推転と系列的弁証 --二宮尊徳、『三才報徳金毛録』解読の手がかりを求めて-- 森野 榮一 「自然と実学」、第三号、日本東アジア実学研究会刊、2003年12月。 ISSN 13489011 」
はじめに ある理論の理解につき、通常は意外と思われる理論との比較がそのぞれぞれの解釈 に有用な示唆となりうるということがありうる。時と場所と状況を違えた思考に、ある種の 共通性や差異があるとすれば、それは来し方の諸理論に思考の材料を求める人間に とって興味深く、場合によっては、その現代性を自覚させることにもなろう。本稿では二 宮尊徳の一円(一元)とその剖解の論理を19世紀フランスの社会経済学者、ピエール・ ジョゼフ・プルードンの初期の諸著作(『人類における秩序の創造』 [1843年]、『経済 的 諸 矛 盾 の 体 系』 [ 1 8 4 6 年 ] な ど) に お い て確 立 さ れた 系列 弁証 法 [dialectique sérielle]に基づく理論を手がかりに考えてみようとするものである。そのさい主に尊徳の 財宝増減之解に焦点を当てたい。手がかりとするプルードンの社会経済に関わる議論 との関連が議論しやすいからである(1)。
尊徳における一元とその分割 尊徳は万物の根元を大極(2)とし、大極之図として単に円を書いただけの一円を描 いている。 大極之図
「万物の化生は、大極を以つて元となさざるはなし」(3)との、この図に付された文言か ら、彼が天・地・人の三才によって秩序の創造される、その根元に一円(一元)をおい
ているのがわかる。大極之解にて下記のように解説しているからである。 「それ本は一円大極なり。大極はすでに一元となる。大極と一元は本その号を獲るに あらず。すでにこれを命くるに与す。今やその体を推し権るに、空ならざるにあらず無 空ならざるにあらず、有体ならざるにあらず無体ならざるにあらず、有気ならざるにあら ず無気ならざるにあらず。人力を以つて観察するも及ばざるところなり。ただ一を一と 号け、元を元と号くるのみ、これを大極といふ。」(4) ここで始源に予想される一円は、体すなわち実体(substance)のあるなし、空と無空 すなわち現実性(realité)のあるなし、気すなわち精神(観念:idéo-)のあるなしに言及 しえぬ全体として考えられている。つまり、「人力を以つて観察するも及ばざる」(5)一 全体(un tout)である。プルードンは『人類における秩序の創造』において、一全体を、 宗教的観念をもって把握しようとする姿勢を批判しながら、「叡智(intelligence)及び終 局原因(cause finale)の観念は秩序の概念とは無縁である。実際、秩序は我々に一全 体(un tout)の様々な諸部分に内在的な諸特質の予想されざる結果として現れうる。 叡智はこうした場合、秩序の原理として振る舞うことができない。--他方で、無秩序 のなかに、ある傾向あるいは隠された目的が存在しうる。目的原因(finalité)は秩序の 本質的な性格として理解される以上には認識されないであろう。」と述べている(6)が、 尊徳にとっては、もとより始源の一元を説明せんとするに神の観念や終局原因などは 無縁なことである。プルードンの場合、こうした一全体が分割され、その諸部分が関係 を立てるなかに秩序の創造をみるわけであるが、そこには一全体の分割して多元化す る多元論の論理があった。 「 私 は 系 列 化 さ れ た 、 あ る い は 対 称 化 さ れ た あ ら ゆ る 配 列 ( disposition ) を 秩 序 (ORDRE)と呼ぶ。」(7)「系列は創造それ自体と同様、科学の至高の条件である・・・」 (8)、「秩序は必然的に、分割、区別、差異を想定する。分割されず、区別なく、差異 のないあらゆる事物は整序されたものとして理解されえない。」(9) ひとが尊徳の五行分配之図から陰陽生剖之図にいたる図を追うとき、未秩序の一 元が分かちを生じて推転し、対称化された配列を得るプロセスをみることができる。そ の後、ようやく気と体が剖れて先後をなす気体剖先後之図を得て、ここに至り初めて一 円の図にはこれを上下に二分する線が引かれる。 五行分配之図
