アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』における「西洋」の位置 Position of the West in Gharbzadegī of Jalāl Āl-e Ahmad 斎藤
正道(東京外国語大学大学院博士後期課程)
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Abstract Gharbzadegī of Jalāl Āl-Ahmad is an essay whose socio-political criticism has affected enormously the Islamist consciousness in Iran since 1960’s. The significance of this essay, on which various studies have agreed, is so great that Hamid Dabashi in his book Theology of Discontent wrote “this was perhaps the single most important essay published in modern Iranian history”. Over the evaluation on this essay, however, many researchers have depicted it as anti-Western, conservative and autistic. Researchers like Mehrzad Boroujerdi posit Gharbzadegī as “the modern Iranian articulation of nativism”, whose “uncritical exaltation of the past and the indigenous can have dire consequences for progressive projects”. On the other hand Ali Mirsepassi, rejecting the autistic nature of Gharbzadegī, evaluates it as “a quest to realize a national modernity in Iran”. He asserts that Āl-e Ahmad’s “critique of the West” “cannot simply be reduced to an anti-Western polemic”. Both of them, however, seem to agree on this point that Gharbzadegī of Āl-e Ahmad is a work that declares indigenous nature of the Self in comparison with negative Other, i.e. the West in the framework of binal opposition. The difference of evaluations between Boroujerdi and Mirsepassi is whether this oppression of the Other = the West means the autistic nativism or progressive nativization of modernity. This study aims at reexamination of the image of the ‘oppressed Other = the West’ in the Gharbzadegī, through which we may be able to see the meaning of “the encounter with the West” for the so-called non-Western world. This study intends to show that in Gharbzadegī, the West is not simply the oppressed Other nor rejected. Rather the West always transgresses the boundary between the Self and the Other, confusing and attracting the former, showing normative (not negative) values which the Self lacks. “The encounter with the West” is a moment in which one recognizes and discovers the relativized Self who is lacking necessary values that the Other = the West shows in abundance, not a moment in which the Self discovers the self-sufficient and faultless one.
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はじめに ジャラール・アーレ・アフマド(1923-1969)1の『西洋かぶれ』 (1964 年)2は、地下出版なが ら多くのコピーが出回り、1960 年代以降のイランにおけるイスラーム主義的政治意識に多大な 影響を与えた、200 ページ強のエッセーである。ハミード・ダッバーシーの言によれば、「『西 洋かぶれ』は高校や大学で、隠れた必読文献の筆頭として読まれ、議論され」、「そのテクスト から一字一句文章を引用できるか否かで、政治活動グループへの入会の是非が決まったほど」3 ガルブザデギー
