人間とことば 人間はことばがある。われわれは毎日ことばによって、いろいろなことを伝え たり、伝えられたりして生活している。一日中他の人と会わない日でも、われ われは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などから情報を得ない日はほとんどない。 われわれは、口からことばとして出さなくても、意識的に考えている時はもち ろん、無意識に何かを思っている時にもことばを使っている。つまり、人間は 眠っているか、ぼうっとしているか以外は、ことばを使いつづけて生きている のである。 文節と構造 動詞は、それぞれの鳴き声を持っている。そして、その鳴き声を使って、仲間 に何らかの通信をしていることが認められている。犬でも、嬉しい時の鳴き声、 怒っている時の鳴き声、痛い目にあった時の鳴き声が同じでない。日本ザルは、 かなりの種類の、音声による通信をして、それによって、群れが移動したり、 餌を取ったりする。 これらの動物の、通信の役割を果たす鳴き声を動物のことばというとすれば、 動物のことばと人間のことばは、どこが違うのであろうか。 人間のことばを観察すると、よほど短いもの以外は、いくつかの部分に区切る ことができることに気がつく。 文法を考える際に、語がどのようにして、どのような文の成分を作るかという 点で、語をいくつかのグループに分類し、それぞれの性質の研究する分野と、 文の性質や種類、文の成分、文の構造などを研究する分野とがある。前者は品 詞論(あるいは語論、形態論など)と呼ばれ、後者は構文論(あるいは、文論、 統語論など)と呼ばれる。 文が集まって一まとまりの文章や談話などを作る際にも何らかの法則が働いて いることが考えられ、そのような文を越えた分野の研究は、文章論(あるいは 談話分析、ディスコースの文法など)と呼ばれ、そのような研究も、最近、し だいに盛んになってきている。 名詞 日本語の名詞には、文法的なカテゴリーとしての性の区別はない。 日本語の名詞には、複数を示す形式があるにはある。その一つは、接尾語「ど も」「ら」「たち」「がた」などをつけて「学生たち」、「先生方」のように いうやり方である。しかし、この方法は、人間を示す名詞や擬人化された「小 鳥ら」、「花たち」のようなもの、ごく限られたものについてだけであり、 「机、本、鉛筆」などにはそのような適用できない。 1
格 文の中で名詞または名詞相当語句がどのような意味的関係で述語と結びついて いるのかを示す文法的範疇を格と呼ぶ。日本語の場合、名詞の後ろに格助詞を 付けることによって格関係を明示する。格助詞には「が、を、に、へ、と、か ら、より、で、まで」などがある。また「~において、~について、~に対し て、~として」などは複合語句ではあるが、格助詞相当の働きをする。 場所を表す名詞であっても、デ格の場合と二格の場合では意味が異なる。二格 は、動詞が存在を表す場合は、その主体や生産物の存在場所を表し、動詞が移 動を表す場合は移動の到着点を表す。これに対し、デ格は動作・出来事の生起 する場所を表す。「の」は名詞と名詞とを結びつける。その意味的関係には 1.所属先と所属物 洋子のめがね 2.性質とその持ち主 革のさいふ 3.動作主体とその動作 選手の行進 4.動作対象とその動作 子供の世話 5.場所の存在物 公園のベンチ 6.時と生起するもの 午後の訪問 言葉は実にいろいろな働きをする。自分の願望を他人に示すことも、また他人 を自分が望むように動かすことも、言葉でできる。見聞きしたこと、思ったり 考えたりしたことを誰かに伝えるもの、言葉の大切な働きの一つである。 はたして人間の言語というものが、起源的に最初から、人間同士が相互に意志、 願望、期待などを伝え合うために発達したものかどうかについては、必ずしも 決定的なことは言えないが、少なくとも現代人の社会生活においては、言語の 役目はこのコミュニケーションにあるといってもよいと思う。 形式名詞 名詞の中には形式名詞と呼ばれる一群のものがある。 形式名詞は、「名詞としての形式的意義があるばかりで、実質的意義のない名 詞」で もの、こと、わけ、はず、ため、ところ、とき、の などであり、普通には、その前に、連体修飾成分を伴って 何もそう怒ることはない。 のように用いられる。 全ての名詞は、それぞれ、抽象のいろいろな段階に位置をしめているのである が、形式名詞は、いろいろな類の最上位に位置して、その類概念・範疇概念の みを表す名詞であり、きわめて外延が広く、内包を狭いことばである。 これらの形式名詞のあるものは、名詞としての用法のほかに、「だ」を伴って 2
