Ksk+suruomoi

  • May 2020
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  • Words: 593
  • Pages: 13
ニコ生小説

清野かほり

 彼女はいま、泣いていた。  黒い画面の中で、必死に声を押し殺しながら。  グチをこぼすことはあったけれど、泣いたのは初めてだった。彼女の心と同じように、僕の心 も痛んでいた。  僕はコメを打ち続けた。 『大丈夫?』『泣かないで』『そんな男、早く忘れちゃいなよ』  コメを打つリスナーは僕一人だった。正確にいえば、今日の生放送のリスナーは、リアルタイ ムではたぶん僕一人だけだった。だから一度コテハンしただけでよかった。  放送枠が 800 に増えて、人気放送と過疎化放送に二極化した。800 枠の被害を被ったのは、 『花 みずき』も同じだった。今夜は特に、人気のある生主が特別企画をやるとかで、ほとんどのリス ナーはそこへ行ったようだ。  花みずきがオーナーであり生主であるコミュは『あるOLの小部屋』という。今日の番組名は 『あるOLの gdgd 独り言』だった。花みずきの独り言は彼氏が浮気をした話になり、彼女が感 情を吐露するところまで発展した。僕はその成り行きを、放送開始からつぶさに見守っていたの だった。  花みずきの彼氏は、話を聞いただけで無性に腹が立つ男だった。軟派なヤツで何度も浮気をし、 彼女を傷つける言葉を平気で吐いた。そして、よく彼女を泣かせていた。糞リア充野郎だ。  真っ黒な画面の上部に、僕のコメが流れている。 『俺が一発、殴ってやるよw』  彼女が短く笑い声をあげた。 『何か力になれることがあるといいんだけど』  そんなカッコのいいコメを書いたけど、僕にできる事なんて、実際には何もない。僕は彼女に 聞かれて『23 歳のフリーター』と答えたけれど、本当は『25 歳のニート』だった。そして彼女 の申告年齢に詐称がなければ、僕は花みずきより一つ年下だった。  コメに気づいて、彼女が涙声で言った。 「ありがとう、たいようくん。話を聞いてくれて、ありがと。それだけで充分」  泣いていても彼女の声は、僕には透き通った水音のように聞こえた。そして、 『たいようくん』 、 その声でハンドルネームを呼ばれるとき、僕はいつも一瞬、彼女の彼氏になったような錯覚を抱 いてしまう。 『話ならいつでも聞くよ、真夜中でも早朝でも』 「うん、ほんとにありがと。ごめんね」  小さく鼻をすする音が僕の耳に届く。  放送時間は@3になっていた。僕たち二人だけの時間は、いつも短時間で終わってしまう。恋 人たちの時間のように、一夜ずっと続いたりはしない。  僕の頭の中でもカウントダウンが始まっていた。あと 30 秒……。