の成功を収めた著書であり、彼が用いた「西洋かぶれ」という語彙はその後のイランの政治文化 に大きく影響した。ダッバーシーは次のように述べている。 この著書はイランで近代以降出版されたもののなかで、もっとも重要なエッセーである。様々 な賛否両論を引き起こし、イスラーム革命前の 20 年間におけるイランの社会批評の語彙を構成 し、イスラーム革命の言説における「反西洋」的性向を形成する上で、『西洋かぶれ』に比肩し うるテクストはない。「西洋かぶれ」というタームは 1960 年代、そしてそれ以降のイランの政 治語彙に深く根づき、アーヤトッラー・ホメイニーですらイラクでの演説や書簡、宣言の中で用 いたほどである4。 「20 世紀のイランの著作家の中で、彼は西洋的教育を受けたテヘランの左翼から、コムの古 めかしいイスラーム法学・神学生に至るまで、イランの知識人のすべての層に、同じような熱 意でもって(必ずしも好意的ではないにせよ)読まれた、おそらくは唯一の人物だろう」5とい うアーレ・アフマドについてのロイ・モッタヘデの評価は、1960 年代以降のイランの言説空間 における彼の重要性を示す、もう一つの証言である。 アーレ・アフマドとその著書『西洋かぶれ』の政治的重要性について、研究者の評価は一致し ているが、その思想をめぐっては、反西洋的・退嬰的・自己閉鎖的という評価が支配的だ。例 えば、フェレイドゥーン・アーダミーヤトは彼を、「立憲体制を攻撃する」「反動的な集団の塹 壕」6であると切って捨て、マイケル・ヒルマンは「七世紀アラブの宗教」を選ぶか、「人生や 人間的完成、進歩などに対する西洋的価値指向」を選ぶかで引き裂かれ、結果「その必要がない にも関わらず、伝統的過去から出発しようとし、また同様にその必要がないにも関わらず、自 らのイラン性を主張しながら現代にたどり着こうとする」、「文化的葛藤」に悩まされたイラン の知識人として描く7。メフルザード・ボルージェルディーの研究8は、「西洋」が自らのアイデ ンティティを確立するために対称的他者として「東洋」を想像・創造する、オリエンタリズムと 呼ばれる二項対立的言説編成体に関するエドワード・サイードの研究を援用して、近代イラン の国民主義的言説を読み解く意欲的なものだが、「西洋かぶれ」の言説を近代的だが「進歩的プ ロジェクト」にとって障害となる現象として想定しているという点で、ヒルマンと大差ない。ボ ルージェルディーは、イラン・イスラーム革命前後のイラン知識人による「西洋」をめぐる様々 な言述を、歴史的現実から遊離してノスタルジックな過去に埋没する閉鎖的な「ネイティヴィズ
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ム的言説」として特徴づけた上で9、アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』をイランの「ネイティ ヴィズム」の方向性を規定した記念碑的著作として評価するのである10。 これに対してアリー・ミールセパースィーは、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論を「単純 に反西洋的議論へと還元することはできない」とした上で、「西洋かぶれの言説におけるロマン ティシズムは、イランの国民的背景においてのみ実現可能な近代性のイメージを具現化したも の」11、「イランにおけるナショナルな近代性の実現への追求」12であると主張する。つまり、 ボルージェルディーが「西洋かぶれ」の言説を「ネイティヴィズム」のイラン的変奏であり、そ こからの帰結は進歩や発展という観点からは否定的なものでしかありえないと考えているのに 対し、ミールセパースィーは近代性のネイティヴ化への主体的・発展的な試みとして捉えてい るのである。 しかしいずれの議論も、アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』は「西洋」を「我々」との二項対 立における否定的な他者として抑圧することで自己の固有性を宣言する、「反西洋的」著作であ るということに異論はないようである。ボルージェルディーとミールセパースィーの見解の違 いも、それが自己閉鎖的なネイティヴィズムを意味するか、あるいは近代性の発展的なネイテ ィヴ化を意味するかの違いである。これに対し本論は、『西洋かぶれ』における《抑圧された他 者=西洋》像を見直す試みである。「西洋」は単に否定的な価値を象徴するだけの抑圧された他 者なのではなく、自己に欠けた諸価値を示す規範的な他者でもあるということが明らかにされ るだろう。そしてそれは、《西洋との遭遇》とは如何なる現象なのか、という問いを考察するこ とにつながるだろう。
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「西洋」/「我々」の二項対立と権力における主体/客体関係
本章ではまず、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論は「西洋」/「我々」の権力における主 体/客体関係を基本的認識として構成されていることを見ておく。「西洋かぶれ」論を成立させ ているのは、「西洋」は常にあらゆる資源を手中に収め操る権力の主体であり、それとは対称的 に「我々」は「西洋」によって自らの運命に対する決定権を奪われた権力の客体となっていると いう認識である。「西洋かぶれ」論のこのような認識は、しかし次章で検討することになる『西 洋かぶれ』のもう一つの柱である「機械かぶれ」論と無視できない矛盾・対立を抱えている。こ の矛盾を浮き上がらせるための準備作業として、本章では「西洋かぶれ」論における「西洋」/ 「我々」の二項対立という論理構成に焦点を当てたい。
「西洋」と「我々」の二項対立 アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』が「西洋」と「我々」の二項対立によって特徴づけられた 著作であることは、本書の冒頭の部分において早速、きわめて明確な形で現れている。彼はま ガルブ
シャルク
ず世界を「西洋」と「東洋 」、そして後者の一部としての「西洋にかぶれた我々」に分割した 上で(p.21.)、「西洋」/「東洋・我々」の対立を、高賃金/低賃金、低死亡率/高死亡率、低出 生率/高出生率、整った社会的サービス/社会的サービスの欠如、十分な栄養/乏しい栄養、高所
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得/低所得、民主主義の伝統/民主主義に対する無知、富裕/貧困、繁栄/荒廃、文明/野蛮、知/無 知、進歩/停滞、動/静などの対称性によって確認し、更にそれを「日に日に深く広くなってい く、埋めることのできない穴」(p.24)と表現している。 しかし、「西洋」と「我々」は単に正反対の存在として措定されるだけではない。冒頭で「西 洋かぶれ」という現象を、表面は健康そうだが内部は病に侵された「カメムシによる虫害のよう なもの」、「外部からやって来た異変であり、それに適した環境のもとで広がった病気」 (p.21) と呼んでいることからも明らかなように、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論は「西洋」の侵 入によって引きおこされた「我々」の危機をめぐる言説である。「西洋」/「我々」の間に設定 された様々な対立は、生産者/消費者、加工者/原材料提供者、輸出者/輸入者という経済関係を シャルク
ガルブ
軸とした、政治的権力関係として捉え直されるのである。「 東 と 西 はもはや地理的概念では ガルブ