疲れている時は早く寝ることだ。 それは私の仕事なんです。 のように、助動詞的な役割を果たしたり、 残念なことに時間がない。 などのように接続助詞的に用いられたり ぼく、しらないもん。 のように、アスペクトを表す形式の一つとされたりする用法を持つところに特 色がある。 人称代名詞 a. 日本語の人称代名詞には、第一人称、「わたくし」、「わたし」、「ぼく」、 「おれ」、「あたし」など、第二人称に、「あなた」、「あんた」、「きみ」、 「おまえ」、「おたく」など、第三人称に、「彼」、「彼女」、「あいつ」な どがあり、複数形には、「わたくしども」、「われわれ」、「あなたがた」、 「かれら」、「かのじょたち」などがある。また「自分」は再帰代名詞と呼ば れる。 第二人称や第三人称の場合は、人称代名詞を使わない場合が多く、その場合に は、その人の地位、役職などを示すことば、例えば「先生」、「社長」、「奥 様」、「御主人」などが用いられる。 また親族内では、その家の一番年下の者から見た名称で呼び合う。それが親族 でない人に対して使われて、高齢者を「おじいさん」、「おばあちゃん」など と呼ぶ。 b. 現在使われている日本語の自称詞 - 自分を表すことば - には、わた し、わたくし、ぼく、おれ、わしなどがある。対称詞 - 相手を表すことば - は、あなた、あんた、(あなたさま)、おたく、きみ、おまえ、きさまな どである。男性語、女性語の違いばかりでなく、日本人はこれらを相手によっ て使い分けている。 まず、「あなた」の使い方を考えてみよう。これは自分と同等、または目下の 者にしか使えないことに、まず注意しなければならない。目上に対しては、先 生、社長、代名詞を使うこと避けるか、おたくを使うか、名前を呼ぶ。要する に相手の身分、相手と自分との関係によって使い分けているのである。 コソアド 指示代名詞は、コソアドの体系をなしていて、「これ」、「そこ」、「どちら」 のような、まさに代名詞と呼ばれるにはふさわしいもののほかに、「この」、 「その」、「あんな」、「どんな」のような連体修飾をするものと、「こう」、
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「そう」、「あんなに」、「どんなに」のように連用修飾をするものもあり、 それらの全体はコソアドと呼ばれることもある。 「コ」は、話し手の領域にあるものを指し、「ソ」は、話し手と対立する聞き 手の側にあるものを指し、「ア」は、聞き手を「われわれ」という形で話し手 の側に引き入れた領域から離れた領域にあるもの、聞き手と無関係に独り言の ように発話された、話し手の領域にあるものを指し、「ド」は、未定、不定の ものを指す。 その a. 私はリハビリの幸さに何度も負けそうになった。そのたびに、「お兄ちゃん、 一緒に頑張ろうね」と声をかけてくれた幼い少年の笑い顔に励まされ、訓練の 痛みに耐えたのです。 「そのたびに」の内容はどちら。 1.リハビリの幸さに負けそうのなった時 2.幼い少年が声をかけてくれるたびに b. その役者さんは舞台に出ているときに、悲しい電話が入りました。母親がな くんったという知らせでした。日頃からその母親は「私は死んでも舞台中の息 子には知らせるな」と言っていたので、関係者はそのことを知らせないことに したそうです。 「そのこと」何を示すか。 1.その役者さんの母親がなくなったこと 2.母親が自分の死を息子に知らせるなと言ったこと c. 幼い子供に弟や妹ができると、赤ん坊に戻ったように振舞うことがある。そ れまで自分の世話だけをしてくれていた母親が、生まれたばかりの弟や妹の世 話で忙しくなる。赤ん坊に戻って、自分も同じように母親に世話をしてもらい たいと思うのだろう。 母親は、どの子も同じように育てているつもりである。しかし、こどもにはそ のことが分からないので、自分は大切にされていないと思い、不安になるのだ ろう。 「そのこと」とは何か 1.母親は自分を弟や妹ほど大切にしていないこと 2.母親は生まれたばかりの弟や妹の世話で忙しいこと 3.母親は子供が不安に思っているのを知っていること 4.母親はどの子も同じように育てているつもりであること d.死体ははたして誰の物か。