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『花みずき、またね。乙』  彼女もキーボードでレスを打ち込む。 『ありがと♥ 乙』  10…9…8…7…6…5……  この瞬間、僕はいつも目を閉じる。すると笑いながら手を振る彼女の姿が、ぼんやりとだけど 目に浮かぶのだった。その顔はいつも優しげで、とてもチャーミングだ。だけど今夜の花みずき は、やっぱり泣きべそをかいていた。  目を開けたとき、画面ではいつものように、テレビのゆるキャラが踊っていた。           ☆  僕はショボい大学を出て、ある電気メーカー下請け会社の営業マンになった。業績が悪くて、 いつも部長に怒鳴られるキャラだった。いや、それは嘘だ。キャラというのはある程度は演じる ものだけれど、僕はマジで怒鳴られるダメ社員だった。  そんな日々が続いたからか、ある日、僕の腸は調子を崩した。過敏性大腸症候群。病名を書く とそうなる。そして、うつ。会社に行きたくなくなるのは当然だった。そして必然的に、依願退 職を迫られた。  就活する気は起きない。婚活なんて、夢のまた夢だ。僕はただ、狭くて薄暗い部屋に一人、閉 じこもっていた。  シングルベッドに仰向けになった。もう何カ月も陽に当てていない湿っぽい布団。その感触は、 ずっと閉じこもり続けている、この僕にそっくりだった。 『たいよう』なんてハンドルネームは、自分でも最高に似合わないと思う。だけどネットの中で だけ、花みずきの前でだけは、ポジティブな存在でいたい。三次元での自分のイメージを抹消し、 二次元では光の当たる存在でいたかった。  ただぼんやりと、僕は思う。  世の中は平等にはできていない。世の中をスイスイ行くやつは、どこまでもスイスイと行く。 涼しい顔で。そして躓きっぱなしのやつは、何度も躓いて体中に傷を作る。  現実に背を向けるように寝返りを打った。  やっぱり僕の頭は、いつでも花みずきのことを考えていた。  生放送を始めてから約一カ月。週末だけ放送するのが花みずきの基本だった。コミュメンバー は 50 人を超えたけれど、いつもアクティブコメ数は5、6人だった。彼女にとって過疎化は深 刻だろうけど、僕にとってはラッキーだった。ライバルは一人でも少ないほうがいい。  花みずきのサムネは、植物の花ミズキの写真だ。ずらりと並ぶサムネの中では、やっぱり地味 で、あまり目立たない。  僕がなぜ、顔を見たこともない彼女を好きになったのか。  それは言葉では言い表せない。言えるとすれば、その澄んだ声とゆったりとした話し方。決し て自己主張の強い女性ではない。きっと、とても心の優しい人だ。そう思った。

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 PC のアラートが鳴った。僕の体は指先でつつかれたバッタのように反応した。飛び起きて、 すぐさまデスクの前に座る。  花みずきの生放送が始まった。画面はいつものように黒いままだ。  僕はお約束という感じで、最初だけコテハンして挨拶をした。 『今北@たいよう』 「あ、たいようくん。こんばんは。いつも早いね」  想像の中の彼女が、笑顔で手を振ってくれる。僕は彼女の話に合わせ、またいつものようにコ メを打つ。  放送開始 12 分の現時点で、来場者数は 36 人、コメント数は 22。その約半分が僕のコメだ。  今日の彼女は、数日前と様子が変わっていた。いつもより、どこか明るく弾んだ声だった。  異変に気づいたのは、開始から 18 分経った頃だった。細く高い鳴き声が聞こえた。 「みゃーん」  その声にリスナーは敏感に反応した。いきなりコメ数が ksk する。 『ぬこ?』『主、もしやぬこを?』『こぬこか!?』 『子ニャだ、子ニャ!www』  嫌な予感がした。僕はノート PC の画面に顔を近づけた。 『見せて見せて』『主、見せろニャ!』『種類は何?』 『ぬこを見せてくれぇぇぇ』  リスナーたちはコメで絶叫していた。花みずきは、 戸惑いながらも少し嬉しそうな声を出した。 「種類? 種類はね、アメショ」 『生後何カ月?』『見せろってばニャーーー』 『♂♀どっち?』 『名前は?』 「生後二カ月半のおにゃの子だよ。名前はハッシュ」 『ハッシッシw』『なんで突然、飼ったんだ? 寂しかったのかww』 『ぬこを飼う女は結婚でき ないぞ』  僕はコメも打たずに、彼女の言葉をじっと待っていた。 「……やっぱり……寂しかったから……かな」  その言葉が火種になってしまった。 『 w w じ ゃ あ、 俺 が 抱 い て や る w w 』『 w w w w w w w 』 『抱きたい><』 『やらせら やぁぁぁぁぁぁぁ』『OLさんとHしてぇ!』  戸惑い、口ごもっている彼女の表情が浮かんでくる。 『お姉たま、今日の下着は何色?』『wwwwwwwwwwwwwwwww』 『おっきしたwww』  僕の指は反射的にキーボードを叩いていた。 〈red big〉

『おまいら、やめろや!!』  いちばん興奮し、コメで絶叫しているのは、この僕だった。           ☆  あまりの過疎化に耐えられなくなったのかも知れない。あるいは、自分をもっと愛してくれる 人を見つけたかったのかも知れない。

