢作建設工業株式会社

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されるようになるかもしれません。 しかし優秀な人材の集まる優良な企業の立場からみたら、そのような不採算であ ることが明らかな事業は全く魅力がありませんから、彼らはその過程でどんどん公共 事業を自社事業から切り捨てて行くでしょう。 これは現在のような仕組を前提にすると、今までのような優良企業による質の高い 公共事業は日本の社会から滅び去って行くしかないということなんですね。 ここで「現在のような仕組」を少し厳密に定義すると、「本来政府自らが果たしても 良い、国民に対しての重要な公共サービスである質の高い公共事業施工を、セルフ インタレストだけが唯一の行動原理である民間企業に、政府のエージェントとして代 行させ、政府の支払うべきその代行料については、市場において単純な価格競争 によって決めようとする仕組」ということになります。 そしてこの「現在のような仕組」の内、後半の「市場における単純な価格競争で、 政府の支払うべき公共サービスの代行料を決める」という部分を、法令に違反して実 質的に無競争に変えてしまうことで、優良な企業でも不採算事業として公共事業を 切り捨てる必要が無いようにしたのが「談合」の本質と言えるでしょう。 勿論談合によって価格競争は実質的になくなる訳ですから、このような公共事業 は市場におけるあるべき価格より高いものになる可能性が充分にあります。しかし価 格競争を本当に建前通りに行えば、反対にそれはダンピングにしかならず、質の高 い公共事業は社会から滅び去ってしまいますから、それよりは政府が自ら見積った 予定価格を上限とすれば、多少の高価格であっても社会は談合に対して眼をつむ らざるを得ないだろう、と言うのが談合必要悪論のロジックです。 このロジックを押し進めて行くと、次は必然的に公共事業の実質的な無競争化を、 合法的に実現する法改正の議論が出て来ます。つまり明治に出来た会計法は大変 時代遅れな法律で、現代において健全で質の高い公共事業を安定的に成り立たせ 矢作建設工業株式会社

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るには、合法的に無競争を認めるしかないという議論です。 例えば現在議論されている最低価格制限制度のようなものは、本来の会計法の 精神に反して価格競争を制限し、実質的に公共事業を無競争化するものであり、言 ってみれば政府主導の合法的な公共事業の談合化の試みとも言えます。 いずれにしてもここでの論点は、「健全な質の高い公共事業と価格競争は両立し ない」ということであり、これはある種の説得力を持つようにも思われます。

4. あるべき民間建築市場 しかしこの論理には、実は大きな欺瞞があります。それはこの論理が、私達のよう な現代のグローバリゼイションに直面する建設業にとって、恐らく最も重要な市場で ある民間建築市場を、全く考慮の外に置いていることです。 この市場において私達は、建築の専門家として存分に知恵を振るうことによって、 顧客のアイデンティティーの実現に最も貢献する者と顧客から認められた場合にの み、ライバルとの競争を制することができると考えてきました。またそのことによって初 めて、専門家としての私達のアイデンティティーも実現すると考えてきたのです。 このような市場こそ我が国の憲法が予定する公正なルールの支配する、あるべき グローバルな市場であり、それはカントの「目的の国」の理念をも遠く射程に入れた ものだと私は思っています。昨年秋の私の講義、「グローバル化の時代の建設業経 営」は正にこのことをテーマとするものでした。 少しここでそれを思い出してみましょう。「建築の専門家として存分に知恵を振る う」とは、具体的にどういうことを意味するのでしょうか。前回の講義で私は建築の専 門家を、「建築のあらゆるコスト構造を熟知する者」と定義しました。 しかし現代のグローバリゼイションをもたらした高度情報化社会において、そのよう なコスト構造を熟知する専門家というだけでは、彼は顧客にとってまだ何者でもあり 矢作建設工業株式会社