陰陽生剖之図
気体剖先後之図
プルードンの場合は、この<剖れる>を分割 division というタームで表現している。 「私が科学の可能性の第一条件を説明するために分割という用語を使用するとき、宇 宙の始源状態や特殊な諸存在が形成される物質に関してなんらの臆断をも要求しは しない。私が分割と名付けるものは無限の繰り返しや二重化(redoublement)、本源的 アトムや有機的分子、生成された統一体の終わりなき増加であることが可能である。古 代の哲学者たちはあらゆる数を単位によって生み出されたとみなした。現代の哲学者 たちのなかでは、若干の者たちが創造を神聖な実体の無限の閃きや一(l’Un)や自己 同一性(Identique)、絶対性(Absolu)の振動(vibration)と表現している。・・・私は最初 の瞬間の宇宙を高密度で、区別できない、差異化していない、不分割で同一の塊と仮 定する。私は宇宙の最初の瞬間を描くために分割という用語を使用する。」(10)ここの
文言から「一や自己同一性、絶対性」が尊徳のいう大極と極めて類似しているのがわ かる。また、「無限の二重化」や「振動」概念は、一元体気之解にて、「それ元は一円混 沌たり。混沌また清濁となる。なほ清濁は空液のごとし。空液動いて自然に清濁を剖 つ。」とあるなかの「空液動いて」にあたり、また、陰陽暑寒之解における「それ本は一 元一気なり。一気呼吸して登降を生ず。登気を持つて陽と命け、降気を以つて陰と命 く。」の、<登-降>を指すともいいうる。 気体剖先後之図は、天地人の三要素につき、それぞれ、一円の二分された上部と 下部に<有-発>の対称、<体-気>の対称を配し、下部に配された気が<発>と なってことを推転させている。これをプルードンふうに表現するなら秩序の創造の<観 念-実在論>的構造(idéo-réalisme)をなしているということになる。尊徳が推転の論 理で把握しようとしているのは「あらゆる持続、あらゆる発展、あらゆる完成の至高の条 件である」秩序といいうるであろう(11)。
一元と価値の問題 尊徳の社会経済観を端的に示しているのは財宝増減之解である。 財宝増減之解
「それ本は一円無財なり。無財相変じて一宝を生ず。一宝増化して万宝となる。いまだ 財宝を発せざればすなわち貸借なし。貸借なければ通用なし。通用あれば自然に貸 借を発す。貸借あれば必ず増減に曁ぶ。増減あれば貸借を止めず。一貸累積して万 貸となる。万貸の本を想へば無貸に帰す。無貸転倒して一借となる。一借相重なりて 万借となる。万借の本を悰れば増減に帰す」(12)。 ここで端緒における一円無財とは、天地人の三才の推転始まらざる、その意味で一 円の分かれざる状態をいい、単に財という富の非財をいうばかりではない。天地人の
気の<発>して相変じる推転が混沌している。その機動力をなす三要素は人におい て労働、地において労働対象たる物質、天において労働の展開される条件たる労働 環境を指すと解釈しうれば、これはプルードンがプロメテウスに比定した活動的社会 (société en acte)ということになろう(13)。そして社会に宝が生じ万宝を得ることになる。 この宝はなにを意味するのであろうか。尊徳はその貸借に言及している。単なる財貨 なのか、貴金属貨幣まで含むのか、貸借においては実物的富であろうが貨幣であろう がその対象となる。この答えを得るために、プルードンが『経済的諸矛盾の体系』を書 いていたころ、書き記していた『手帳』にある<物資の分割可能性>に関する議論を 参照してみよう。 「この問題(物資の分割可能性)は他の多くと同様に、そのアナロジーが政治経済学に おける、無限にまで拡大される・・・価値の分割可能性にある。したがって、通商が現実 において100万分の1を取り上げえない、あるいはその他の最小の部分を扱わないに もかかわらず、数の上でフランが無限にまで分割可能であることは明白である。同様に、 重量、尺度、あらゆる基数法にとって基準や諸基準がなんであれ、そうである。次々と フランやメートル、ステール(14)、グラムで表現される価値とはなにか。価値は人間労 働の本質、昇華物、精神である。