Siebenter
VORTRAG (第七回講義) ベルサユーワシントン体制、国際連盟、集 団的安全保障と幣原外交
Das Versailles-Washington-System, Völkerbund, kollektive Sicherheit und Shidehara-Diplomatie (1) Der Völkerbund war ohne Zweifel die rechtmäßige Nachfolgeorganisation des "Haager Staatenverbandes" bzw. "[Haager] (wie Schücking es - sowohl Sicht, als auch in der Retrospektive. と う じ Weltstaatenbundes" げんだい ふ nannte) り か え っ て aus damaliger こくさい れんめい まちが
当時からみても、 現代から振り返ってみても、国際連盟は、間違いなく めいめい (シッキングが 命名した)「ハーグ国家連盟」、あるいは「ハーグ世界国 どうめい} ごうほうてき こうけい そしき 家同盟」の合法的な後継の組織である。 (2) Woodrow WILSON hatte am 4. Juli 1918 verkündet: „Was wir suchen ist die Herrschaft des Rechts (reign of law), gegründet auf den Konsens der Regierten (consent of the governed) und aufrecht erhalten durch die organisierte (öffentliche)
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Meinung [=informierte Öffentlichkeit].“ だい der Menschheit だい だいとうりょう
(第 28 代アメリカ 大 統 領)ウッドロウ・ウィルソン(1856- つぎ
ふこく
われわれ
もと
1924)は、 1918 年 ご7う月 4 もと 日に次のように布告した。 「我々が 求めるも とうちしゃ い とうち そしき のは、 統治者たちの 合意に基づく法による 統治と、人々の組織された( こうてき いけん ちあん い じ 公的な)意見による治安などの維持である。
(3) Der Waffenstillstand am 11. November 1918 brachte der Welt den ersehnten Frieden und die verantwortlichen Kräfte „in Europa und Amerika suchten ernsthaft eine Art internationale Organisation zu errichten, um eine zukünftige Katastrophe zu verhindern.“
ていせん
たいぼう
1918 年 11 月 11 日のせ停戦は、 世界が待望していた平和をもたらし、 ヨ きにんある しょうらい だいさんじ ふせ ーロッパやアメリカの 責任ある人々が、 将 来 の大惨事を防ごうと国際 だんたい せつりつ しんけん もと 的な団体の設立を真剣に求めた。 (4) Ziel war es nun, das vor dem Krieg noch bestehende Mächtegleichgewicht, das ein Gleichgewicht des Schreckens (Abschreckung und Drohung mit Krieg) war, durch ein System zu ersetzen, welches Rechtssicherheit garantieren und Abrüstung ermöglichen sollte.
き
き
ちょくめん
そんざい
せいりょくきんこう
きょうふ
その目的は、戦争の危機にい直 面 して、 なお、ほうりつ 存在する 勢あんぜん 力 均衡と、 恐怖 かく おどし ほしょう のバランス( 戦争による威嚇と脅し)を、 法律による安全の保障と ぐんしゅく かのう だいたい 軍 縮 を可能にするシステムにより代替することにある。 Dieses System nannte man das System kollektiver Sicherheit, dasほしょう eine Art Exekutive darstellte. しゅうだんてき あんぜん な
いっしゅ
このようなシステムは、 集 団的安全保障と名づけられ、それは一種の しっこうけん い み 執行権を意味する。
(5) Am 18. Januar 1919 eröffnete der französische Präsident George Clemenceau (1841-1929) im Pariser Außenministerium mit 70 Delegierten aus den 27 Siegerstaaten die Friedenskonferenz. しゅしょう
1919 年 1 月 18 日に、フランスの 首 相 ジョルジュ・クレマンソー がいむしょう せんしょうこく はけん (1841-1929)は、 パリの外務省で 27 の戦 勝 国から派遣された 70 めい とも かいさい 名と共に平和会議を開催した。戦勝国 a victor nation Am 25. Januar beschloss die Konferenz die Gründung eines Völkerbundes "zur Förderung internationaler Zusammenarbeit, zur Sicherung der Erfüllung internationaler Verpflichtungen und zur Herstellungうながし von Sicherheitsgarantien gegen きょうりょく ぎ む Krieg." りこう