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ません。何故ならば現代の高度情報化社会とは、そのようなコスト構造を熟知する専 門家など簡単にいくらでも生み出してしまう社会で、単にそれだけでは彼は顧客に 対して、他の多くのライバルと何の差別化も出来ないからです。従って彼は更に専 門家として「知恵」を振るう必要があります。「知恵」とは何でしょうか。 建築の専門家が熟知する建築のコスト構造とは、彼の顧客の立場から見れば「建 築の生み出す顧客自身にとっての様々な価値」を実現するコスト構造に他なりませ ん。ここで何が顧客にとって価値となるのかを決めているのは、顧客自身がそうあり たいと考える彼のアイデンティティーですが、建築の専門家はそのアイデンティティ ーがどのようなものであるかについては元来無知です。しかし反対に顧客は、そのよ うな価値を実現するコスト構造については、元来無知と言えます。 顧客の求めているのは、単にある特定の価値を持った建築でも、ある特定のコスト で買える建築でもなく、常に彼にとって最適な価値とコストの組み合わせを持った建 築です。そうであれば顧客は、自分自身のアイデンティティーについて深い想像力 を持ったコスト構造の専門家を絶対に必要とするでしょう。そのような専門家の助け を借りることによってのみ、顧客は彼にとって最適な価値とコストの組み合わせを持 った建築が何であるかを、知り得るからです。従ってコスト構造の専門家にとって「知 恵」とは、他者としての顧客のアイデンティティーを深く想像する力のことに他なりま せん。 ここで前提となるのは、顧客が自らのアイデンティティーを常により良く実現したい と考える理性的な存在者であることです。このある意味で途方もない前提を売り手に 保証しているのは、正にグローバリゼイションそのものと言えます。 グローバリゼイションの中で、自らも市場において何らかの競争に直面している筈 の顧客は、その競争を制する為に自らのアイデンティティーをより良く実現することを、 売り手と同様に言わば市場から強いられているのです。つまり高度に情報化した現 矢作建設工業株式会社

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代のグローバリゼイションは、経済における一種の自然状態であり、それは売り手や 買い手が市場において単に合理的な存在者であるというだけでなく、更に理性的な 存在者となることを強く促しているのです。 従って顧客は自らのアイデンティティーをよりよく実現する為に、売り手の持つ「専 門家としての知恵」を否応なく必要とします。つまり顧客は否応なく理性的とならざる を得ないのです。そしてこのような「専門家としての知恵」を競い合うような市場にお いて、初めて私達は普遍的な理念が単なる絵空事などではなく、確かに存在可能な ものであることに思い至るのです。

5. 「市場の公平性」と公共事業 しかし現実の日本の民間建築市場は、必ずしもこの「専門家としての知恵」を競い 合うような市場にはなっていません。何故でしょうか。それは談合等によって、実質 的に無競争であった公共事業が生み出す利益を原資とした、ダンピング受注がこの 民間建築市場において横行していたからなのです。このようなダンピングが横行す れば、顧客にとって最適の「価値とコスト」の組み合わせとは何かを競い合うような市 場が容易に成り立たなくなるのは、皆さんにもお分り頂けると思います。 迂闊にも私達は長い間そのことに気がつきませんでした。一方で「専門家としての 知恵」を競い合いたいと私達は願いつつ、一方でその舞台となるべき市場を自らの 手で壊していたのです。これは経営の自己矛盾以外の何ものでもありませんが、談 合を必要悪として容認するような社会環境において、個々の企業の努力だけではど うにもならない大きな不条理とも言えました。 ところがこの一年間に亘る公共事業の談合に対する厳しい取締りと、その結果起 った「コンプライアンスの徹底」から生じた公共事業の激しいダンピング競争が、今正 に民間の建築市場を一変させつつあるのです。何故ならば、ダンピングにより最早 矢作建設工業株式会社

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公共事業からの利益を当てに出来なくなった建設業にとって、今度は民間建築市場 におけるダンピング受注が、急速に不可能となりつつあるからです。 これはどういうことかと言うと、憲法の予定するあるべきグローバルな市場経済の最 も重要なルールである「市場の公平性」というルールが、期せずして日本の民間建 築市場において歴史上初めて実現しつつあるということなのです。言いかえれば談 合の本質的な不公正とは、この「市場の公平性」というあるべき市場の基本的なルー ルを、税金を使って徹底的に破壊してきたことにあったのです。 従ってこの先、たとえ違法な談合が無くなったとしても、先程お話したように公共 事業が最低価格制限制度などによって実質的に無競争のままで残るのであれば、 この不公正は無くなりません。公共事業において実質的な無競争を享受するものが、 民間建築市場において市場競争に参入するのは、どんな場合でもこの「市場の公 平性」の原則を根本的に損なう大きな不公正となるからです。 反対に公共事業が現行制度の建前通りあくまでも競争原理に拘わるのならば、そ れは客観性を担保する為に結局のところ価格競争にしかなりません。とするならば、 これも先程お話した通り現在のようなダンピング競争にしかなり得ず、そこでは健全 で質の高い公共事業は究極的に成り立ちません。 公共事業のあるべき制度改革とは、これらのことを充分に理解しないと手の付けら れない問題であることがお分り頂けたと思います。しかしそれが出来るまでは、たと えその為に「健全で質の高い公共事業」が社会において一時的に成り立たなくなる としても、あくまで会計法の精神に準拠した、コンプライアンスの有無を言わせぬ徹 底が優先されるべきだと私は思います。 何故ならば、このような単に「健全で質の高い公共事業」とは、あるべき公正な市 場の犠牲を前提にしなければ成り立たないという一点で、「あるべき社会」の実現を 永遠に阻む「悪」と言わざるを得ないからです。 矢作建設工業株式会社