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自分のものだとしても、死んだあとでは、所有権を実際に自分で出張すること はできない。法的には、そこはどうなっているのか。それを私は、知らないの である。 「それ」とは何か。 1.死体の所有権を自分で出張できるか 2.死体の所有権が法的にどうなっているのか e.その女の子は「しまった。お金を忘れてきちゃった。おじさん、あとでお金を 持ってくるから、これちょっと預かって」と言って、持っていたバイオリンを その肉質に渡していた。 「これ」とは何か。 1.お金 2.バイオリン 数詞 数詞には、「ひ」、「ふ」、「み」、「一」、「二」、「三」のように、数そ のものを指すものと、それに助数詞のついた「ひとり」「ふたつ」「三個」 「四枚」のようなものを含めた基数詞と、「第一」「二日目」「三番目」のよ うなものごとの順序を示す序数詞とがある。 助数詞には、対象の性質、形状によって使い分けられるたくさんの語が含まれ、 その上、「一本」「二本」「三本」のように前の数の発音によって、発音の違 いがあらわれたりして、外国人学習者には難しいものである。 数詞には、「学生が三人来た」のように、助詞などを伴わずに、文中の成分に なる用法がある。 トリタテ 1.今来たばかりだ。 2.油断したばかりに、敵に不意をつかれてしまった。 3.父親、妹ばかりをかわいがって、妹には厳しかった。 上の各々の文の「ばかり」は、すべて意味が違う。(1)は「今来たところだ」 とも言い換えられ、「ばかりだ」で「動作の直後」を表し、時間の流れの中で 動作がどんな状態にあるかというアスペクトを表す語として働いている。(2) の「ばかり」は「ばかりに」で「~から」と同じような「原因」の意味を表し、 「油断したばかりに」全体で - まとまりの成分になって後に続いている。 (3)の「ばかり」は「妹」をかわいがり、「妹」はかわいがらないという 「限定」の意味で、後に述べるとりたて詞として働いている。このように「ば かり」という形は同じでも、様々な意味を表し、文中での働きも異なるのであ る。「だけ」や「ぐらい」についても、「ばかり」と同様、同形で意味や文中 の働きの違うものがある。 ところで、(3)の「ばかり」や次の 5
4.図書館だけで勉強する 5.外国からも選手が参加している の文の「だけ」や「も」等を「とりたて詞」という。これらは、格助詞などと は違い、名詞や述語につく場合などでの一部の例外を除き、一般にそれがなく ても文が成立する。例えば(4)の「だけ」をとり、 6.図書館で勉強する。 のようにしても、文は成り立つが、(6)の文から(で)をとった 7.図書館 勉強する では、文が成り立たない。この、一文の構成に必要な要素ではないというのは、 とりたて詞だけの特徴ではないが、とりたて詞の重要な特徴の一つである。 とりたて詞は、上で見る通り文の構成には直接関与しないが、次のように、で きあがった文に加わることで、その文には実際に現れないものや事柄について の意味も同時に表す働きを持っている。 (4)と(6)を比べると、(4)は(6)の意味を表し、それと同時に「だ け」があることで、文中には現れない「図書館以外の場所では勉強しない」と いう意味も表す。