すなわち価値は現実であると同時に理念でもあるも のである。また、物質とはなにか。それは神聖な御業の抽出物、同時に実在であり理 念であるものである。実際、経験はたとえば種子の100万分の1の100万分の1の断 片にたどりつけない。しかし精神は そしてまた、労働は一(un)であり、(本質的に社 会的な理念である)価値も一(une)である。あらゆるその分割及び下位分割は実際そ の真の諸部分を表現せずその諸関係(relations)、比例性(proportions)を表す」(15)。 財宝増減之解の図は、一円の中心に「宝」が置かれ、その肩に「我」とあり、活動的主 体を図示している。一円は水平に中心を通る直線にて分割されている。一円には正月 から十二月までの時間が配当され(16)、<損-益>、<禍-福>、<増-減>など の対称性をなす諸概念が割り当てられている。そして、重要なのは、この一円の図の 内側に我を肩に乗せ、中心に置かれた「宝」を囲む一円が一円の図を二重化するごと く描かれていることである。無財が変じて一宝をなすというは、社会の活動が具体的な 財を富として生み出すが、これを「宝」という社会的観念として把握しなおしていること でもある。そのために、この「宝」も一円となるわけである。プルードンのいう価値と同義 とみてよい。具体的な諸財はその特質において多様である。しかるにそれら種々を宝 としてとらえるためには、社会的な観念としての「価値」の成立が必要である。現実の物 として具体的に眼前に特殊なかたちで存在する社会の生産物は同時に社会的に成 立しているものとして、ある社会的観念による抽象と評価を「宝」として成立させている。 これはなによりも一である。つまり尺度付けを受けているからである。通常価値の決定 には比較の観念が導入され、その相対的決定を考える人が多い。つまり、財の真実の 価値を決定する要素として生産費を挙げ、またその相対価格を他の財の価値との比
較で決定されているとする考えに陥りがちである。しかし、それ以前に考慮しておくべ き視点が存在するのである。「尺度することはなんであれ、比較することではない。比 較が十分になされる真実の関係はそれ自体によって示される。したがって価値ないし その真実の尺度、価値ないしその相対的尺度は同一のものである。その困難は、還元 する尺度の本位を示すことではなく、・・・すべての量は相対的にとらえうるが、比較の 点を決定することである。・・・経済科学においてあらゆる諸価値が比較されるなんらか の観点は労働である。・・・」(17)したがって財がさまざまに尺度されることのなかに一 の分割、二重化があり、それは分割において示される全体性の本質なのである。この ことの確認が先決的になされないと、分割における諸部分そのものではなく、それらの 諸関係、諸部分の比例性が問題であることを見失ってしまう。 そこで、「一宝増化して万宝となる」とは、宝として評価された財の種類や量における 増加の意味で理解されるばかりではない。万宝を得た社会は豊かさを実現した社会で あり、豊穣な富を抱えていよう。しかし富とはなにか。「生産物の豊富さ、多様性、比例 性が富を構成する三つの名辞である」(18)。量、種類の豊穣さばかりでなく、比例性 が重要な構成条件なのである。プルードンの場合はこの比例性の観念が、役に立つ 物が必ずしも高価ではないことに示される使用価値と交換価値の矛盾を解決すると期 待されている。 尊徳の万宝と言うのは、一の分割として上記三要素をみたす宝として成立すること を指している。この意味で、尊徳の宝とは実物的富であろうが貨幣であろうが価値物と して成立している。そうすると改めて価値とはなにか、が問題である。プルードンのいう ように、「価値は現実であると同時に理念である」ような観念-実在的なものである。そ れは貨幣の単位で分割されもするし、ある実物の重量単位で表現されたりもする。す べてはその特質とは無縁に、無限に至るまで均質な大きさや区間などによって尺度さ れる。 こうした考えと対照的に、場合によっては、経済学において価値を説明するさいに価 値の物質主義的概念を基礎とする金属主義的な見解が主張されることもある。