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従ってもし司法当局が、これからも現在のように建設業に対してコンプライアンス の厳密な遵守を常に徹底させることができるのならば、最高法規である憲法の予定 するあるべき公正な市場に、現実の民間建築市場も徐々に近づいて行くことができ る筈です。またそれは同時に現実の社会を、全体としても憲法の予定するあるべき 社会に徐々に近づけて行くことにもなるでしょう。 単に「健全で質の高い公共事業」ではなく、真に「あるべき公共事業」とは、このプ ロセスの中からしか生まれないと私は確信しています。

6. 「大人社会」日本へ このような理由で私は、現在の談合等の法令違反に対する司法の強力な取締りと、 その結果起っている公共事業のダンピング問題を、基本的には建設業自身の為に 歓迎すべきことだと思っています。それは私達の暮らす日本という国が、「あるべき 社会」に徐々に近づいて行く為に避けられない生みの苦しみであると同時に、一方 の民間建築市場にとっては正に「あるべき公正な市場」の歴史的な誕生そのものを 意味しているからです。 この「あるべき公正な市場」においてこそ、私達は専門家としての知恵を存分に振 るうことによって、「目的の国」の成員ともなることができるのです。 裏返して言えば、このような「あるべき公正な市場」が存立できないような今までの 社会構造の中では、私達が仕事を通して普遍的な理念の存在に思い至ることも難し く、それが日本の建設業に携わる多くの人々が、精神的に子供のままに留まってき た最大の理由ではないかと私は思っています。 しかし期せずしてもたらされた今般のコンプライアンスの有無を言わせぬ徹底は、 私達が子供のままに留まらざるを得なかった最大の理由を吹きとばし、それはやが て私達に「目的の国」が絵空事などではなく、確かに存在可能なものであることを確 矢作建設工業株式会社

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信させるでしょう。 最初にも言ったように大人とは、人類にとって共通の普遍的な理念が確かに存在 することを信じ、その理念に向かって現実の世界を徐々に近づけて行く為に、それ ぞれの専門分野において冷徹なリアリストとしてあらゆる行為のできる人のことです。 私達が大人になる為の大きな条件が今正に整いつつあります。あとは私達の努力次 第なのです。

7. あるべき公共事業論 最後に「あるべき公共事業」について私の考えを少し述べてみたいと思います。 「あるべき公共事業」を考える場合も、やはり普遍的理念としての「あるべき社会」 から出発しなくてはならないと思います。そのうえで日本という国土が現実の問題と して直面している、ユニークで厳しい自然環境を考慮に入れるべきであり、先にこの 現実問題から考え始めていては、「あるべき公共事業」には到底辿り着けないと思い ます。 日本国の憲法が予定する「あるべき社会」の基本構造とは、先にもお話したように 政治的には成熟した民主主義によって公正平等に統治され、経済的には公正なル ールに基くグローバルな市場経済主義によって、生き生きとした経済活動が営まれ るような社会でした。 社会のこの基本構造の内、公共事業はまず本質的に政治の領域の問題であるこ とをはっきりと理解しなければなりません。しかし先程も定義したように、現在の公共 事業の仕組は、「本来政府自らが果しても良い、国民に対しての重要な公共サービ スである質の高い公共事業施工を、・・・・民間企業に政府のエージェントとして代行 させるような仕組」でした。この定義からも明らかなように、現在の仕組では政府が質 の高い公共事業施工という重要な政治的課題を自らの責任で行うのではなく、市場 矢作建設工業株式会社