わ・が 「XはY。」の文は、XとYという二つの部分からなり、Xに対してYという 説明を与える。「大阪は日本で一番面積の小さい都道府県だ。」の場合であれ ば、「大阪」について、「日本で一番面積の小さい都道府県だ。」という説明 を与えているわけである。 「XはY。」の文では、表現の重点はY(説明の部分)にある。「大阪」につ いてどんなことが言えるかというと、「日本で一番面積の小さい都道府県だ」 ということがいえる、という意味などである。この場合、Xの部分は説明を受 ける対象を表している。そこで、この部分を、何についての説明なのかを表す という意味で、「説明の主題」、略して「主題」と呼ぶことにしよう。 文はいつも主題(「は」)を持つというわけではなく、「大阪が日本で一番面 積の小さい都道府県だ。」や「飛行機が飛んでいる。」のような、主題のない 文もよく使われる。但し、主題を持たないといっても、「大阪が日本で一番小 さい都道府県だ。」のような表現と「飛行機が飛んでいる。」のような表現と では、使い方に大きな違いがある。 「飛行機が飛んでいる。」のような文が使われるのは、一般に、ある状況(場 面)を目撃して、その状況をそのまま言葉で写し取る場合である。 接続助詞 接続助詞は節と節を種々の関係で結びつける助詞である。接続助詞に属する語 は「ば、と、たら、なら、ても、ので、けれども、が、のに」などである。い くつかの例を示す: 6
雨が降ったので、道がぬれている。 彼は熱があるのに、出発した。 春になると梅や桜の花が咲く。 どれかといったものも整理しておく必要がある。 日本語教育の場では、「ば」は前の活用形と切り離さずに、「降れば」「起き れば」などの形で、仮定形として扱うのが普通になっている。 終助詞 文末や文中の連用的な切れ目に現れて、その文で表されている判断や発話を聞 き手に対する話し手の態度を表す助詞がある。「わ、ぞ、ぜ、とも、か、よ、 ね、さ」などである。 そのうち、文末しか現れず、文末で表された判断に対する話し手の「確かだ」、 「不確かだ」という気持ちを表すものを終助詞と言い、文末にも、文中にも現 れ得て、話を聞き手に伝える際の話し手の聞き手に対する伝達的態度を表すも のを 間投性終助詞という。終助詞と間投性終助詞が連続的に現れる場合には、終助 詞は前に、間接性終助詞は後に来る。 接続詞 接続詞は用法上は、二つ以上の語か、文節、句、文など同士の間に立って、両 者を結び付け、意味上は、先行の表現内容と後続の表現内容との関係を表す。 日本語の場合、接続発展を行う働きは接続詞だけとはかぎらない。 接続詞は一般に意味上から、次のように分類されている。 並列: そして、及び、かつ等 累加: また、それに、そのうえ、しかも等 選択: あるいは、又は等 順接: したがって、すると、それで等 逆説: が、けれど、しかし、でも等 説明: すなわち、つまり等 補足: ただし、だって等 転換: さて、では、なお等 一つの語、例えば「それから」が並列にも累加にも用いられるなど、二つの意 味にまたがる例も珍しくない。
擬声語 擬声語(擬音語とも)・擬態語は、物音や物事の様子などを表したもののです。 「風がビュウビュウ吹く」などは音を描写した擬声語の典型ですが、「のその そ、そわそわ、ゆらゆら」などは人や物の態度を描写する擬態語です。態度の 7
他に「くよくよ」「わくわく」など人の心理状態を描写したものもあります。 全部まとめてオノマトペとも言います。 文法的な働きからすると、擬声語や擬態語は福詞や名詞などいろいろな品詞に またがっています。 擬声語・擬態語は典型的には次のような形をとります。 「ABAB」のパターン。めきめき、もりもり、等。 「AっBり」のパターン。しっとり、どっきり、等。 「AんBり」のパターン。ぼんやり、ほんのり、等。 その他。ばたん、ときっ、等。 擬声語・擬態語は情態副詞として用いられる時は、「と」「に」の形になる時 が多い。
擬音語 擬音語・擬態語の特徴は、非常に感覚的であることであるから、その感覚を共 感しない限り、語の意味を正確にとらえられない、ということになるわけであ る。動物の鳴き声の例を取っても、日本語と英語とでは、猫はにゃー、犬はわ んわん、おんどりはこけこっこうと食い違っている。 擬音語・擬態語が多いということは、日本人は物自体の性質、特徴を客観的に とらえるよりも、それらに接するときに感覚に訴えるものを中心にして表現す る、という態度の表れてであろう。