それは 今日支持者を減少させているようにみえるが、このプルードンの文言から、価値が物質 の属性ではなく、一時的な関係とみなされていることがわかる。かつて黄金の価値は 金属の属性をもつものとして考慮され、従って、その「内在的価値」という誤った概念を 登場させた(19)。しかしどんな物とも変わらず、黄金はそれが価値をもつであろうとの 同意を得てきたから価値をもっているにすぎない。金属が伝統的に貨幣象徴とみなさ れてきたために、生みだされた価値が慣習上金属に付与されてきたにすぎないといえ る。 ところでプルードンは「価値は一である」という。これは価値が推転する全体にほか ならず、活動的社会(=労働する社会)そのものを指すと考えられる。まことに、「価値 は人間労働の本質、昇華物、精神である」。したがって、価値は全体の真の諸部分を
なす実体の内在的特質ではなく、分割され、それらの関係において成立する諸関係 に関する社会的観念ととらえられる。ここで価値は一元=多元の論理のなかにある。 精神も労働も価値も、これらは一であり、活動する社会(=推転)のうちで、分割そして 下位分割されて成立していく。重要な点はこれらの諸分割がその分かれた諸部分そ のものの固有な属性を表現するのではなく、それらの間の関係、またそれらの比例性 を意味していることである。それゆえ価値は一(大極)の剖れて、関係のたつなかで諸 部分(fractions)の関係として成立していると理解しうる。そしてまたこの諸部分の関係 をいうことは価値が一元であることを確認することになる(20)。 尊徳はこのようにして成立する価値(宝)を「一宝増化して万宝となる」として全体社 会の富の増進にこれをみている。しかしこの富が比例性をもって真に社会の構成員に 配分されているか(尊徳のいう通用)が問題である。
貸借と対称性の問題 「いまだ財宝を発せざればすなわち貸借なし。貸借なければ通用なし。」とはいかに 解釈しうるのか。尊徳は交換に言及せず貸借に直接言い及んでいるようにみえる。貨 幣が存在しない状態でも財という実物の貸借が普遍的に観察されることは経済史の教 えるところである。しかし尊徳の生きた時代、すでに農村には貨幣経済が浸透していた。 貨幣を用いた通商の実際は眼前の事実であったろう。そこではまず財の社会的配分 は貨幣を媒介とする交換を通して達成されていたはずである。しかし尊徳が交換に言 及していないとはいいながらも、議論のうちにすでに含まれているとも考えられる。プル ードンがいうように「信用の出発点は貨幣である」(21)から、交換であれ貸借であれ、 宝という一の分割された諸部分の比例性の観念を問題にする次元では、「富の分割・ 流動化」によって宝のやり取りされるに際しての平衡が問題となっているわけで、どちら が選ばれてもよいといえる。ここではプルードンの交換の理論に立ち入ることはできな いが、その議論の核心が交換的正義を実現する相互主義の提起にあるとすれば、尊 徳と同じ意想のうちにあると思われる(22)。 すでに三才報徳金毛録に収録された尊徳の泰平を願う歌、「諸ともに無事をぞ願ふ としごとにたねかすさとの賤女賤の男」(23)を読むならば、「たねかすさと」として農業 生産に必須の種子の貸し借りがあったことを知る。「たねかすさと」の人間が賤しいの は、ほんらい「一」という全体の立場にたてば、「一施あれば必ず十報あり、百施あれば 必ず千報あり、千施あれば必ず万報ある所以なり。この故に貸財を称げ貸してこれに 益する者、かれを損せばこれを損す、かれを益すればこれを益す。」(24)とあるように、 三才の協働が社会に万宝をもたらすにもかかわらず、称げ貸しという利付き貸借の関 係が二者間の債権・債務の関係をして一方に貸し付けた以上の請求権を、他方に借 り入れた以上の返済を強いることで、社会が推転し富の豊穣と多様化を生み出すにも