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に委ねることで民間企業に代行させている訳です。 ところがこの公共事業を市場に委ねるという考え方そのものが、今正に破綻状態 にあることは明らかです。法律に厳密に従えば、公共事業は必然的にダンピングと なり、質の高い健全な公共事業は成り立ちません。日本の国土が直面する厳しい自 然環境を考えれば、質の低い公共事業が社会的に容認されることは有り得ないと思 います。 しかしだからと言って質の高い公共事業施工の為に、一旦市場に委ねた公共事 業を実質的に無競争とするようないかなる試みも、「あるべき公正な市場」の犠牲を 前提にせざるを得ないという点で、質の低い公共事業から生じるであろう社会的コス トを、更に大きく上回る巨大な「悪」と言わざるを得ません。 従ってそもそも公共事業施工を、市場に委ねるという従来の思想そのものが、ある べき社会においては本来不可能な、あるいは不正なことであるのだと思います。 例えばかつて国鉄が民営化され JR となったことを、戦後の行財政改革の成功例 として持てはやす人が多いのですが、私にはあれは本来政府が果すべきだった、 政治責任の単なる放棄にすぎなかったように思われます。 民営化された JR が、地方の不採算路線をどんどん切り捨てて行ったことは皆さん も御存知でしょう。これはダンピングで不採算となった公共事業を、優良建設業が切 り捨てて行かざるを得ないのと同じことです。裏返して言うならば、市場原理では不 採算にならざるを得ない地方路線を、公共性の為に維持できるのは本来国有鉄道 でしか有り得なかったように、市場原理では不採算にならざるを得ない公共事業を、 公共性の為に施工できるのは国営建設業しかない、と私は思います。 皆さんはこれを突拍子も無い意見と思われるでしょうか。しかし例えば地震や台風 などの大災害が起きた時のことを考えてみて下さい。昔から建設業は、災害復旧活 動の担い手として、社会からなくてはならない存在とみなされてきました。 矢作建設工業株式会社

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しかしそのような災害復旧の初期活動はあくまでボランティアとしてのもので、政府 による強制的な命令に基いたものではありません。強制的な命令に基いたものにな った瞬間に、彼らは公務員となってしまいます。つまり公務員でもない私人に、社会 はボランティアとして災害復旧における初期活動の担い手役を期待している訳で す。 しかしこの私人の善意のみに社会の安全を担わせようとするような社会のあり方、 あるいはそのような社会の要請は、本当に妥当なものと言えるのでしょうか。 勿論私人である建設業が、実際には災害復旧のボランティアを単に善意のみで 引き受ける訳がなく、初期活動が終われば、後はビジネスとして実質的に無競争で 災害復旧活動やその他の公共事業にも携われますから、彼らとしては充分に元は 取っている訳です。私は別にそのことを非難している訳ではありません。彼らの行動 は極めて合理的です。反対にもし公共事業全体がダンピングで本当に不採算にな れば、彼らはそのようなボランティア活動などする訳がありません。つまりこれはボラ ンティアのようにみえても、あくまで将来の利益を期待した私人の営利活動なので す。 私の言いたいのは、例えば災害復旧のような社会の安全に直接関わる活動を、ボ ランティア活動と言おうが営利活動と言おうが、結局は私人の自由な意志に任され た活動でしかないものに大きく依存するような社会のあり方は間違っているということ です。何が間違っているのかというと、社会の安全すなわち公共の利益の為にこそ、 本来責任を負わなくてはならない政治が、この場合自らの役割を全く果さず、私人 の自由な活動領域に丸投げしていることが間違っているのです。 建設業の立場から言えば、政治が自らの責任を果さずに、私人である自分達に社 会の安全を担わせようとするのならば、せめて談合ぐらいは認めてくれと言っても不 思議はないでしょう。 矢作建設工業株式会社