形容詞 a.属性形容詞と感情形容詞 形容詞には客体的事物の性質・情態を表すものと、人間の主体的感情や感覚を 表すものに分けることができる。前者は属性形容詞、後者は感情形容詞と呼ば れる。属性形容詞は人称の別なく、用いることができる。 私は背が高い。 あなたは背が高い。 彼は背が高い。 けれども、感情形容詞は、現在の断言的な述語としては、一人称(話し手)に しか用いることができない。 私は悲しい。 *あなたは悲しい。 *彼は悲しい。 これは、感情形容詞の人称制限などと言われることがあるが、発話の現在の瞬 間の気持ちや感じは、その人にしか分からないからである。だから感情形容詞 も、疑問や推理や情報に依拠した判断や過去の事実として表す場合には、二人 称や三人称にも用いることができる。 8
あなたはつらいですか。 あなたはつらいでしょう。 あの人は、昨日、頭が痛かった。 自分以外の人の現在の気持ちや感じを断言的に言うには、感情形容詞に接尾語 「がる」をつけて。 ヤンさんは国に帰れなくなって、悲しがっている。 のように言うといった指導がなされることがあるが、「―がる」は、<その気 持ちや感じを外に表す>という意味なので、 ヤンさんは国に帰れなくなって、寂しいと思っています。 のように表現されるものと同じではない。 b. うれしい、楽しい、悲しい、さびしいなど感情を表す形容詞は三人称に用い られないことに注意しなければならない。「*子供たちはさびしいです」とは いえない。三人称に用いる場合には「―らしい」、「―そうだ」、「―のだ」、 あるいは「―がる」を伴うのである。 形容詞は意味によってその形容する対象が限られる場合がある。例えば、「お となしい」は人間、動物に限られ、「*おとなしい風」とはいえない。また、 「まじめな」、も人間についてしか用いられない。「まじめな話」と言っても、 それは人間がまじめに取り組みなければならない話であって、「重大な」とい う意味ではない。 c. 「富士山は美しいです。」 この文は「富士山」について述べる形容文です。まず文頭の「富士山」はこの 文の主語であり主題であって、「は」がついている。その「富士山」の情態を 述べるのが、次にある形容詞の「美しい」である。そして最後の丁寧体を表す 「です」が来る。 次のように形容詞文で「です」の代わりに「だ」を使うことができない。 富士山は美しいです。 *富士山は美しいだ。 動詞 国語教育で一般に用いられる活用表には以下のような問題点があります。 例えば「書く」の「命令形」は「書け」。あとにも何も続かずにその形自体が 「命令」の意味になります。ところが「仮定形」も「書け」。後に「ば」が続 いて初めて「仮定」の意味になります。このように活用形の名称のつけ方が一 様ではありません。独立した形とそうでないものが混在しているわけです。こ れは上述したように、活用表というものがある動詞が様々な助詞・助動詞につ いた場合の形の変化を記述しているため活用形そのものには助詞・助動詞は含 まれないからである。 9
「終止形」・「連体形」は形が同じです。これは文語文法ではこの二つの形が 違いました。現代語の文法に関する限り、この二つの形の区別は必要はありま せん。 テンス・アスペクト a. テンス(時制)とアスペクト(相)を見ていきましょう。この二つはともに 「時」に関係するので混同しやすいのです。 ところでこのテンス、お隣の中国にはありません。「私は食事をする」「私は 昨日食事をした」で違うのは、「昨日」という時の副詞だけです。つまり、中 国語は過去を表す文法手段(語ではない)即ちテンスがないのです。「過去・ 現在・未来」と言った「概念」はあっても、それを文法的に表す手段がありま せん。 実は日本語でもテンスとアスペクトの区別が判然としない場合があります。 「映画を見たか」に対して「いや、見なかった(過去)」「いや、まだ見てい ない(完了)」の両方が答えられます。つまり、「た」は過去、完了の両方の 意味を持つのです。 b. 欧米人の学生に多い間違いの一つは「*日本へ来た前、生まれた前」、と現 在形でいうべきところを過去形でいうということである。過去の出来事につい て「日本へ来る前、生まれる前」と現在形を使うのは、日本人にとって時制 (テンス)は、宇宙的な時間の流れに基づくものではなく、意識の中の時間の ものさしで計っているということであろう。すなわち、日本へ来る、生まれる ということがまだ起こっていなかったときのことを語るのであるから、その時 点において現在―正確には未来―なのである。 