な」く、「経済的な概念である」(pp.22-23.)と述べるアーレ・アフマドは、一方で「西洋」を 「機械を使って原材料をより複雑なかたちにし、市場に供給することのできる国々のすべて」、 シャルク
他方で「東洋 」を「西洋の作った製品の消費者であるような国々の総体」 (pp.21-22.)と定義づ けた上で、「西洋」/「我々」の間には「強制された通商関係」 (p.88.)が存在しているために、 「西洋の産業は我々を搾取し、我々に命令を下し、我々の運命を手にする」(p.87.)一方で、 「我々は西洋の作りだした製品にとって貞淑で従順な消費者にならざるを得ない」(p.27.)と主 張している。しかもこの従属にこそ、「我々のすべての破滅的状況」の根本的原因があると、彼 は指摘する。というのも、「機械の生産者の経済的利益の観点から、つまり国際経済の観点か ら」、非主体的に「我々」の経済的、政治的変化が惹起されるからである(p.126.)。
権力と陰謀の主体としての「西洋」 こうして権力の主体として措定された「西洋」は、歴史的に常に「東洋」に対する経済的支配 への意志を明確にもった存在でもあるとされる。アーレ・アフマドはこのことについて、「太陽 と香辛料、シルク、その他の商品を求めて、西洋はまずはじめにキリスト教の聖地へと赴く巡 礼者の服装で…後に十字軍の武器を持って、それから商人の服装で、それから商品を山積みに した戦艦の保護を受けて、そしてキリスト教の布教者の名の下で、最後に文明の普及の名目で 〔東に〕やってきた」(p.30.)、と述べている。更に「西洋」はその目的を貫徹するために、様々 な「陰謀」を張り巡らせてきたともされる。「真のキリスト教徒である十字軍」と「半キリスト 教徒であるモンゴル人」の共謀による「イスラーム世界」への侵略(pp.63-64.)、「ローマ法 皇」と「ヴェニスの商人」の陰謀による「モンゴル襲来」(pp.65-68.)、「ギリシア人キリスト 教徒」を妻にもつシャー・イスマーイールによるサファヴィー朝の樹立に伴うシーアとスンニー の血みどろの「内部抗争」の勃発(pp.68-69.)などの陰謀の指摘によって、権力の主体として の「西洋」は確固たるものとして歴史的に証明されるのである。 「西洋」のこのような陰謀は時代とともに巧妙化し、それとともに「我々」の内部にその支配 権力を浸透させているという。「西洋」は軍事的に「我々」に攻め入っただけではない。表面上 「旅行者、商人、外交使節、軍事顧問、イエズス会員」として、更には「東洋学者」として「西
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洋」から「東洋」へと来た者たちが、実際には「植民地主義を辛抱強く推進した当事者」であり、 彼らはこぞって「我々の耳」を、眠りへと誘うような「お世辞」や「呪文」によって内的に支配 している(pp.75-76)というわけである。一見公平無私であるかのように見える種々の国際機関 も、植民地主義を偽装しようとする「西洋人のペテン」であり、「ここにすべての非西洋諸国民 の西洋かぶれの本質がある」 (p.27.)と主張するアーレ・アフマドは、20 世紀以降のイランの近 代化政策をこのようなペテンの国内例として挙げている。例えば、彼はイギリスの石油利権獲 得と 1906 年以降の「立憲革命という騒動」の間にある陰謀について示した上で、「最新の進歩 的な変化」とされるものが実は「西洋」の陰謀の「偽装工作」として立ち現れたものであるとい うことを、レザー・シャー期の服装改革を例にとって暴露している(pp.83-86)。そればかり か、女性解放、石油の採掘、農地改革、工業化などの動きもすべて、「我々」に「機械」をはじ めとする様々な商品を売り込もうとする「西洋」の陰謀、侵略の一環とされる。「立憲体制は機 械の先兵」(p.81)であり、「女性解放は、…パウダーや口紅̶つまり西洋の製品̶の消費者の 群を増加させ」 (pp.102-103.)、農地改革は「西洋」の製品であるトラクターでイランの農村を めちゃくちゃにし(pp.92-93.)、人々を「村から根扱ぎ」にすることになる(p.95.)、という わけである。こうして、主要な歴史的変化はいずれも、権力の主体である「西洋」の明確な意志 が刻み込まれた陰謀へと還元されるのである。
文化への侵略による「西洋」の権力の深化 更に「西洋」は、それとは気付かれることのない様々な支配を、至る所で「我々」の内部に深 ファルハング
く浸透させている。このことをアーレ・アフマドは「 文 化 」における権力作用を指摘するこ とで指摘している。「西洋」/「我々」の間の権力関係を規定する強制された生産者/消費者の関 係は、「文化の問題においても存在する」(pp.87-88.)と述べるアーレ・アフマドにとって、「西 洋」の商品化力は「単に鉄鉱石や石油、腸線、綿、ゴムだけではな」く、「神話や信仰、音楽、 そして天上世界」にも及ぶ(pp.21-22.)。「イスラーム百科事典」は「西洋」の文化的・知的 権力がイスラームを原材料として物質化し、実験室へと連れ去り、その有機的統一性を破壊し て、植民地主義的支配を促進しようとした痕跡に他ならない(p.32.)。現在も「西洋」は機械 に続いてその専門家を、更に方言学や文学、絵画、音楽の専門家までも輸出し、「我々」を文化 的に支配しようとしている(p.128.)のである。 すでに見たように、アーレ・アフマドは『西洋かぶれ』の冒頭で「西洋かぶれ」という現象を、 表面は健康そうに見えてもその内部は破壊されてしまっている、そういった病気になぞらえて いた。外部と内部、幻想と真実の二項対立を基本的枠組みとして、「西洋かぶれ」と呼ぶ現象が まさに「表面」ではなく「内側」において進行していることにこそ、その真の危険性があり、か つその根本があることを彼は次のように指摘している。 今やこの旗のもと、我々は自己から疎外された民族のようである。服装、食生活、風俗・習慣、 マス・メディアの領域において、そして中でも最も危険なことに文化=教育の領域において、そ
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う言えるのである。我々はヨーロッパ風に育て、ヨーロッパ風にあらゆる問題を解決しようとす るのである。(p.78.)
もし〔西洋かぶれという〕危険が立憲体制の最初期においては耳元にあったとするならば、今 やその危険は我々の魂に根づいてしまった。(p.79.) 「我々の政治的、経済的、文化的運命は資本主義企業とそれを支持する西洋の政府の手に渡っ てしまった…」 (p.77.)と述べるアーレ・アフマドは、文化的位相における「西洋」/「我々」の 権力関係を論ずることによって、「西洋」による権力作用を遍在化・深化させるのである。