かかわらず、その比例した関係において対称性を喪失させることになるからである(2 5)。「通用あれば自然に貸借を発す」であるから、ほんらい財の融通があるところでは 貸借が立っている。AがBに1グラムの種を貸せば、Aの手元には1グラムの種はなくな るが、1グラムの種の請求権をもつ。Bは1グラムの種をもつと同時に1グラムの種を返 済しなければならない債務を負う。ここで1グラムの種に増減はないが、Bが種を蒔き 生産のリスクを負えば1グラム以上の収穫をうることがありうる。「貸借あれば必ず増減 に曁ぶ」である。そうして、「増減あれば貸借を止めず。一貸累積して万貸となる」。しか し、種は上記のようには貸借されず、称げ貸される。Bには借りた以上の債務が発生し ている。Aには社会になんの宝ももたらさないのに、宝を請求する利子請求の権利が 発生しており、それは彼の益するところとなる。これは宝の比例性における対称性を破 壊している。もとより「万貸の本を想へば無貸に帰す」にもかかわらず、利付き貸付は 万貸に及ぶ。しかし自らを益しているようで、「かれを損せばこれを損す」であって、対 称性の喪失は社会成員の厚生を阻害することとなる。ここに至って、尊徳が財貨の等 価な通用の必要性を、一にして多、多にして一の社会的な観点から主張していること が理解される。貸し方に起こることは借り方にも起こる。「無貸転倒して一借となる。一 借相重なりて万借となる。万借の本を悰れば増減に帰す。」と。 *
* *
尊徳の一元の多元への剖解の論理は、三才の推転するなかで多元論的に把握さ れる一元を提起する点で、多元論的な社会理論の潮流のなかで再読する可能性を提 供しているように思われる。推転と系列的弁証の詳細な検討が課題となってくる。もち ろん、さまざまな尊徳へのアプローチが可能であろう。ここでは、プルードン思想との出 会いという観点でのみ尊徳への接近が図られたにすぎない。あたかも一の分割によっ て拓かれる多元論的世界を構成する諸要素がそれらの間の諸関係によって多様に定 められるように、系列理論を導く観点の多数性は諸要素の多様な諸側面を明らかにし うるわけで、尊徳の思想自体も例外ではないからである。 [注] (1)わが国においてプルードンは比較的なじみのない思想家である。本稿との関連ではさしあたり 以下の拙稿を参照。「プルードンにおける”協同関係”(アソシアシオン)概念」、國學院大學大学院 紀要、第七輯、1976年3月。「プルードン、『秩序の創造』におけるアナルシーの問題」、國學院大 學大学院紀要、第九輯、1978年3月。「プルードンにおける国家並びに民主主義批判の基礎」、 『情況』、1995年11月号。「自由主義と自由な社会主義の課題」「情況」、1996年8、9月合併号。 (2)『三才報徳金毛録』の評注者、奈良本辰也は、尊徳があえて宋学の唯一者や絶対という無雑 な概念として把握された太極と区別する意味で大極という表記を使用していると指摘し、尊徳の大
極は動的に推転する物質的な概念であるとしている(『日本思想体系52、二宮尊徳、大原幽学』、 p.10.)。 (3)二宮尊徳、『三才報徳金毛録』、『日本思想体系52、二宮尊徳、大原幽学』所収、岩波書店、 p.10. (4)前掲、p.26. ここでの「一」は以下にプルードンがいうような意味で、同一性そのものといってよい かもしれない。「人知によって把握しうることと把握しえないことが混同される。これらの間には同一 性(identité)が存在する。それは現代哲学に従うと、存在(Etre)と無(néant)、随所に存在すること (partout)とどこにも存在しないこと (null part)、常時性(toujours)と特定時点性(jamais)、統一性 (unité)と無限性(infinité)、永遠性(éternité)と現実性(actuqlité)などの間に同一性が存在することと 同じことである。」(P.J.Proudhon, Carnets de P.-J.Proudhon, Vol. Second, 1961, p.31.) (5)この一言にして、すでに尊徳が因果論的、ないし本体論的世界認識から脱していることがわか る。全体はその分割された諸部分(系列)の諸関係の把握を通してその認識に接近しうる性格のも のと位置づけられている。プルードンもまた、こう指摘している。「系列はけっして実体的でも因果的 でもない。それは秩序であり、諸関係の総和あるいは法則である。とりわけ厳密科学といわれる数 学においてあらゆる本体論は消滅している。」