1月 25 日、その会議において 「国際 協 き力 を促し、国際的な義務の 履行 かくほ はんたい あんぜんほしょう のう れんめい を 確保し、戦争に 反対して安全保障を機能させる」ために国際連盟の そうりつ けってい 創立を決定した。 (6) Da die Haager Konferenzen den Ersten Weltkrieg nicht hatten verhindern können, war das Ziel nun, nach dem ‘Krieg zur Beendigung aller Kriege’, eine nochmalige Katastrophe um jeden Preis zuし verhindern. とき ぼう
ハーグ会議の時は、第一次世界大 戦を防止することはできなかったの しゅうせんご しゅうけつ ぎせい で、 その目的は 「終戦後、 あらゆる戦争を 終 結 させるために」、犠牲を ともなう だ い さ ん じ さいはつ ふせ 伴う大惨事の再発を防ぐことにあった。
(7) Im März 1920 lehnte der amerikanische Senat nach der Wahl des neuen Präsidenten wider Erwarten den Versailler Vertrag und damit den Beitritt der Vereinigten Staaten zum Völkerbund ab, u.a. weil er die Entscheidung des Völkerbundrats bezüglich der von Japan militärisch besetzten Gebiete in Shantung mißbilligte, aber auch, weil für eine bedeutende Anzahl von Kongressabgeordneten und Senatoren die Versailler Abmachungen nicht weit genug in Richtung auf supranationale Regierung gingen.
じょういん
だいとうりょう
せんしゅつ
きたい
1920 年 3 月、アメリカ 上 院 では、新たな 大 統 領の 選 出 のあと、 期待 かえ じょうやく がっしゅうこく かめい みと に反してベルサイユ 条 約 と国際連盟へのアメリカ 合 衆 国の加盟は認 りゆう じょういん められなかった、 とりわけその理由は、アメリカの 上 院 が、 日本の(中 さんとう ち い き ぐんじてき し は い れんめい けってい どうい 国)山東地域のこっかい 軍事的 支配にかかわる国際 連盟の 決定に同意しないこ ぎいん じょういん ぎいん じょうやく とであったが、 国会 議員や 上 院せいけん のかなりの 議員にはベルサイユ 条約 きてい ちょうこっか し ゅ ぎ て き ほうこう すす の規定が十分、超国家主義的な政権の方向に進められていなかったた めである。 (8) Ein weiterer Schritt und bedeutender Beitrag zur internationalen Friedenssicherung und zur Stärkung der internationalen Ordnung die Washingtoner Flottenabrüstungskonferenz. ほwar ぜん ちつじょ きょうか
しんてん
じゅうよう
こうけん
国際平和保全と国際秩序の 強化のさらなる進展とそれに 重 要 な貢献 かいぐん ぐ ん び しゅくしょうかいぎ をしたのは、ワシントン海軍軍備 縮 小会議であった。
(9) Im Februar 1923, nach dem erfolgreichem Abschluss der Washingtoner Konferenzen, wurde daher von Senator William Edgar Borah (1865-1940), dem langjährigen Vorsitzenden (1925-33) des ‘Foreign Relations Committee’, im amerikanischen Senat eine Resolution eingebracht, welche über viele Jahre hinweg Gegenstand der Debatten bleiben sollte. Die Resolution forderte die Abschaffung des Krieges als Institution.
せいか
あ
しゅうりょう
ながねん
1923 年 2 月には、 ワシントン会議は 成果を上げて 終 了 し、長年外国 こうしょう い い ん か い ぎちょう つと じょういん ぎ い ん 交 渉 委員会の議長を務めた 上 院 議員のウィリアム・エドガー・ポー じょういん なが わた ぎろん たいしょう ラ(1865‐1940)は、アメリカ 上 院に長きに 渡って議論の 対 象 であ けつぎ ていき せいど てっぱい ったものについて 決議を提起した。それは制度としての戦争の撤廃を もと 求めるものであった。 (10) Ein wichtiger Vorschlag, mit dem sich 1924 die Parlamente der Parlamente befassten, war die „verfassungsrechtliche Ächtung des Krieges“.ぎ か い
ぎかい
と
く
じゅうよう
ていあん
1924 年に、 議会が議会に取り組んだ 重 要 な提案こそ、 「戦争にかかわ しゅうせい る憲法の 修 正 」であった。 (11) Im Beschluss der XXII. Interparlamentarischen Konferenz in Bern vom 27. August 1924 hieß es u.a.: „Die XXII. Interparlamentarischen Konferenz macht sich die Abmachung zu eigen, die in dem von der 4. Versammlung des Völkerbundes aufgestellten Entwurf eines gegenseitigen Hilfevertrages enthalten ist, und die den Angriffskrieg als internationales Verbrechen“ kennzeichnet / bezeichnet.