3

 花みずきは、ある日曜の夕方、とうとうカメラを ON にした。胸に抱いた子猫がアップになっ た。 「うちのハッシュちゃんです。カワイイでしょ?」 『うわああ』『かわえええええええええ』『ぬこぬこ動画!』 『たまらんっ (>_<)』  シルバー・タビーの、目の大きな子猫だ。  彼女の部屋の様子が少しだけ見えた。ベージュや薄いピンクを基調とした、落ち着いた雰囲気 の部屋だ。  子猫は猫じゃらしに飛びついたりして跳ね回っている。 『ぬこぉぉぉぉかわええぇぇぇぇぇ』『食べちゃうぞ!』  その時点から、『あるOLの小部屋』のコミュ人数は急激に増えた。簡単に 100 人を超え、200 人を超え、300 人を超えた。そして彼女に対する好意的なコメも、劇的に増えていった。  そこまでなら、僕も素直に喜んでいた。それは花みずき自身が喜んでいたから。それでいいと、 そのままでいいと、勝手に僕は思っていた。  だけど僕の平穏な日々は、そう永くは続かなかった。           ☆  予測通り花みずきは、僕がトータル数百時間も想像した顔を画面の中に出した。  その少し恥ずかしそうな笑顔は、リスナーの絶叫コメとともに弾けた。僕が長い時間待ち望ん だ花みずきの、その笑顔。  彼女は、僕の想像以上の美人だった。とても、とてもきれいなOLさんだった。  小さな画面の中で、彼女は少し俯き、話し始める。 「自分でも、顔出しするなんて、びっくりした」  コメはとても目では追えないほど ksk し、 次々と流れていく。彼女のルックスを賛美する言葉。 発情した♂どもの、雄叫びの声。  僕の心も絶叫していた。嬉しさと辛さで砕け散りそうになっていた。  好意的なコメに、彼女は積極的に答えていく。ありがとう、と。  やめてくれ。僕は心の中で呟いていた。お願いだから、やめてくれ。そんなきれいな顔を、み んなの前に晒さないでくれ。  コミュ人数は、その一枠だけで 500 を超えた。そしてその夜、花みずきは、ちくわちゃんラン キングで堂々の第7位になった。  その夜、僕は、しばらく飲んでいなかったエチカームを二錠飲んだ。そして水を吸ったスポン ジのようなベッドに、そっと潜り込んだ。傷だらけになった、三等兵のように。  衝撃の一夜。その夜を名付けるなら、それ以外に言葉は浮かばなかった。           ☆

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 @たいよう そのコテハンは、ほとんど意味をなさなくなった。  コテハンするリスナーが増えまくって、花みずきはなかなか僕のハンドルネームを見つけてく れなくなった。  放送を始めたばかりの頃は、ごくたまに彼女と僕が1人対1人のときもあった。だけどいまは、 1人対 300 人とか 500 人だ。僕に割り当たられた枠は、たった 500 ぶんの1だった。  花みずきは別の男たちと、今日も楽しそうに会話をしていた。アメショーのハッシュも彼女の 人気ぶりを喜ぶように、ジーンズに包まれた彼女の太ももの上でひっくり返り、お腹を見せたり している。彼女はその姿を愛おしそうに見つめ、 お腹を撫でながらリスナーのコメに応えていく。 『ふ、太ももに顔があああ』『主のぬこになりてえええええ!』  いつもほぼ満員状態の花みずきの小部屋には、当然のようにコメ職人がやってきた。画面いっ ぱいに♥♥♥や☆☆☆が飛んだ。ときには大輪の花火が開いた。彼女の顔が全く見えなくなるほ どに。彼女はそれをいつも、声をあげて喜んだ。  彼女が画面の中で微笑むたびに、僕は孤独になっていった。  放送中、パーカーを着て外へ出ていた。コンビニで買い物がしたかったわけじゃない。  雨が降っている。傘を差さなくても通行人に不審がられない程度の小雨。だけど、やけに冷た い雨だった。  いまは失業保険で食べている。それが切れてもまだ職に就けない身であったとしたなら、僕は 情けなくも親の世話になるのだろうか。そして仕事もない、彼女もいない、親友もいない、ない ないづくしの人生を送っていくのだろうか。  過疎化しているのは、僕自身の人生だった。  僕は歩き続けた。なんの目的もなく、ただ人通りの少ない道を歩き続けた。爽やかな空色だっ たパーカーは、雨を吸い込んで重くなり、いまは深海のようなブルーに変わっていた。これもやっ ぱり、いまの自分にそっくりだった。  彼女との距離は初め、モニターまでの約 30㎝だった。だけどいまは、 何百㎞も遠くにいる人だっ た。  花みずき。彼女はもう完全に、僕の手の届く人ではなくなった。           ☆  放送が何枠目か数えられなくなった頃、花みずきはついに、以前から要望のあったスカイプ ID を公開した。Hana.mizuky  花みずきが誰のために、そしてなんのために顔出しで生放送しているのか。いまの僕には全く 分からなくなっていた。  花みずきは最近、週末じゃなくても放送するようになっていた。そして凸してくるリスナーも 後を絶たなかった。彼女と1対1でコンタクトしたくて仕方がない♂たち。きっとやつらはスカ イプするとき、ジーンズのチャックでも下げているのだろう。  画面を見ながら僕は独り言を言った。