(P.J. Proudhon, De la Création de l'Ordre dans l'Humanité ou Principes d'organisation politique,dans OEUVRE COMPLETES ed. Rivière, p.141.) (6)ibid., p.33. (7)ibid., p.33. また、「秩序はその様々な諸発現において、系列であり対称性であり、関係であるが、 それが剖析されうるような諸条件、また、直接的な原理、形態、根拠、基準としてあるような諸条件 に従っている。これらの諸条件は法則(loi)と呼ばれるものである。--したがって、完全な円を取り 上げると、半径の同等性が決まっていることは法則である。代数の系列3,5,7,9,11・・・では法 則ないし根拠は2である。」(ibid., p.34.) (8)ibid., p.139. (9)ibid., p.33. (10)ibid., pp.132-133.プルードンのこの見解は、この著作の注釈者、A.キュビィリエによれば、ピ エール・ヤシンテ・アザイス(1766-1846)の著作、『普遍的体系』( Systèm universel)、1812、 及び『人間的運命における平衡の理論』(Théorie des compensations dans la destinée humaine) をふまえている。そこでアザイスは諸個人の平等を「あらゆる条件の公正な均衡」としている。この観 点は諸条件の平等に公正さをみるプルードンに継承されているし、一円における均衡と対称性を よしとする尊徳の発想との類似性に注意を喚起すると思われる。 (11)ibid., p.33. (12)尊徳、前掲、p.34. (13)「神話によればプロメテウスは人間的な活動性(l’activité humaine)のシンボルである。プロメ テウスは天から火を盗み初めて人為(arts)を作り出す。プロメテウスはその将来を告げ、ジュピター に 匹 敵 し よ う と 願 う 。 そ れ ゆ え 社 会 を プ ロ メ テ ウ ス と 呼 ぼ う 。 」 ( P.J. Proudhon, Système des contradictions économiques, ou philosophie de la misère, dans OEUVRE COMPLETES ed.
Rivière, p.108.) (14)かつての、木材の容積を量る単位。 (15)Carnets, ibid., p.39. (16)尊徳の時間概念の特質については下記を参照。拙稿、「貨幣改革と循環型社会」、エントロピ ー学会編、『循環型社会を創る-技術・経済・政策の展望』、2003年2月、藤原書店刊、所収。 (17)Contradictions, ibid., p.118. プルードンの下記の指摘は彼の、富や価値、使用価値、労働、 価格についての見解を端的に明らかにしている。価値は、「富を構成する諸生産物の比例性の関 係であり、とりわけて生産物の価値と呼ばれるのは、貨幣的記号で、その生産物の一般的富のなか でのその比例性を示す定式である。その生産物の効用がその価値を基礎付け、労働がその関係 を決定し、価格は、標準偏差を除くなら、生み出されたその関係の表現である。」 (18)Contradictions, ibid., p.108. (19)マリオ・セッカレチア、「貨幣、信用、金融、歴史的概観」(Mario Seccareccia, money, credit and finance.)、森野栄一訳、「自由経済研究」、第19号所収、2001年7月参照。 (20)尊徳の、こうした思考法[系列的弁証]の好例は、悟りを目指す悟道と迷いのうちにある人道に つき、「其本源を極れば迷悟ともになし、迷といへば悟と言ざる事を得ず、悟といへば迷と言ざる事 を得ず、本来迷悟にて一円なり」(『二宮翁夜話』、前掲書所収、p.161.)にみることができる。 (21)Contradictions, Vol2, Chap. X. (22)プルードンは『所有に関する第二覚書』で次のように述べていた。「人類の本能は間違いを犯 し得ない。