同様に、「この次、銀座へ行ったとき、買いましょう」も理解しにくい表現で あろう。買物をする時点では、もう銀座に着いているから過去形を使うのであ る。このように、時についての日本語の表現は流動的であるといえよう。 ヴォイス ヴォイスは「態」とも言います。典型的なものとしては受動態・使役態があり ますが、そもそも「ヴォイス」とは一体何でしょう。 ヴォイスを一言で説明するのは難しいのですが、大ざっぱに言えば「ある事柄 を誰(何)を中心に述べるかによって動詞の形が変わること」です。事例を挙 げて説明しましょう。 (1)子供が育つ というのは子供が一人で成長する述べ方ですが、実際は育 てる人間がいます。つまり、育てる側から述べれば、 (2)親が子供を育てる になります。よってこの二文は違う態を持ちます。 (1)は自動詞で(2)は他動詞ですね。自他の対立は態の一種なのです。
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次にある事柄を述べるのに何人の人物が登場するのも一人ですが、(2)では 親の側から述べられ、登場人物も親も子の二者です。では、子供の側から述べ、 しかも親も登場させたい時はどう表現するのでしょう。 (3)子供が親に育てられる に成りますね。これは受動態です。この観点か ら言えば(3)に対する(2)は能動態です。 これらの動詞の形の変化は、基本的に同じ動詞から派生していることを前提に しています。 自動詞・他動詞 a. 自動詞と他動詞 動詞は、目的語を取らないものに二分される。目的語を取らないものは「自動 詞」、目的語をとるものは「他動詞」と呼ばれる。 動詞には、目的語を取るかとらないかという違いを除いて、その他の特徴を共 有するような動詞の対が存在することがある。例えば自動詞「開く」と他動詞 「開ける」の場合、形態的には、/ak/という共通の語幹を持つ。また、意味的 には、他動詞文は自動詞文の表す出来事を含み持つ。さらに構文的には、自動 詞文のガ格成分が他動詞文のヲ格成分に対応する。 窓が開いた。 太郎が窓を開けた。 このような場合、「あく」と「あける」は、自動詞と他動詞の対応を示してい ると考えられる。このような自動詞と他動詞の対立は、全ての動詞について見 出されるわけではなく、例えば「吹く」のように対応する他動詞の存在しない 自動詞や例えば「書く」のように対応する自動詞の存在しない他動詞も存在す る。 b. 自動詞表現 「富士山が見える」「変な音が聞こえる」など、実物を主体として、人間が主 語にとらない表現も使いこなしにくいものの一つであろう。「(彼が)レスト ランで食事しているのが見えた」といえば、見ようと意図したのではなく、自 然に視野に入ってきたことを表す。 もし、「レストランで食事をしているのを見た」といえば、「見た」ことに意 味があることになる。彼の「レストランで食べる」という行動を問題として取 り上げているのである。物を人間と対立する「対象物」としてとらえず、物も、 人間も一体である、人間も自然の一部分であるという日本人の自然観がもとに なっていると言えよう。 使役 a. 使役文は、基本文の動詞が他動詞の場合「―が―に―を―させる」という構 文を取るが、自動詞の場合には「―が―を―させる」と「―が―に―させる」 11
の両方の構文を取ることができる。形の上から、基本文の動詞の主語を「を」 で示すものを「ヲ使役文」、「に」で示すものを「ニ使役文」と呼ぶ。意味的 には、ヲ使役文は「強制」の使役を表し、ニ使役文は「許可」の使役を表すと される。 b. 使役は目上の者が目下の者に行動を命じたり、行動を許可したりする場合の 表現であることが多く、敬意を度外視した表現であることが、日本語の使役の 特徴であろう。 「子供に薬を飲ませるのは大変だ。」(命令) 「子供に初めてビールを飲ませた。」(許可) の違いはあるが、主体である目上の者にとっては、自分の意志を実現させると いう点において差異はない。 受身 日本語の受身文には、2種類のものがある。一つは、英語の受動文のように、 対応する基本文に戻せるものです。この場合、受動文の主語が能動文の目的語 に対応する。