かいさい
れっこく ぎ か い どうめい
1924 年 8 月 27 日にベルンで 開催された第 12 回列国議会同盟の会議 けつぎ れっこく ぎ か い どうめい の 決議では、そ「う第ご えんじょ 12 回列国 議会 同盟会議は、第 4 回の国際連盟会議で さくせい えんき そうあん ふく と ぎ しゅうとく しんりゃく 作成された、 相互援助の延期の草案を含む取り 決めを 習 得 し、侵 略 戦 はんざい しめ 争は国際犯罪であるという事をはっきりと示した」。 (12) Sie empfiehlt den nationalen Gruppen, ihren Parlamenten Entwürfe zu einer Verfassungsänderung vorzulegen, die abzielt auf das Verbot, irgendeine kriegerische Entscheidung anzurufen, vorbehaltlich der Verpflichtungen, die sie nach dem Wortlaut des Artikel 16 der Völkerbundsatzung eingegangen sind...“ Damit, so bedeutete Professor Schücking wenig später bei der Verhandlung der Interparlamentarier, „könnten Kriege nur erklärt werden, wenn gleichzeitig die Verfassung geändert würde.もと れんめい ていかん
どうい
ぎ
む
ほりゅう
会議は、 国際連盟の定款の第 16 条におこな 基づいて同意された 義務を保留し なんら けってい きんし て、何らかの 戦争にかかわる 決定を 行 うことの 禁止を目的とした、議 かいていあん ていしゅつ こくない すす とも 会の憲法 改定案の 提 出 を国内のグループに 勧めた。それと共にシッキ きょうじゅ ちか れっこく こうしょう そくざ ング 教 授 は、近いうちに列国議会同盟の 交 渉 にさいして憲法が 即座 かいせい せんげん けんかい しめ に改正されるならば、戦争は宣言されるにすぎない、という見解を示し た。
Das somit in die nationalen Verfassungen aufzunehmende „grundsätzliche Verbot des Krieges“ sollte „selbstverständlich [nur] unter Vorbehalt der Erfüllung derjenigen Pflichten [gelten], die unter Umständen durch eine internationale Exekution dem einzelnen Staat auferlegtみんしゅう werden können.“
さいたく
げんそく き ん し
1.「したがって、 民 衆 の憲法で採択すべき 「 戦争のこ原則 禁止」は、 「もち ばあい しっこうけん つう こ お ろん、いかなる 場合でも国際的な 執行権を 通じて個々の国に負わされ ぎ む すいこう りゅうほ てきよう る義務の遂行という留保のもとで」適用される。
(13) Außerdem wurde auf die „Verpflichtung, ein Schiedsgericht anzurufen“ hingewiesen sowie die Tatsache, dass die Konferenz „ganz besonderen Wert darauf legt, zu betonen, dass alle Staaten ihre Zustimmung zu der fakultativen Klausel des Artikels 36 der Satzung des Weltgerichtshofs erklären. じじつ ちゅうさい さいばんしょ
うながすせきにん
にな
とく
そのうえ、会議では 事実、 仲 裁 裁判所が注意を 促す 責任を 担い、特に じゅうだい か ち きょうちょう じょうこう きやく すべて 重 大 な価値あることが 強 ど調う いされ、36 条 項 の規約に全ての国々が りゅうほやっかん
じ ゆ う せんたく
自由選択による留保約款に同意した。 (13a) Already in 1924 the Fifth League Assembly by adopting the ‘Geneva Protocol’ had endorsed a “general scheme
of arbitration”, comprising “three distinct sets of policies: the regulation of armaments, the pacific settlement of 1 disputes, and collective action.” These were henceforth considered だい ご ぶ か いthe ‘three essentials’ of security.