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8. あるべき政治とあるべき公共事業 災害復旧活動を私人としてではなく、公務員として命令に基いて大々的に行う組 織が日本にもいくつかあります。その代表的なものが自衛隊です。皆さんも大災害 の時に自衛隊員の方々が、恐らくは地域の建設業者などと協力しながら、復旧活動 をしているのをテレビ等で見たことがあるでしょう。あれはすべて政府の命令に基い て行なわれる活動です。従ってそれは政治の責任の下で行なわれている訳です。 その活動の主体が自衛隊であることがベストかどうかは別にして、政治が部分的 にせよ、このような公共の利益の為に責任を果すという社会のあり方は、基本的に正 しいものだと私は思います。 それでは災害復旧活動も含め公共事業に携わる建設業を、何故社会はすべて公 務員にしてしまうことで、完全に政治の責任の下に置こうとはしないのでしょうか。一 言で言えばそれは、国民が政治というものをそこまで信用していないからだと思いま す。つまり政治や官僚システムに建設業の経営などを任せたら、とんでもない非効 率の為に、それは大赤字になるに違いないと多くの国民は考えているのです。 しかしもしその非効率や赤字が、例えばJRのように地方の不採算路線を廃止する ことと引き換えに解消できるようなものであるとするならば、それらはひょっとしたら公 共の利益の為にどうしても必要な非効率や赤字であるかもしれない訳です。ですか ら民主的な政治体制における国営企業にとって真の問題は、私企業のように非効率 や赤字そのものにあるのではなく、それらの非効率や赤字が如何なる理由で発生し たものなのか、またそれは公共の利益の為にどこまで容認されるべきものなのか等 を、国民に明解に説明する責任を政治が果さない、あるいは国民がそれを真摯に聞 く責任を果さない―どちらも同じことですが―ことにあると思います。言いかえればそ れは国民一人一人が、民主的な政治体制を維持する為に自分達の政治的理性を、 あるいは自分達の理性そのものを適切に行使する責任を果さないという問題なので 矢作建設工業株式会社

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す。 従って戦後の日本においても、国民の政治的理性によってのみ実現される成熟し た民主主義など、空疎な絵空事と当の国民から見なされ、必ずしも公正平等とは言 えない官僚主導の疑似民主主義的な統治を、国民はある意味で合理的に選択して きたと言える訳です。そして公共の利益を実現する為には、原理的に非効率になら ざるを得ない側面を持つ数多くの国営企業が、同じような合理性の観点だけから安 易に民営化され、それは現在も進行中のことと言えるでしょう。 しかし現代の公共事業にまつわる諸問題は、このような国民の「合理的な選択」が、 グローバリゼイションという経済における自然状態の中においては、むしろその本来 の目的である公共性を崩壊させる最大の要因となりかねないことを、明らかに示して いると思います。 あるいはこれは、昭和20年の 8 月に敗戦という空前の社会的コストを支払った私 達の前の世代が、徹底的に批判しなければならなかったにもかかわらず、批判し尽 くせなかった問題の甦りと言うべきなのかもしれません。 あの戦争と敗戦は、元来自然状態にある日本と世界との関係において、史上最も 悲惨な帰結と言えるものの一つであった訳ですが、そのような帰結を招いた私達の 前の世代に欠けていたのは、必ずしも政治的な合理性ではなかったと思います。そ うではなく、そのような合理性が自然状態にある世界との関係、すなわち異質な他者 との関係においていつも合理的なものであり続けるとは限らない、と考えるだけの政 治的理性が欠けていたのだと思います。 言い代えれば彼らは政治的理性の行使について怠惰であったのであり、その悪 しきDNAは未だに我々の世代に受け継がれていると言えます。その最も大きな理 由は、結局「目的の国」の理想が現実の社会において達成されることの難しさそのも のに由来していると思いますが、現代のグローバリゼイションに直面する私達は、60 矢作建設工業株式会社

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年前とは違って「目的の国」の存在が単なる絵空事ではないことも確かに知っている のです。

9. 結論 結局今日私が皆さん方にお話したかったことは、あるべき社会という人類共通の 普遍的な理念が、我々日本人にとっても絵空事などではなく確かに存在していると いうこと、そして現実の社会がまだそこから遠く離れたものであるとしても、私達はそ れに絶望する必要は全く無いということです。 何故ならば、経済のグローバリゼイションをきっかけとして、私達はあるべき社会の 基本構造の一角を成す「あるべき公正な市場」の理念をはっきりと思い描くことがで きるようになり、その理念は我々日本人がグローバリゼイションの中でこれからも生き て行く限り、社会の中でどんどん浸透して行かざるを得ないからです。そしてこのあ るべき公正な市場の理念の浸透は次に、あるべき政治の理念の具体的なイメージを 国民一人一人の頭の中に、徐々にではあれ必然的に浸透させて行くでしょう。 そのようにして得られるあるべき社会の理念を私達が持ち続ける限り、私達は現実 の社会がそれとは大きく乖離したものであることをいつも自覚せざるを得ません。つ まり普遍的な理念とは私達が自らの病について自覚的であることを強いるものだとも 言えるのです。勿論この病んでいることの自覚は本質的に健康的なもので、私達が 自らの弱さから常に理性的存在者であることは出来ないにしても、やはり本当はそう であるべきことをいつも私達に告げ知らせているのです。 では私達はこのような「あるべき社会」をいつか本当に実現することが出来るので しょうか。私はしかし、そのようなことはあまり気にする必要はないと思っています。仮 に私達の世代でそれを完全には実現できないとしても、私達がこの普遍的な理念の 存在を確信している限り、次の世代である皆さん達に、私達は間違いなくこの仕事を 矢作建設工業株式会社