「西洋」/「我々」の権力関係の中心点としての「機械」 「西洋」/「我々」の権力関係は更に、「我々」とは異質で対立する世界である「西洋」の刻印 が押された「機械」の力によって寸分の隙もなく完成し、一方で「西洋」はあらゆる相における 権力をその手に握る全き主体として、他方で「我々」はあらゆる権力を奪われた、全権の支配者 たる「西洋」の暴力の全き客体として、純然と定立されることになる。「他者の手によって作ら れたものは、…何か未知なるもの、見えざる世界、人間の領域外の恐ろしき世界のものを自身 に帯びている」とアーレ・アフマドは言う。「我々」はこの「秘密」に畏怖し、「機械」という 「護符」の奴隷となっている。しかし実際には、「この護符は他者が、我々を震え上がらせ搾取 するために、我々の生に掛けたもの」なのである。「西洋」は「機械とテクノロジーの支配者」 (p.59.)であり、それらを用いて「我々」に破壊的な権力を行使する。それに対して「我々」は、 「機械とテクノロジー」に対して全くの無知であり、それに振りまわされるだけの、無力な客体 にすぎない。『西洋かぶれ』の序論「ある病気の概略」の最後に列挙された「西洋かぶれ」の定 義には、実際次のようにある。 〔西洋かぶれとは〕世界の一部の人々の生活、文化、文明、考え方において、拠り所としての 伝統や、歴史における持続性、そして変化の規則的筋道もなく、ただ機械の副産物として起きる 出来事の総体。… 西洋かぶれとは、未だ機械に手を触れず、そのメカニズムの秘密を知らない、我々の歴史の中の 一時代の特徴である。 西洋かぶれとは、機械についての初歩的知識、つまり新しい科学及びテクノロジーに精通してい ない、我々の歴史の中の一時代の特徴なのである。 西洋かぶれとは商業や経済、石油の往来の強制によって機械を購入し、消費することを余儀なく された、我々の歴史の中の一時代の特徴である。(pp.34-35.) 「機械」は「西洋」/「我々」の「生産者」/「消費者」の関係、更には権力における主体/客体 関係の中心点を成している。アーレ・アフマドは「機械を拒否、排除しようという議論ではな い。…機械とテクノロジーとの向き合い方についての議論なのである」と述べた上で、「機械」
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が如何に「我々」の権力における客体化にとって枢要な位置を占めているかを、次のように表現 している。 我々は西洋の作りだした製品にとって貞淑で従順な消費者にならざるを得ない。…そしてこの ことは、自らを機械のパターンに合わせることを要求する。そしてそれは我々の政治体制に対し ても、文化に対しても、日々の日常生活に対しても要求されることなのである。…このノートの 基本的な議論は、我々はいままで自らの文化的・歴史的特性を、機械とその強制的侵入を前にし て守ることができずに、むしろそれが崩壊してしまったことについてである。(pp.27-28.) それ故、「西洋」/「我々」の一方的な主従・優劣関係を解消するためには、「西洋」の所有 物であり、またその権力の源泉としての「機械」をどのように「我々」のものとして支配下に置 くかが鍵となる。アーレ・アフマドが、「西洋かぶれに対する最後の塹壕」と呼ぶイスラームの 指導者たちもまた、ラジオやテレビといった「敵の武器」で武装して「西洋かぶれ」に対して闘 うべきだと断言し(pp.81-83.)、また別の箇所で「機械」の「秘密」を暴き、それを「作り、 所有」し、そこに自らの「意志を彫り込む」ことで、「西洋」から来た「機械」にただ「身を委 ね」、「西洋の言うがままに留まってしまう」のではなく、それを「我々がその上に乗って、そ の力を利用してなるべく遠くへと跳ぶための跳び台」とすることが可能となると論じている (pp.118-120)のも、「機械」が「西洋」/「我々」の権力関係を、そして「西洋かぶれ」という 現象を規定しているからに他ならない。アーレ・アフマドは次のように言っている。「西洋文明 の本質と哲学を理解しない限り、そしてその理解が表面的なままである限り、機械を消費する だけの西洋の模倣に終わってしまうだろう」(p.28.)、そして「我々がただの消費者である限り ̶機械を作らない限り̶、我々は西洋にかぶれているだけである」(p.29.)、と。
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魅惑の「西洋」と「機械かぶれ」論 「機械」を支配する「西洋」か、「機械」に支配される「西洋」か
ところで、前章の最後に紹介した二つの引用文には、実はそれぞれ続きの文章がある。すな わち「もし機械を作ったものが、いまや自ら叫び声を挙げ、窒息感を経験しているならば、我々 は機械の下僕へとなりさがったことに不満も覚えずに、そのことを気取ってさえいるのであ る」、そして「ここで面白いのは、やっと機械を作った途端、機械にかぶれることになるだろう ということである!ちょうど『テクノロジー』と機械の専制に自ら叫び声を挙げている西洋のよ うに」、がそれである。このような主張は、アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』に大きな矛盾、 あるいは亀裂をもたらしている。というのも、先のアーレ・アフマドの主張は、「西洋」を「機 械」の支配者ではなく、「機械」に支配される者の位置に、「機械」を操るのではなく、「機械」 に操られる者の位置に置くことで、「西洋」と「機械」との関係を逆転させてしまうからである。 マーシーン・ザデギー
つまり、アーレ・アフマドが「機 械か ぶ れ 」と呼ぶこの現象を論ずることは̶『西洋かぶれ』 の第十二章では「機械かぶれについて少々」という章題のもとで 25 ページ近くにわたり論じら
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れている̶、これまで見てきたような「西洋かぶれ」論の重要な前提である、《権力の全き主体 としての「西洋」 》を無効にしてしまうのである。「西洋」は「機械」を操る主体としての地位 から転落し、「我々」以上に徹底的に「機械」によって破壊され、「規格化」 「画一化」された (p.201.)、「均衡のとれぬ病的な者どもの憂鬱病患者的性向」(p.203.)に覆われた社会という 様相を呈することになるのである。アーレ・アフマドは次のように述べている。 〔西洋における人間性の喪失は〕人々が機械の足下で一列に隊列を作らされたこと(規格化) の副産物である。…この人々の「規格化」は、機械の必需品の一つでもある。つまり機械の要素 でもあり、かつその結果でもあるのだ。機械の前では画一化され、工場では隊列を作らされ、時 間どおりに動き、退屈な仕事を一生続ける、これが機械と関わりをもつものの第二の習慣となっ ている。統一化された服装、発言、挨拶、考え方が要求される党や組合に出席することが機械の 下僕の第三の習慣である。