自由のなかで、諸職能の交換は人々の間に不可避的に平等を導くわけだ。だから取引 、 あるいは諸職能の交換と同義の諸生産物の交換は新たな平等の原因である。所有者が労働せず 、 しかしわずかな所得でも得る限り、彼は特権を享受する。労働者の福利が所有者と変わらなくても 、 諸条件の平等は存在しない。しかし所有者が生産者になるや、彼の特別な生産物を借り主や出資 者と交換しうる。遅かれ早かれ、この借り主は、つまり搾取された人間であるが、暴力が彼にふるわ れない場合には、所有者から利益を上げるだろうし、-彼らのそれぞれの生産物の交換において -資本につく利子を取り戻させるであろう。それで、他者によってある者の不正義が均衡し、契約 両当事者は平等であるだろう。労働と交換は、自由が普及するとき、彼らを財産の平等に導く。諸 用益の相互性が特権を中立化する。これが、あらゆる時代、どのような国でも、商業の統制を行っ てきた理由である。彼らの労働が圧制による強奪の障害となることを防ごうと望んだのである。 この地点にまで達すると、すべては自然的秩序において発生する。どのような故意も人為も存在 しない。あらゆる行為が必要性の法則のみによって支配される。所有者と労働者は彼らの欲求に のみ従って行動する。したがって強大化しようとする力の行使や、生産者からかすめ取ろうとする策 略は、こうした文明の最初の時期には、物理的暴力、殺人、戦争にかかっている。 しかし、この時点で、巨大で、込み入った共同謀議が資本家に対して産み落とされた。搾取者の 武器は通商の手段をもつ被搾取者と遭遇する。それは驚くべき発明であり、その初め、所有の肩を 持つ道徳家たちが非難したが、当然にも労働の天才、プロレタリアのミネルヴァによって着想された ものである。
悪徳の主要な原因はあらゆる種類の資本の蓄積と不動性 immobilité であり、不動性が労働を妨 害し、隷属化し、これまでに労働を獲得した高慢な游手によって下位に貶められる。富を可動なも のとし、所有者の掌中から労働者の手へと移転することで、富を分割し、流動化することが必要と思 われる。労働が貨幣を作りだした。その後に、この案出物(筆者注記:貨幣)は手形と銀行によって 生き返り、発展させられる。これらすべての物は実質的に同じ物であり、同じ心性から起こる。貝殻 や貴重な石、あるいは金属の一定重量が価値を表象するという観念を思いついた最初の人間は 銀行の真の創設者である。実際、ある量の貨幣とはなにか。頑丈で耐久性のある物質に刻印され た手形であり、その償還まで用いられる。こうした諸手段によって押さえつけられた平等性は所有 者の努力をあざ笑うことができたし、正義の均衡は初め、商店で適用された。罠が抜け目なく仕組 まれ、游手の掌中で貨幣を、ただ融解しゆく富、誤った象徴、豊穣の影とするというその目的を完 璧に達成する。優れた経済学者や思慮深い哲学者はそのモットーを”ギニー(筆者注記:昔の英国 の金貨)が交換されるとそれは消え失せる”とする吝嗇家であった。それでこういいうる。「不動産は 貨幣に変えられると失われる」(訳注:古代ローマのことわざ、『所有に関する第一覚書』でも引用さ れている)と。このことは歴史の変わらぬ事実を説明するし、貴族たち-大地の非生産的な所有者 -はどこでであれ工業者や商業者の平民によって消滅させられたのである。こうしたことは、とりわ け中世において、領主たちの没落を生み出したイタリアの共和国の形成に事例がある。この事例 が示唆する興味深い考察を続けはしない。私はただ歴史家たちの証言を繰り返すだけであり、別 のかたちで経済的な論証をするだけである。・・ ・」 ( P.J.Proudhon, Lettre à M. Blanqui sur la propriété, 1841,Librairie de Prevot, Paris. p.28.) (23)前掲、『三才報徳金毛録』、p.47. (24)前掲、『三才報徳金毛録』、p.34. (25)「称げ貸し」という利付き貸借に関する尊徳の批判については、拙稿、「二宮尊徳における内 発的発展の論理」、『実学と東亜資本主義』所収、第七回東亜実学国際学会、2002年10月参照。