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引き継いで行くことができるからです。これこそが、この社会の未来に私達が持つこ とのできる最大の希望に他なりません。私が皆さん方の前でこのようなお話をする理 由も実はここにあります。 カントは「啓蒙とは何か」という著作の冒頭でこう書いています。「啓蒙とは何か。そ れは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、 他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間 が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、 自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任 において、未成年の状態にとどまっていることになる。啓蒙の標語とでもいうものがあ るとすれば、それは『想像する勇気をもて』という言葉だ。すなわち『自分の理性を使 う勇気をもて』ということだ。」 私達は私達自身を常に啓蒙し続けなくてはならないのです。 本日は御静聴ありがとうございました。

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講義後の質疑応答から

〔質問〕 「目的の国」とは、どういうことなのかをもう少し具体的に説明して頂けますか。

〔答〕 大変良い質問ですね。私が今日皆さん方に最もお話したかったのは、正にこの 「目的の国」のことと言っても良いのです。 先程もお話したようにカントの言う「目的の国」とは、一人一人の人間の本来持って いる「人間性」が社会のどのような要請の為であるとしても、単にその「手段」として使 われることを否定するような社会でした。何故ならばこの一人一人の人間性の実現こ そ、「目的の国」においては社会の目指すべき究極の「目的」であるからです。 ですからカントはこの「人間性」を、人間にとって既に実現し、獲得されてしまった ものとは考えていない訳ですね。そうではなくそれは不断の人間の努力によって 徐々に開花して行くものと考えられている訳です。そして人間は元々そのような努力 をいやいやするのではなく、条件さえ調えば誰でも自然にそうしようとする生きもの であるとも、カントは考えています。 しかし人間は一人で暮らしているのではなく必ず社会の中で暮らしている訳です から、このような自らの「人間性」を実現させたいという人間本来の自然な欲求も、現 実の社会の様々な要請によってねじまげられ、抑圧を受けてしまうことも大いに有り 得る訳です。しかしもし社会の目指すべき究極の目的が、一人一人の人間の人間性 を実現することにあると社会の構成員全体によって明確に意識されていれば、仮に 様々な社会の要請によって多くの抑圧やねじまげが人間に加えられたとしても、な お彼はその中で彼本来の人間性を開化させる可能性を持つことができます。 矢作建設工業株式会社

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反対にもし単に社会の一要請にしかすぎないものがその社会の目指すべき究極 の目的とされてしまうと、一人一人の人間の人間性はその目的を達成する為の単な る手段としかみなされなくなります。これは悲劇というより他ない結果を生むでしょう。 例えば公共事業が目指しているのは、主に社会の安全という価値と言っても良い でしょうが、これがいかに重要な社会の目指すべき価値であるとしても、それ自体を 社会の究極の目的とするのは間違っているのです。それを究極の目的とした瞬間に、 一人一人の人間の人間性もその為の単なる手段として使われることが簡単に正当化 されてしまうからです。 公共事業の本質的な問題とは、社会の安全という価値を実現する為に、公正な市 場を破壊することが許されるのかという問題と言い代えても良いでしょう。何故ならば そのような公共的な価値を実現する為に、公共事業は市場に委ねられているにもか かわらず実質的には無競争とせざるを得ないのですが、正にそのことが公共事業以 外の市場全体を不公正なものにしてしまうからです。 公正な市場とは、市場においてそれぞれの分野のコスト構造の専門家である売り 手が、買い手という他者と出会うことによって買い手にとって最適となるような「コストと 価値の組み合せ」を持った商品を開発できた場合に、ライバルとの競争を制すること が可能であるような市場です。このような市場において、経済活動を営む人間は初 めて仕事を通して自らの人間性を真に開花させる可能性を持ちます。 しかし無競争の公共事業の利益、すなわち税金を原資としたダンピングがもし公 共事業以外の市場において横行すれば、そもそも「コストと価値の最適な組み合せ」 とは何かを競い合うような競争は原理的に成り立ちません。つまり公正な市場の破壊 によって実際に破壊されるものとは、その中で経済活動を営む一人一人の人間が、 仕事を通して自らの人間性を真に開花させ得るという可能性のことに他ならないの です。 矢作建設工業株式会社