すなわち、工場での画一化は党や組合での画一化に帰着し、更に兵舎 での画一化にも帰着する。つまり戦争機械の足下での画一化に!…機械への奉仕のための姿格好、 考え方の統一化は…20 年に一度西洋諸国を血まみれにし、世界を戦争へといざない、最後には それを自ら記念するというところへ帰結する。単刀直入に言えば軍国主義は、…根本的には、自 らの習慣・儀礼を機械にあわせて採り入れるのだ。(pp.201-202.) 本章では、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論と「機械かぶれ」論の間にある、このような 矛盾・亀裂の意味を考察する。この矛盾は、アーレ・アフマドの単なる個人的な気まぐれや誤 謬を表したものではなく、《西洋の発見》によって否応なく《欠如態》としての自己を発見して しまったことで惹起されたものであること、そしてこの自己発見は、なぜ「我々」が「西洋」の 侵略をいつもたやすく許してしまうのか、という疑問に対する不可避的な回答であるというこ とが示されるだろう。すでに論じたように、「西洋」は常に「我々」の隙を窺い、「我々」の内 部への侵入とその破壊を試みる侵略者である。「我々」の歴史は、「西洋」による数々の陰謀に 彩られている。しかしなぜ、「西洋」の侵略がこれほどまでに容易なのか。以下でこの疑問を糸 口にして、アーレ・アフマドによる欠如態としての自己発見を跡付け、そうすることで上述の 矛盾の意味を明らかにしていきたい。
「我々」の本質としての「西洋かぶれ」 アーレ・アフマドは『西洋かぶれ』の序論「ある病気の概略」に続く章「病気の始源」におい て、「西洋かぶれ」の根源的原因について探っている。それによると、「我々」は有史以来、「常 ガルブ
に 西 に視線を送ってきた」というのである。「我々」は息子として、母なる故郷インドから「西」 へと旅立ったことで、固有の存在への第一歩を踏み出したと同時に、「西洋かぶれ」という事態 を招く根源的な原因を自らの内に宿してしまったという。「私が西洋かぶれと呼ぶ事態のありう べき原因の一つが、まさにこの〔インドという〕中心からの逃避にあると私は考えている」 (p.41.)、とアーレ・アフマドは述べている。それ以来「我々」は「肥沃な大地、活況な港、平 和な街、継続的な降雨」に恵まれた地として、「西への関心」を持ち続けてきた、というのであ
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る(pp.51-52.)。 アーレ・アフマドが「西洋かぶれ」の歴史的始源として指摘するのは、「西への視線」だけで はない。アーレ・アフマドによると、「我々の過去の歴史という構築物は土台や柱、塀、家、そ してバーザールなどによって支えられたものではない」という。なぜなら「自らの敷物を敷いた 王朝はどれも、まずは最初にやったことといえば、前の王朝の敷物を取り払ってしまうことだ ったから」(p.44.)である。「父と息子が二代にわたってある建築物を完成させたのは、アケメ ネス朝とサファヴィー朝の二つの時代しかない」、そして「我々の都市文明なる建築物は、まず ある者が基礎を築き、次に来た者がその上に建物を建て、三番目に来た者がそれに飾りをつ け、そのまた次に来た者が発展させるといったようなものではない」とアーレ・アフマドは指摘 している(pp.44-45.)。このようなイランの歴史の特徴である非連続性の延長線上に、「拠り 所としての伝統や、歴史における持続性、そして変化の規則的筋道もなく、ただ機械の副産物 として起きる出来事の総体」として特徴づけられた「西洋かぶれ」という現象があることは明ら かであろう。実際アーレ・アフマドは、「我々が停滞し、西洋が攻め入ってきた」のも、このよ うなイランの伝統的な非連続的性格が一つの原因ではないかと推測している(p.45.)。 以上のことから分かるのは、アーレ・アフマドにとって「西洋かぶれ」という「病気」の兆候 は「我々」の存在そのものの中に深く刻み込まれたものだということである。「西洋にかぶれた 者たち」についてアーレ・アフマドは、「過去と関係をもたず、未来について何のヴィジョンも ない」、「足が宙に浮いた」、「空間に舞う塵、あるいは水上に漂う埃のような存在」であり (pp.141-142)、「信じるものが何もなく」、「信条はなく、主義・主張も、意志も、信念もな い」(p.144)と非難しているのだが、このような特徴はイランの非連続的な歴史から生まれてき たとされる「無関心で、情熱に乏しく、『こんなこともあるさ』的な」国民性(p.43.)と軌を 一にしたものであるのも、何ら不思議なことではない。 このように、「西洋」による権力作用に先立ってすでに「我々」の内部には「西洋かぶれ」と いう病気の兆候が根を張っていることになる。「我々」とはそもそもの始まり、「母なるインド」 から離れ、固有の存在としての「我々」性を獲得したその瞬間から、すでに「西」の方向を意識 せざるを得ず、結果として「西洋かぶれ」の種子を内部に抱えた存在となってしまったのであ る。「西洋」がいつもたやすく「我々」の内部に侵入することができるのも、「我々」がその始 源からすでに常に「西洋かぶれ」的であったからに他ならない。このような議論は、「我々」が いつから、そしてなぜその純粋性と完全性を失い、「西洋かぶれ」へと頽落していったのかとい う根本的問いに対する不可避的な答えでもあるのである。
不在の「我々」と充溢の「西洋」 「我々」は常に何かが《欠けている》、《不在》の状態にあるという感覚は、アーレ・アフマ ドの「西洋かぶれ」論の基底を成している。すでに明らかなように、《全き主体》としての「我々」 、、 は歴史的に一度たりとも純粋な形で存在したことなどないのであり、「我々」から「西洋かぶれ」 の兆候を排除することは、歴史の始源において存在していたかもしれない《全き主体性》の回復
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などではなく、既存の「我々」の超克と新たなる「我々」の創出に他ならないのである。 ではそのためには、何をモデルとしたらよいのだろうか。この《不在》は、どのようにしたら 埋めることができるのであろうか。古代イランは確かに、「西洋」への対抗意識によって「我々」 の内部にある「西洋かぶれ」的な要素を抑圧してきた。それは「ヨーロッパ中世の暗黒時代に埋 もれていたアリストテレスを翻訳し、それを広め、またはローマの軍隊様式を取り入れ、彼ら の都市建設の方法を学ぶ」ことで、「彼ら〔西洋〕を自らの基準で測ってきた」(p.52)のであ り、「我々は世界のこちら側にいて、ある文明全体を一握りにするかの如く、世界を自らの範疇 において捉え、また世界に自らの焼き印を押す」ことができたのである(p.39.)。それはある べき真の主体性のかけらのようなものを、遠き過去よりうっすらと提示している。