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「一人で寂しくスコスコしてろ」  言ってから、それを自分自身に言ったような気がして、胸に痛い振動がきた。  本当に好きな女の子のことはオカズにできないと誰かが言っていた。きっと、そこに厭らしい ことをしてる、汚らしいことをしてるという罪悪感があるからだろう。それは僕も同じだ。僕は、 花みずきをオカズにしたことは一度もない。  なのに、どうして。こんなに好きな花みずきなのに、どうして僕は——。           ☆  きっかけは、花みずきのミニスカートだった。  いつもはジーンズなのに、そのとき彼女は膝上のスカートを穿いていた。座ると太ももがだい ぶ露出する。当然、♂たちは超興奮し、おっきしまくった。 『お姉さまぁぁぁ顔うめたぁぁい』『その太もも舐めてぇええええ』 『はぁはぁ (*´ Д `) ハァハァ 』  僕は彼女から目を背け、心の耳を塞いだ。  糞野郎ども。ゲス二次元。ゆるいOL。男に媚を売る女。  花みずきが誰かのコメに質問したときだった。ggrks 誰かが書いた。  なぜか僕はその文字列に、過剰に反応してしまった。 『頭の悪いOLさんだ』  そのキーを叩いたのは僕だった。そして、その言葉に叩きが連続した。 『OLってリア充じゃねぇか』 『上司と不倫とかしてんじゃねえ?』 『TNTN 舐めてぇええ』 『三次 元で婚活でもしろや ww』『玉の輿ねらったりしちゃう? w』  僕は花みずきを罵倒するコメを書き続けた。彼女が口を噤み、悔しそうに、悲しそうに目を伏 せるのにもお構いなしだった。  今度は彼女の信者たちが叫び出した。 『荒らし、おまいら帰れや!』『スルーしろスルー』 『NG にしろ花みずき』  無益で無能な争いが続いた。 『本当は男を何人も咥えこんでるんだろ』『俺のも咥えろや BAITAw』 『リア充乙』  彼女はもう画面を見ず、堅く口を結んでいるだけだった。 『花みずきはリスナーを差別します』『うぬぼれるな平凡OL ww』  そのとき僕の言動は荒らしそのもので、心には嵐がやって来ていた。  自分でも、なぜなのか分からない。なぜ僕は、荒らしになったのか。疎み嫌っていた、あんな 低脳でゲスな人種に、なぜなってしまったのか。  その夜、僕はベッドに俯せになり、一青窈の『ハナミズキ』をリピートして聴き続けた。花み ずきが好きだと言っていた『ハナミズキ』。花水木の花が好きだからハンドルネームにしたと言っ ていた花ミズキ。  一青窈の歌声は僕の心を震えさせ、そして永久凍土のように凍らせた。