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勿論その中で働く人々が、単なる金儲けや虚栄心を満たしたりすることは他の多く の人々の犠牲のうえに不可能ではないでしょうが、そこにおいて彼らの人間性が真 に開花するということだけは有り得ないのです。 これはやはり悲劇と言わざるを得ない事態ではないでしょうか。私は日本の戦後 経済とは、全体としてこのような悲劇的なものではなかったかと疑っています。 しかし幸いなことに公共事業施工を市場に委ねるという現在の仕組を改め、それ に携わる人々や企業を市場と切り離すことさえできれば、公共事業によってもたらさ れる社会の安全という価値と、経済活動を営む人々の人間性が開花する唯一の舞 台となる公正な市場という価値は、政治と経済という別々の領域において共に両立 することができるのです。政治とは、正にこの両立を可能にする為に存在する独自 の理性の領域のことだと思います。

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39.今年の夏休みには「罪と罰」を読もう。

昨年から新しい社内研修の試みとして、ドストエフスキーの名作「罪と罰」を出来る だけ多くの役職員の皆さんに読んでもらい、併せてその感想文を書いて頂くことを始 めたのは既に皆さんも御存知だと思います。 これは研修とは言っても強制的にやって頂くようなことではありませんから、あくま でも皆さんの自由な意志に任されたものです。ただ会社として何故このような試みを 始めたのかは、皆さんにも是非知って置いて欲しいと思います。 「罪と罰」は、今から150年程前の帝政ロシアの首都、ペテルブルグを舞台とした 小説です。その内容は、人を殺しても根源的には良心の責めなど負うことは有り得な い、と考える主人公の大学生ラスコーリニコフが、本当にそうであるかどうかを自分自 身に証明する為に、実際に人を殺してしまった後、どのような運命を辿るのかを精緻 かつダイナミックに描いた物語と言えます。この「運命」とはつまり、彼がそれを本当 に自分自身に証明できたのか、あるいはできなかったのかと言う運命のことですね。 皆さんはそんなことは分り切っていると言い切れますか。 その彼の運命に決定的な影響を与える役割を担って登場するのが、極貧の家族 の為に自らは娼婦となったソーニャという副主人公です。彼女はラスコーリニコフとは 正反対に、他人の為に自分を滅ぼすことも辞さない愛の実践者として描かれていま す。 つまりこの小説は、150年も前に遠い異国で起った、恐ろしく純粋で真面目な殺 人者と聖なる娼婦を中心として展開する物語なのです。この私達の普段の生活にお いては全く縁もゆかりもないようにみえる人達の物語が、しかし私には実におもしろく、 ひ と ご と

とても他人事とは感じられないようなインパクトで迫ってきます。いやこれは私だけで 矢作建設工業株式会社

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はなく、この本を虚心に読んだ人ならば、誰でもそう感ぜざるを得ない事実だと思い ます。つまりこの本は、私達の内部に元々存在する他者への想像力を激しく掻き立 てる力を持っているのです。 言い代えればこの本は私達を啓発します。あるいは啓蒙すると言っても良いかも しれません。啓蒙とは古風な言葉ですが、18世紀ドイツの哲学者カントは啓蒙につ いてこう語っています。 「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。 未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないと いうことである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の 指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。」 ここでカントの言う理性とは正に他者への想像力を掻き立て、彼らに共感する能力 を持つことと言い代えても良いでしょう。だからこの小説は皆さんの理性を目覚めさ せるのです。 我が社の次代を担う新しい経営層は、この自分自身の理性を使用することの出来 る真の大人達で構成されなくてはならないと私は真剣に思っています。自分自身の う ま

理性を使用するとは、単なる頭の良さのことでも、金儲けの上手さのことでもなく、む しろこの150年前の異国の物語でさえ、他人事とは思えないと感じることです。 もしそうであるのならば、先程も言ったように虚心に読みさえすれば、この本は誰 にでもそう感じさせる力を持っていますから、カントの言うように誰もが元々自分の理 性を持っていることがわかります。 ならば問題はこの本を虚心に読めるかどうかということだけになります。つまり素直 な気持ちになれるかどうかと言っても良いのですが、これが本当は一番難しいことな のかもしれません。社長と言えどもそれは皆さんに要求できないからです。ですから これは皆さんの自由な意志に任せるしかない訳です。 矢作建設工業株式会社

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でも一人の人生の先輩に騙されたと思ってこの本を読んで御覧なさい。あなたの 人生は本当に変わるかもしれませんよ。