だが、それ はまた同時に進行しつつある「西洋かぶれ」という「病気の始源」でもあるのだ。「我々はホス ロー・アヌーシールヴァーン〔サーサーン朝の王ホスロー1 世のこと〕の時代より誇大妄想を抱 き、お世辞に心を奪われてきた」(p.76.)、とアーレ・アフマドも述べている。 むしろ彼の「西洋かぶれ」論において、「我々」に《不在》の主体像をもっとも具体的かつ豊 富に提供するのは、実は「西洋」に他ならない。「西洋」は「我々」に欠けた何かを教えてくれ る、豊潤な他者である。そこには「我々」が歴史的に忘却してしまったものばかりか、「西洋か ぶれ」の種子とは無縁の《全き主体性》が充溢している。それは「我々」を常に特徴づける《不 在》とは対称的である。例えばアーレ・アフマドは次のように述べている。 〔イスラーム世界がキリスト教世界を包囲し、知の中心であったような〕まさにそのような歴 史があった直後のことなのである、イスラームのジハードを嘲笑していたキリスト教徒たちが自 らジハードを行う十字軍兵士へと変貌し、この十字軍の長き戦いの中で 5、6 世紀後の西洋キリ スト教世界を資本と技術、知の支配者に、更に 7、8 世紀後工業と機械とテクノロジーの支配者 にするような基礎を、イスラームの諸々の技術と知から引き出す形で築いたのは。このようにし て、もし存亡の恐怖にあった西洋キリスト教世界がイスラームの脅威に対して突然目覚め、塹壕 を掘り、抵抗に立ち上がり、結果救われたとするならば、今度は我々が西洋の権力に対して危機 感を募らせ、立ち上がり、塹壕を掘って抵抗する番ではないだろうか。(pp.59-60.) 要するに、ジハードを行い、様々な「技術と知」を有していたであろう「我々」は、いつの間 にかそれらを忘却し、代わって「西洋」がそれらを吸収し、今や知、機械、テクノロジー等の支 配者となって繁栄を享受している、「我々」も今ある危機に対して「西洋」のように「目覚める」 必要がある、というわけである。アーレ・アフマドによると、「西洋」がインドや中国と交易す る航路を開拓したのとは対称的に、「我々」は「シーア派主義に基づく国民統一体制という繭に 沈潜」し(pp.60-62.)、十字軍戦争の際に「西洋」がローマ法王の命で団結し、モンゴル人ら と用意周到な陰謀を画策したのとは対称的に、「我々」は危機意識ももたずに党派主義的分裂と 神学論争に明け暮れていた(pp.63-65.)という。進取の気質に富み、未来に対して明確な意志 をもち、目的のためなら団結する「西洋」とは対称的な、退嬰的で、過去に沈潜し、下らぬこと に拘泥して分裂する「我々」。その結果として「西洋」が「資本と技術、知の支配者」、そして
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「工業と機械とテクノロジーの支配者」となり、現在繁栄を謳歌しているならば、「我々」も「西 洋」の範に倣うべきではないかというのである。
知の主体としての「西洋」 「我々」に《欠けたもの》を提示してくれる豊潤な他者としての「西洋」。このことを顕著に 示すのが、《知》における充溢/不在というテーマである。アーレ・アフマドが『西洋かぶれ』 の冒頭の章で「西洋かぶれ」の定義として、「西洋かぶれとは、未だ機械に手を触れず、そのメ カニズムの秘密を知らない、我々の歴史の中の一時代の特徴なのである」、そして「西洋かぶれ とは、機械についての初歩的知識、つまり新しい科学及びテクノロジーに精通していない、 我々の歴史の中の一時代の特徴なのである」と述べる一方、他方で「西洋」を「資本と技術、知 の支配者」、そして「工業と機械とテクノロジーの支配者」と呼んでいることは、このことをよ く示している。 《知の主体》としての「西洋」というテーマは、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論の多く の箇所で確認することのできるものである。何らかの陰謀やペテンの主体であれ、「西洋」はと もかくも「我々」が知らぬ何かを知っているからだ。イランの発展計画を「西洋」が推し進める のも、彼らが「イランの市場が西洋の工業製品をどれだけ受け入れ、購買者としてどれだけの容 量を有しているかを、西洋の産業界は知っているから」であり(p.135.)、「ヨーロッパ人は我々 の気質を知り、どのようにして我々を驚かせ、どのようにして貸しをつくり、更に関税を取り あげればよいかについて学ぶ」(pp.76-77.)、「彼はおまえに何を売るべきか、もしくは少なく とも何を売るべきでないかを知っている」 (p.87.)、「西洋はこの売り手と買い手の一方通行の 関係を決して壊さずに保つためには、どのようにしてことを調整すればよいかを知っている」 (p.125.)とアーレ・アフマドは述べている。 アーレ・アフマドは「西洋」の陰謀について、「彼らのやっていることは、我々のようなでた らめなものではない。計画に則ったものなのだ」 (p.135.)と述べている。「陰謀」(towte’e)と は語義的には《前もって準備すること》の意であり、「我々」を欺こうとする計画性が《充溢》 している。それに対し、イランでは学校の数は自然に繁茂する「野草」のごとく増加の一途をた どっており、「我々の教育には何の前もっての計画もない」(p.177.)。また都市は「癌腫瘍」 の発達のごとき膨張を続けているが、「水道や電気をとおすことも、大通り、小道の別を問わず 道路の建設も、電話線や下水処理の整備も、前もって計画されてはいない」 (pp.161-162.)。 《知者=西洋》は、それが発する「呪文(あるいは護符) 」によって《無知者=我々》を支配し ているともされる。「ここ三百年間実際に我々の王族や高官たちの真の教育者であったヨーロッ パ人のおべっか使いに、我々の耳は支配されるようになった。こういったおべっかはすべて、 誰かが隊商を襲うまで安らかに眠りこけている老いぼれの関守の耳元でこだまする呪文のよう なものなのである」(p.76.)、というわけである。すでに見たように、「機械」という名の「護 符」は「他者が、我々を震え上がらせ、搾取するために、我々の生に掛けたもの」であり、この 「護符」の「秘密」、「謎」を暴くことをアーレ・アフマドは提起している(p.120.)。更に、