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 僕は十数年ぶりに、小さな子供のように、枕に顔を埋めて泣いた。           ☆    花みずきが生放送をしなくなって 10 日が経っていた。  そのあいだ僕の PC とアラートソフトは、ずっと起動しっぱなしだった。あんな罵倒コメを書 き殴ったくせに、僕の心は彼女から全く離れられなかったのだ。  あれから僕は 30 分以上、部屋を空けることがなくなった。コンビニも入浴も、いつも 15 分ぐ らいで済ませるようになった。食事もこの部屋でとっている。ニコ厨を通り越しているな、と自 分でも思う。だけど僕の厨は、彼女に対してだけだった。  彼女が会社に行っているはずの時間でも、PC とソフトは起動しっぱなしだ。彼女が会社を休 んで、生放送を始める確率がゼロではないから。  ——やっぱり頭がイカレてる。  もう忘れればいいのに。彼女と出会ったことも、酷いコメを書いたことも、すべて忘れてしま えばいいのに。  だけどバグった僕の心は、いつまで経っても初期化できなかった。  シャワーを浴びて、部屋に戻って来た直後だった。僕は濡れた髪もそのままに、PC の前に座っ た。  彼女は信者凸者と会話していた。相手は声から察すると、20 代後半のようだ。意外に落ち着 いた男の声だった。  画面にはひやかしのコメが次々と流れている。花みずきにも、だいぶスルー耐性がついたよう だ。この 10 日間で彼女に何かあったのだろうか。 「俺の家の庭に、花ミズキの木があるよ」  それがなんだ、と僕は呟く。 「私、花ミズキの花が好きなの。カワイイ花だよね」 「うん、可愛いね」  意味のない話を続けるな——。  僕の荒らしの芽は、やっぱりもぎ取られていなかった。  シャワーを浴びている間に書かれたコメを、スクロールして読んでいった。  彼女が、とうとう例の男と別れたことが分かった。だから彼女はしばらくの間、沈黙していた のだ。そして、これがチャンスだと凸してくる♂が増えた。  放送時間は@5になっていた。凸を切った花みずきが、 いつもの澄んだ声でコメを読み上げた。 次枠を希望するコメが連続している。  花みずきはカメラに視線を合わせた。彼女と一瞬、目が合った気がした。 「じゃあ、次枠も行きます。凸、大歓迎です」  両手を挙げて振っていた。その表情が、顔出しを始めた頃と違って見えた。強く、しなやかな

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女の人の目になっていた。  15 分かかって枠を取ったようだ。この枠でも、すぐに凸が入った。 「ヒデブーさん、凸、ありがとう」  酷いハンドルネームだ。その声は、どう考えても 30 歳以上だった。  彼女はヒデブーとスカイプで話しながら、目でコメを追っている。  もう話のネタも尽きたかと思う頃だった。彼女が言った。 「あ、たいようくん」  僕は瞳孔を見開いた。今日、一度もコテハンはしていない。 「じゃなかった、だいおうくん。ごめんね。いらっしゃい」  僕はコメ欄に目を凝らした。『今北@だいおう』のコメがあった。  ——花みずきが読み間違えた。僕のハンドルネームと——。 鼓動が早まっていた。 どうして——。  僕は自分に都合のいい想像をした。だけど同時に、単なる読み間違えで、大きな意味はないと も考えた。  そうだ、単なる間違えだ。一瞬でも期待を持った自分が、バカに思えてきた。  花みずきの放送には、♂たちの凸が絶えなかった。そのほとんどが好意的な凸だった。  コメでは荒らしも出るけれど、スカイプ ID を知らせなければならない凸で、相手を非難する 人間はいなかった。放送では表示されなくても、花みずきのモニターには男の顔が映っている場 合もあるだろう。匿名性と非匿名性。やっぱりそこには大きな差がある。 「どんどんコンタクトしてね」  花みずきが首をかしげるようにして、可愛らしい笑顔で言う。こんな表情を向けられたら、♂ たちが欲情しないわけがない。続々とコメが打たれる。 『おおおお、かわええええ』『花みずき、好きだーーー!』  彼女は何をしたいのか。僕は考えていた。人気配信者であり続けるためだろうか。それとも、 次の彼氏を見つけるためだろうか。  僕の心臓は嫌な速度で鼓動していた。 『余裕でコンタクト追加しましたー』  それからコンタクト申請をしてくるリスナーが急増した。花みずきは、どこか誇らしげな顔で コメに答えている。  独りよがりなのは分かっているけれど、僕は苛立っていた。いつの間にか手のひらに汗をかい ていた。  放送時間が、また終わろうとしていた。@3  画面の時間表示は、残酷に時を刻んでいく。@2・@1……  咄嗟に僕は、花みずきのスカイプ ID をキーボードで打ち込んでいた。 「あ」  彼女が小さく言った。僕のスカイプ ID は、taiyounanoda——  @ 30 秒……花みずきは、締めの挨拶に入った。