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40.セールスプロモーション(販売促進戦略)について

猛暑の夏の間、全国各地で夏休みもとらずにピタコラム施工に携われた多くの技術 系職員の皆さん方、本当に御苦労様でした。皆さん方の御努力のおかげで、今期も 矢作グループは、一定の利益水準を確保できるだろうと思います。 勿論ピタコラムだけでは計画した利益水準の100%には達しませんから、その他 の事業分野においてもそれぞれ目標達成をしていかなければなりません。その為に はそれらの事業分野においても、ピタコラムのように明確にライバルとの差別化が図 られていることが必要となります。反対に言えば、どのようにしても差別化が図れない ような事業分野からは、我々は撤退することも視野にいれなければならないと思いま す。 ところで現在のピタコラム事業は、何によって差別化されていると皆さんは思われま すか。その根底にあるのは勿論ピタコラム工法という技術そのものと言えますが、そ れだけではありません。前にも書いたことがありますが、ピタコラムの買い手である全 国各地の公立学校やそのバックにある地方自治体等の発注行動や発注心理を詳細 に分析し、それらについて一つの仮説を立てることによって、当社が独自のセールス プロモーション(販売促進戦略)の仕組みを構築できたことが、差別化のもう一つの大 きな要因だと私は思います。何故彼らの発注行動や発注心理を当社が詳細に分析で きたかと言えば、彼らは昔から公共事業における当社の馴染みの顧客であったことが 大きいでしょう。 その結果ピタコラム事業においては、我社は直請には拘わらず、地域の建設業者 の下請であっても、利益に拘わる道を選択しました。またピタコラム工法協会を設立 することで、特許技術であるにもかかわらずピタコラム工法を公共財として会員各社に 開放したり、全国各地で発注者を対象としたピタコラム現場見学会を頻繁に開催する 矢作建設工業株式会社

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ことなどで、発注者がピタコラム工法の採用をしやすくなる環境を作っていった訳で す。 これらのセールスプロモーション=販売促進戦略は、いずれも公立学校あるいは 地方自治体という顧客の発注心理や発注行動についてのある仮説(その具体的な中 味はここには書きません。)に基いたものと言えます。またこの仮説は、日々の販促活 動から得られる様々なリアクションによって検証され、より真実に近い仮説へと修整さ れて行きます。そして修整された新仮説に基いて、新たな販促戦略が立てられて行く のは言うまでもありません。 これは当社グループが、他の様々な事業分野において今後目指すべき差別化戦 略にも、大いに参考になることだと思います。例えば現在矢作葵ビルで進めている木 造住宅の耐震リフォーム事業など、その成否はどのようなセールスプロモーションを 構想できるかにかかっていると思います。 大地震の多発する日本の木造住宅オーナーの心配や不安あるいは要望などにつ いて、もし葵ビルが突っこんだ仮説を立て、それに基いた大胆なセールスプロモーシ ョンを構想できれば、耐震リフォーム事業が成功する確率は大いに高くなると思いま す。 また仮にそのセールスプロモーションが想定した通りの成果をあげなかったとした ら、それは最初に立てた仮説の何かが間違っていたことが検証された訳ですから、も う一度セールスプロモーションの結果から仮説を修整し、立て直せば良い訳です。 このような仮説→セールスプロモーション→検証→新仮説→・・・・というサイクルは、 科学における仮説→実験→検証→新仮説→・・・・というサイクルと同じで、最初の仮 説をより真実に近づけて行く為の大変有効で合理的なアプローチだと思います。 従ってセールスプロモーションの本質は販売促進そのものにあるだけでなく、仮説 のどこが間違っているのか、あるいはどの部分が正しいのかを露にして行く為の実験 矢作建設工業株式会社

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の役割にもあると言えます。反対に言えばそのようなことが露になるような独自の実験 =セールスプロモーションの方法を構想することが大変重要になるでしょう。 長い間請負いの中でビジネスをしてきた我々は、「良いものさえ作れば当然顧客は それに気がついて買ってくれる筈だ」というプロダクトアウトの思考にややもすれば陥 りがちです。しかしピタコラムのように特許で差別化された技術でさえ、それだけでは 市場に受け入れられるのは難しく、ターゲット顧客である地方自治体等の発注心理や 発注行動について適確な仮説を立て、それに基いた適切なセールスプロモーション を実行したからこそ、今の成功があることを忘れてはならないと思います。

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