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アーレ・アフマドは「アリ・ババと四十人の盗賊」の話になぞらえて、「呪文」の性質について 次のように述べている。 我々が壁の後ろにたって、扉の隙間からのぞいていると、盗賊たちがやってきて、呪文を三回 繰り返すと、壁が扉のように後退する、するとその奥にはなんと財宝が眠っているではないか! 我々はこの盗賊たちのまねをして呪文を唱えようと、未だに大変な努力をしている。呪文を苦労 して覚え、オウムのように同じ言葉を唱えると、壁は確かに後退する。ところが、その奥にある はずの財宝はもうみんなもっていかれているではないか!財宝の誘惑と呪文から解放されて、な ぜあの壁が後退したのかに注目して、あの扉の動きの秘密、呪文の効果について解き明かしたと きに 、我 々は 学問 的方 法を 手に 入れ て、 機械 とい う護 符の 謎を 暴く こと がで きる のだ 。 (pp.121-122.) 「呪文」を操る者、それは富と権力を思いのままにする《知者》であり、反対に「呪文」に操 られる者とは権力と富を強奪される《無知者》である。言うまでもなく、「西洋」は前者であり、 「我々」は後者である。知と権力と富が充溢した「西洋」が、それらが不在の「我々」の内部へ いつも容易に侵入し、「我々」を攪乱してしまうのも、なるほど無理もないことである。そもそ も「西洋」が《脅威》として「我々」に現前しているのも、「我々」にはない何かをもっている からに他ならない。
「西洋」の魅力の拒否としての「機械かぶれ」論 こうして私たちはアーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論において、《知者》としての「西洋」 が「我々」に対して絶えず発散する魅力の一端を垣間見ることができた。しかしもしそうである ならば、「西洋かぶれ」論の大前提であるはずの「自らの文化的・歴史的特性」の防衛というテ ーマは、それ自体無意味なものとなってしまうのではないだろうか。なんとなれば、一方で「西 洋」が諸価値の充溢した存在であり、他方で「我々」がそれらの不在によって特徴づけられるよ うな存在であるならば、そもそも「自らの文化的・歴史的特性」など守るに価するのか、という 疑問が生まれてくるからだ。アーレ・アフマドはこのような懐疑を断固として排除し、「西洋」 の魅力を断たねばならない。 このために、アーレ・アフマドは「西洋」の諸価値そのものを反人間的なものとして、「西洋」 が作り上げたとされる「機械文明」もろとも否定するのである。これこそがアーレ・アフマドの 「機械かぶれ」論に他ならない。機械文明は人間を「機械」の奉仕者にし、奴隷化させる。そし てこの「機械」の圧制は、「西洋人」の人間性を破壊し、彼らを植民地主義へと駆り立て、世界 大戦へと誘うことになる。西洋起源の議会制民主主義や政党政治といった諸制度は、「機械」に よって人間性を破壊された「西洋人」が自らの精神疾患を和らげるためにこしらえたものに他な らない。「西洋の民主主義社会にあっては、政党は均衡のとれぬ病的な者どもの憂鬱病患者的性 向を満足させるための説教壇だ」(p.203.)、とアーレ・アフマドは述べている。ファシズムと はこのような「西洋」の精神疾患を慰めるための究極的な姿である。「原理については誇張し、
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細部については狂信的なファシスト党やその他の集団は、細心の注意を払って、これらの精神 を患った人々を満足させようとしている」(p.203.)。「西洋」という「機械かぶれした進歩的 社会」は、それゆえ前衛的知識人たちを中心に、人間性の回復を目指して「東洋」へと接近して いる。「彼らは世界の片隅の東洋の美しさ、処女性に魅了され、生活、芸術、政治における西洋 の価値基準の根本を揺るがすような作品を残したのであった。…彼らのいずれもが、別の生き 方、慣習を求めて、西洋の枠の中では知ることのできない世界を、東洋やアジア、南アメリカ に、見つけたのであった」(pp.205-206.)、と言うのである。
「機械かぶれ」論における「西洋」の魅力 こうして徹底的に価値貶下を受けた「西洋」はもはや、その魅力を「我々」に対して完全に失 ってしまったかのようである。芸術や倫理の領域だけでなく、政治的領域にまで「西洋人」が「東 洋・アフリカ的基準に逃避」している一方で、なぜ「我々」は自らの価値を忘却し、「西洋かぶ れ」しなくてはならないのか、実際「東洋、あるいはアジア、アフリカ、南アメリカの精神的資 源が、知性が高く教育を受けた西洋人の心を奪っている」ではないか、というわけである (pp.207-208)。 「機械」の支配者から「機械」に支配される「憂鬱病患者」としての「西洋」。「西洋かぶれ」 論と「機械かぶれ」論のこのような矛盾は、アーレ・アフマドが「西洋かぶれ」論において無自 覚なまま受け入れてしまった、「我々」に欠けた様々な価値の具現者、《知者》としての「西洋」 の魅力を排除しようとする、『西洋かぶれ』というテクストに現れた葛藤に他ならない。「東洋」 に魅了される「西洋」というアーレ・アフマドの表現は、「西洋」に魅了される自己を否定しよ うとする試みの現われであるとも言えるかもしれない。 しかし重要なのは、このようなアーレ・アフマドの努力にも関わらず、「西洋」の魅力は「機 械かぶれ」論の内部にも侵入していることである。例えば、「機械かぶれ」論においても「西洋」 は依然として《知者》であり、「我々」は《無知者》のままである。すでに見てきた例からもわ かるように、機械文明の問題を悟り、「東洋」へと接近するのは「西洋」であって「我々」では ない。「西洋」は徹底的に「機械」に支配されながらも、「東洋」の諸価値に目覚めているのと は対称的に、「我々」は未だ「機械の下僕へとなりさがったことに不満も覚えずに、そのことを 気取ってさえいる」のだ。このことは一部の前衛的な知識人に限った話ではない。「西洋の若者 たち」は自らの問題に気付き、「東洋」の文化に接し、「日本の庭園」、「インド料理」、「中 国茶」を楽しむ(p.207.)一方で、「我々」の若者たちは農村を捨て都市へとなだれ込み、サン ドイッチをほお張り、映画にうつつを抜かし、「下半身を刺激し、時間をつぶし、無秩序な快楽 をむさぼる」(p.164.)。 アーレ・アフマドは「機械かぶれについて少々」の最後の方で、「西洋人が育んだ専門的知識 には個性が伴っていない」、そして「西洋はテクノロジー(そして資本主義)の強制力の結果、 すなわち機械かぶれの結果、個性を犠牲にして専門的知識を得た」(p.217)と述べることで、 「機械」に支配される者としての「西洋」を再度強調している。「個性(shakhsīyat)」について、
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アーレ・アフマドは次のように述べている。 もし教育の役割というものを信じることができるのならば、それは西洋かぶれという危機に起 因する社会の混乱状態にあって、このキャラヴァンを最終的にどこかへ導くことのできるような、 傑出した個性を発掘することであろう。…このような社会の変化、危機の時代に生きる我々にと って、特に、献身的で命を顧みない、原理的な者(心理学の通俗的なことばでは、彼らを非妥協 的で、強情で、均衡のとれていないと呼ぶが)だけが、このような変化、危機の時代の重責を果 たすことができるのだ。(pp.213-214.)