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「今日も観てくれて、ありがとう。スカイプ ID もたくさんゲットできて、嬉しかった」  僕は最後のその言葉を、胸の痛みとともに聞いていた。そして、放送最後に自分が起こした咄 嗟の行動に、とても動揺していた。           ☆  それからまた 10 日間、花みずきは生放送を配信しなかった。僕は待ち続けた。  まともな大人たちから見たら、職を探すほうに懸命になれと言うだろう。でもいまの僕の、唯 一の希望と依存の対象は、花みずきだけだった。他人からは、情けない、ダメ人間だと思われる ことも自覚している。  だけど、彼女へと向かうこの気持ちだけは、どうしようもなかった。  花みずきは、凸してきた相手とデートでもしているのだろうか。あの男と復活したのだろうか。  胃がむかむかする。胸がヒリつく。僕はときどき、頭を掻きむしって叫び出したい衝動に駆ら れる。  僕はすでに半分、ストーカーなのかも知れない。  待っていた時間が、やっと訪れた。  今日の花みずきは、外出着らしい赤い花柄のワンピースを着ていた。♂たちの歓声コメが一斉 に流れる。質問コメに、花みずきは微笑んで答える。 「べつにデートってわけじゃないけど。25 歳といってもね、いちおうオシャレしたい年頃だから」  いつの間にか花みずきは、微妙に自嘲するテクを身につけていた。  ずっと放送しなかった理由を他のリスナーが聞き出していた。彼女は会社の同僚と旅行に出か けていたと言う。どこへ行ったか。何をしたか。何を食べたか。いちど信者になると、リスナー は主のどんなことでも知りたくなる。それは、この僕も同じだった。 「今日も凸、お待ちしてます」  そう言った直後、凸が入った。彼女はハンドルネームを呼んで、歓迎の意を示す。  僕のイライラは加速していた。ksk その文字が自然と頭に浮かぶ。  花みずきは@3となった時点で、5人の凸者と会話をした。そのぶん、もう凸は禁止してくれ というコメもいくつかあった。凸する勇気も話題もない、僕のような信者の意見だろう。いや、 違う。僕はただの信者じゃない。 「あ、あと1分だね」  コメに反応して彼女が言った。僕の中で、残り時間のカウントダウンが始まった。  あと 30 秒、29……28……。花みずきが、さよならの挨拶を始める。  そのとき、勝手に僕の手が動いていた。マウスを握ってクリックする。  スカイプの受話器のアイコン。  コール音が鳴って、彼女が出た。僕の心臓は一瞬、鼓動を止め、喉を縛られたように声が出せ なくなった。