すでに1924年には国際連盟 第五 部会がジュネーブプロトコルを さいたく こうそくりょく も ちゅうさい し じ こと 採択することによって 拘き束 力を 持つ 仲 裁 をかいけつ 支持し、異なる三つの せいさく さくせい ぶ き せい ふんそう しゅうだんてき こ う い 政策を作成した。 武器の規制、 紛争の平和的解決および 集 団 的 行為で いこう あんぜんさんげんそく ある。これ以降これらは「安全三原則」とみなされるようになった。
1
Andrew Martin, Collective Security. A Progress Report, Paris, UNESCO 1952, 9-10. “Psychologically the system of collective security has two functions to perform: it should act as a deterrent to potential aggression and at the same time impart a sense of security to all participating States.” Id., 130.
(13b) The Geneva Protocol was to give the League ‘teeth’. Unfortunately it was not ratified, mainly due to a change in
the British government. This was a “serious setback to the cause of collective security.”2 The trend, in spite of the setback, was clearly toward a supranational, universal system. きば じつりょく
あた
ジュネーブプロトコルは国際連盟に 牙「 り実ゆ 力 」を与えることになった。 ふうん せいふ へんか おも う ひじゅん お 不運なことにイギリス 政府の変化が主な理由で、これは 批准されずに終 こうたい こうたい わった。 このことは 後退であった。だが、この 後退にもかかわらず、 時代 うご あき ちょうこっかてき ほうこう む の動きは明らかに超国家的グローバルな方向へ向かっていた。 (14) In Japan hatte sich in den zwanziger Jahren unter Außenminister Shidehara Kijuro eine Politik der Nichteinmischung durchgesetzt. Eine von Außenminister Shidehara häufig genannte Zielsetzung war: „Die Schaffung einer Welt ohne Krieg im Bund mit der Welt-Menschheit. (世界人類とともに戦争なき世界の創造 Sekai jinrui to tomoni sensô naki sekai no ねんだい ふかんしょう お sôzô.)“ り ま
ぜ
た
1920 年代の日本では、 外務大臣の幣原喜重郎が、 不干渉を 織り交ぜた せいさく かんてつ かさ じんるい とも 政策を貫徹していた。幣原外務大臣は、 重ねて「世界人類と共に戦争な そうぞう もくひょう かか き世界の創造」を 目 標 に掲げた。
2
Id., 114.
(15) Eine ‘Ächtung’ des Krieges erreichte schließlich der Kellogg-Pakt des Jahres 1928. Er stellte einen wichtigen Meilenstein in der Geschichte des organisatorischen Pazifismus dar. Nach Verhandlungen zwischen dem französischen Außenminister Aristide Briand, dem amerikanischen Staatssekretär Frank B. Kellogg (1856-1937), Gustav Stresemann, dem japanischen Bevollmächtigten Uchida Kôsai (Yasuya, 1865-1936) und anderen wurde der Vertrag am 27. August 1928 in Paris zunächst von neun Staaten unterzeichnet. Bis zum Beginn des Krieges waren praktisch alle Staaten (64), auch die UdSSR und China (1931), dem Pakt beigetreten.
じょうやく
ふ せ ん じょうやく
せいしきめいしょう
1928 年のケロッグ・ブルアン 条 約 (=不戦ついほう 条 約( 正式 名 称 :「戦 ほうき かん じょうやく とうたつ 争 放棄に 関する 条 約 」))で、ついに 戦 争 追放に 到達した。それは そしきてき じょう じゅうよう しどう い み がいしょう 組織的な平和主義の歴史 上 、 重 要 な指導を意味した。フランス 外相 せいむじかん アリスティド・ブリアン(1862-1932)、アメリカ 政務 次官フラン せ い じ か ク・ビリングズ・ケロッグ(1856-1937)、(ドイツの 政治家)グス ぜんけん し せ つ い ん う ち だ やす タフ・シュトーレーゼマン(1879-1929)、日本の 全権使節員内田康 や ほか こうしょうご 哉(1856-1936) 他、との間で 交渉後の 19286 年 8 月 27 日パリにて とうしょ 9 か こ く か ん ていけつ は じ ま る 4 か こ く ていけつ 当初 9ヶ国間で締結し、戦争が 始まるまでには 64カ国全てが締結し、 それん じょうやく かにゅう ソ連と中国(1931 年)も 条 約 に加入した。到達 arrival, attainment