この変化の時代にあって、我々に必要なのは、個性をもち、専門的知識に通じ、非妥協的で、 原理的な人間であって、いままで挙げてきたような西洋にかぶれた人間ではない。(p.216.) 「個性」をもった人間は、「古びた制度をその重みもろとも、一瞬にして土台から崩壊させる」 ことのできる「若々しく、荒々しい、動的な力」 (p.216)であるとされる。この力は、「個性」 のない「西洋にかぶれた者」の《女性的》性質̶「ゴシップ好きな(khāle-zanakī:khāle は「叔 母」、zanak は「女」のこと) 」「老婆」のようであり(p.146.)、「軽々しく」「女々しい」(p.147.) とされる̶とは対称的である。それはむしろ、支配への意志が明確な、極めて動的な存在であ る「西洋」と軌を一にしている。アーレ・アフマドが描く「個性」をもった者、すなわち「原理 的(osūlī)」で「均衡のとれていない(nā-mota‘ādel)」者が、「機械かぶれ」し、個性を失った 「西洋」の諸問題、すなわち「原理(osūl)については誇張」するファシストや「均衡のとれぬ 病的な者(ādam-e nā-mota‘ādel va bīmār-gūne) 」(p.203.)と期せずして酷似しているのも、決 して偶然ではない。「個性」を失ったはずの「西洋」はここでも、「我々」の「停滞」とは対称 的な自らの「ダイナミズム(taharrok)」(p.24.)によって、「動的(moharrek)な力」をもつ とされる「個性」の存在をアーレ・アフマドに示唆するのである。 以上のように、アーレ・アフマドの意図とは別に、そして「機械かぶれ」論における拒絶にも 関わらず、「西洋」の魅惑的価値は『西洋かぶれ』というテクスト全体を覆っているのである。
結論 以上のように、アーレ・アフマドの「西洋かぶれ」論において、「西洋」は常に「我々」に欠 けた様々な価値(富、権力、知識、団結、主体性、発展、未来に対するヴィジョン、…)の具現 者として立ち現れているのであり、このような「西洋」の魅惑的な諸価値を否定しようとする「機 械かぶれ」論においても、その侵入を食い止めることはできない。「西洋」とは、排除しように も排除しきれずに、むしろ「我々」の内部に常にすでに侵入し、「我々」を撹乱すると同時に 「我々」に自省を促す、魅惑的他者なのである。 もしそうであるならば、本論の冒頭で見た『西洋かぶれ』の既存のイメージ、すなわち「西洋」 との遭遇によって惹起された「反西洋的」で、排他的・自己閉鎖的・ネイティヴィズム的テクス
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トとしての『西洋かぶれ』というイメージは修正されなくてはならない。オリエンタリズムとい う「閉じられたシステムのもつ自己充足的・自己補強的な性格」を強調するサイードにとって、 いかなる他者との遭遇もこの閉鎖性を循環的に強化することにしかならない。その結果、「ヨー ロッパは自らの殻の中に閉じこもってしまった」13と彼は述べている。しかし、このようなサイ ードの想定をそのまま『西洋かぶれ』に当嵌めることはできない。アーレ・アフマドの『西洋か ぶれ』は、「西洋」/「我々」の二項対立の枠組みの中で「我々」としての閉鎖的なアイデンテ ィティを立ち上げるテクストというよりも、むしろ「西洋」との関係の中で「我々」に欠けたも のが露にされ、相対化された者としての「我々」の存在を発見する、《自己反省的》テクストだ からである。 アーレ・アフマドの『西洋かぶれ』が近代的なテクストであるとするならば、それは単に「西 洋」を認識することを通して「我々」としてのアイデンティティを認識するという空間的感覚だ けがその根拠なのではない。それだけでなく、「西洋」が具現する様々な近代的諸価値と遭遇す る中で、それらをもたぬ《欠如態》として「我々」を相対化して認識し、それらの充足を求める からでもある。この《欲望》は、「西洋」との遭遇によって創出されたものであるという意味で、 グローバルな欲望であると同時に、規範的他者としての「西洋」の具現する諸価値を求めるとい う意味で、《西洋化》への欲望でもある。この《西洋化》への欲望は、「西洋」の諸価値がその 手を離れて世界中に拡散し、内面化されるという意味で、《グローバリゼーション》という現象 を指向する。それは、ミールセパースィーが想定するような《近代性のネイティヴ化》への追 求、あるいは《複数の近代性》の実現への主体的な関与を意味するというよりも、むしろ「西洋」 によって象徴化された近代性のグローバルな拡大の一翼を否が応でも担うことを意味する。「西 洋」からの影響によって惹起された変化をことごとく「陰謀」として拒否するアーレ・アフマド の《反西洋化》=反グローバル化の思想も、ここから免れることはできない。 「我々」は「西洋」との遭遇によって、(「歴史のロマン化」ということばに象徴されるような) 充足した、自己完結的な自己を確認するのではない。逆に他者との比較の中で、常にすでに他 者の具現する価値が欠如し、不完全で、それだけに一層それらを《欲望》する自己を発見するの である。
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テヘランのウラマーの家庭に生まれたアーレ・アフマドは、1940 年代半ばにイランの共産
主義政党トゥーデ党に入党、その後も社会主義結社「第三勢力」に加わるなど、左翼知識人とし ての経歴を持っている。実際彼の議論には、マルクス主義的傾向が多く見られ、また彼のもう 一つの重要な著書『知識人の奉仕と裏切り』(1968 年)では、マルクーゼやグラムシといったヨ ーロッパの著名な左翼知識人の文章が詳細に引用されている。更に、彼はフランスのマルクス 主義的実存主義者であったサルトルの熱烈な信奉者であったことが知られている。 2
『西洋かぶれ』は、「イラン教育目標評議会」に対して 1961 年に提出された報告書が元と
なっている。この評議会の成果は教育省から報告集として出版されたが、アーレ・アフマドの 報告は掲載されなかった。そこでアーレ・アフマドは、1962 年に自費出版し、その後加筆修正
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を施し、1964 年に第二版を地下出版した。本論で用いたのはこの第二版(Jalāl Āl-e Ahmad, Gharbzadegī, Tehrān:Enteshārāt-e Ravvāq, chāp-e dovvom, 1343kh.)の方である。 3
Hamid Dabashi, Theology of discontent: The ideological foundations of the Islamic Revolution in
Iran, New York: New York University Press, 1993, p.76. 4
Ibid., pp. 73-74.
5
Roy Mottahedeh, The Mantle of the Prophet: Religion and Politics in Iran, New York:
Pantheon Books, 1985. p.287. 6
Fareydūn Ādamµyat, ‘Āshoftegī dar fekr-e tārīkhī’, in ‘Alī Dehbāshī (ed.) Yādnāme-ye Jalāl
Āl-e Ahmad, Tehrān: Enteshārāt-e Pārsārgād, 1364kh. p.545. 7
Michael Hillmann, Iranian Culture, Lanham: University Press of America, p.139.
8
Mehrzad Boroujerdi, Iranian intellectuals and the West: The tormented triumph of nativism,
New York: Syracuse University Press, 1996. 9
Boroujerdi, Iranian intellectuals and the West, p.xv., pp.18-19.
10
Ibid, p.53., pp.67-68.
11
Ali Mirsepassi, Intellectual Discourse and the Politics of Modernization: Negotiating Modernity
in Iran, Cambridge: Cambridge University Press, 2000, p.77. 12
Ibid., p.101.
13
エドワード・サイード、『オリエンタリズム』(板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳)、
p.70.
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