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「もしもし?」  花みずきが少し戸惑った声を出す。僕の映像は、あちら側に送られていない。 「もしもし?」  彼女がまたそう言った途端に、放送が終わった。  制止した彼女の顔には、いつものようにテレビキャラが被っていた。           ☆  いつものように待っていた。僕は追いかけるストーカーじゃなく、 ひたすら待つストーカーだっ た。  いつもの花みずきの放送。凸、凸、凸。凸がなかったら、彼女の放送はもう成り立たないのか も知れない。  僕はコメも打たずに、モニターを見続けていた。  完全に、花みずきにふられた気分になっていた。僕は一度も会ったことのない相手にふられた のだ。告白もしないうちに。  寂しさ。悲しさ。切なさ。やりきれなさ。いくつもの負の感情に切り刻まれている僕は、きっ とこの世で最もダメな♂なのだろう。  今日一日やったことといえば、ニコ生を観た以外に、食事とシャワーを浴びたことだけだった。 社会的には何の役にも立っていない。むしろ地球資源を消費するだけの存在だ。  @2  胸が熱くなり、鼓動のスピードが ksk していた。  僕の思い。  彼女に思いを伝えたかった。知ってほしかった。あんなに酷い言葉を、彼女に投げつけたくせ に。  だけど同時に、僕はとても怖かった。彼女に拒否されたら。キモイと言われたら。僕の唯一の 小さな光は、地獄の黒に塗り潰されてしまう。  @1  伝えたい。伝えたい。たとえキョヒられても。この気持ちを伝えなければ、きっと僕は一生後 悔するだろう。情けない人間のまま、一生を送っていきたくない。  花みずき。僕は君のことが好きだ。大好きだ。ずっと前から大好きだった。  スカイプの受話器のアイコンをクリックしていた。  呼び出し音が鳴って、花みずきが出た。 「……………………」  気持ちを伝えるつもりでコールしたのに、急に頭が真っ白になった。  小声で、僕にしか聞き取れないほど小声で、彼女が言った。 「…………たいようくん、だよね」  僕の頭は完全にパニクっていた。花みずきが早口で話す。

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「過疎化放送の頃から観てくれていた、たいようくん、だよね」  僕の鼓動は限界にまでスピードを上げ、額には冷たい汗が浮かんでいた。 「また……」  彼女がそう言った直後に放送が終わり、画面が停止した。  その直後。なぜか僕はカメラをONにした。  耳で聞こえるくらい、鼓動が大きく鳴っていた。心臓は激しくジャンプしている。 「あ……」  彼女が小さく言った。サブ画面に気弱な自分の顔が出ている。心臓が痛い。 「……たいよう、です……」 「……うん……」 「突然、ごめんね……」 「ううん、スカイプ、ありがと」  彼女は僕の顔を見て、どう思うのだろう。僕自身、自分の顔の正当な評価はできない。ただ、 イケメンじゃないことだけは確かだ。  唾を飲み込もうと思ったけれど、口の中はカラカラだった。喉がヒリついている。 「……花みずき…………」  緊張を通り越していた。僕は強いめまいで、モニターの前に倒れそうになっていた。 「…………好きだ」  とうとう言った。言ってしまった。僕は自分の言動に、 この 25 年の人生でいちばん驚いていた。  彼女の表情は一瞬フリーズして見えて、その感情は推察できない。僕は激しく動揺しながらも、 ひたすら彼女の言葉を待っていた。  沈黙——。  彼女が静かに、その唇を開いた。 「 …… 過 疎 化 の 頃 か ら、 ず っ と 観 て い て く れ た よ ね。 た く さ ん 相 談 に も 乗 っ て も ら っ た。 …………ありがとう」 「……うん」  僕の口からは、ただそれだけしか出てこない。 「……初めて、たいようくんの顔、見れた」 「……うん」  花みずきは一度、俯いて、画面を見た。 「あたし、本名は山村みづき。美しい月って書いて、美月」  みずきは、本名だった——。 「ぼ、僕は、岡田たいよう。大きいに太平洋の洋で、大洋」  小さく小さく、美月は笑った。 「本名だったんだ。あたしと同じ」  僕も小さく笑った。

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 この気持ちを表現できるボキャブラリーを、 いまの僕は持ち合わせていない。言えるとしたら、 ただただ、気が狂いそうなほどに嬉しい。死ぬほど嬉しい。  この瞬間、僕は幸福を感じていた。  彼女に酷いコメを書いた苦さを、心の片隅で感じながら。            ☆  チノパンに、おろし立てのカッターシャツを合わせた。色は今日の空と同じような、明るいブ ルーだ。  久しぶりにスニーカーに足を入れ、僕は家の門を開けて、外へ出る。太陽の下。  心地よい風が頬を撫でた。  緑が濃く香る並木道を、僕は歩き出す。ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめる。  彼女に会えるように、なるために。

c Kaori Kiyono 2009 ※無断転載を禁じます。

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