もう一つは、受動文の主語が能動文の目的語に対応せず、対応す る能動文の形に戻そうとすると、不自然になってしまうものである。 前者のような受身文は「直接受動文」、後者のような受動文は「間接受動文」 と呼ばれる。間接受動文、主語は何らかの「被害」「迷惑」を受けるという意 味を持ち、このことから、「被害の受動文」「迷惑の受動文」なども呼ばれる。 可能 可能文の典型的なものとしては次のようなものがある。 (1)わたしは英語が読めない。 「(ら)れる」の表す意味とほぼ同一の意味を表す動詞として「できる」があ る。「できる」は次のように単文の動詞としても補文構造の主文の動詞として も働き得る。 (2)修一はフランス語が出来る。 僕は友人達の学生運動に参加することができなかった。 「(ら)れる」と「できる」の意味的類似性は次の対話でも明らかである。 やはり犬はまだ笑うということはできないですね。 犬は笑えませんか。 つまり、「参加する」のように「漢語+する」の可能性は「参加できる」であ るという点に注目して、「できる」は「する」の可能形「す+られる」、すな わち「し られる」、または「せ られる」の補充形と考えることができる。 複合動詞 最少二つの実質的態素が結合して、新しい文法的機能と意味を持つ大きな単位 を形成する時、そのまとまりを複合語という。そしてその実質的形態素二つと 12
もが動詞であるか、あるいは後部形態素が動詞であって、形成された複合語自 体が一つの動詞としての文法的性質を持つものを複合動詞と呼ぶ。これを動詞 の面からみると、複合動詞の構成要素としての動詞は、形態的にも、意味的に も、元になる本動詞があるということになる。 複合動詞に類似したものに、使役文や受動文に表れる助動詞「させる」、「ら れる」などとの結合体があるが、これら「させる」「られる」などは、本来単 独で実質的動詞としての機能も持たないので、これらとの結合体は、ここでは 複合動詞として扱わない。 敬語表現の本質 敬語というのは、話題に出てくる人に対する敬意、あるいは、話の相手に対す る敬意を表す言葉です。敬語は日本語だけにしかないと思っている人もあるか もしれませんが、地上の言語の中にはたくさん敬語を持っているものがありま す。 敬語の表現の中で最も一般的なのは、人に対する呼びかけの言葉です。これは ヨーロッパの言語にもあります。日本語で言いますと「-様」「-さん」「- くん」となりますが、英語では性別により“Mr.”、“Mrs.”、“Miss…”と いう。 この敬語というのが、日本語と英語ではちょっと違います。英語の方では、例 えば“I am Mr. Smith”というようなことを言うことがあります。名刺をもらいま すと“Miss…”と自分の名刺に Miss.を付けている人もいる。日本人はまさか自分 の名刺に「―様」と書く人もいません。もう一つ日本人の場合には、名前だけ でなくて、職業あるいは地位にも「さん」とか「さま」とかをつけることがで きます。例えば「駅長さん」、これは英語にはないですね。駅長さんは stationmaster ですが、Mr. Stationmaster とは言わない。 授受動詞 物の移動を表す文には、話し手がものの移動先と移動元のどちらに近い立場に 立つかが、あらかじめ定められているものがある。本章では、物のやりもらい を表す「あげる(やる)・くれる・もらう」(授受動詞)と、移動の方向を表 す「行く・来る」を取り上げる。 授受表現には、主語が物を与え手を表す文と、主語が物の受け取り手を表す文 とがある。 「あげる」「くれる」を述語とする文は、どちらも主語が物の与え手である点 で共通している。しかし、話し手が与え手・受け取り手のどちらになるかで異 なっている。 「あげる」は、与え手が話し手になるのに対し、「くれる」は受け取り手が話 し手となる。一方、「もらう」は、主語が物の受け取り手を表し、受け取り手 が話し手となるの自然である。 13
ここでいう「話し手」には、話し手本人だけでなく、話し手が自分の側にある とみなした人物も含まれる。 ムード a. ムードは別名「陳述」「法」「モダリティ」とも呼ばれ、「話者の心的態度」 を表します。これは文の中の「事柄」以外の話者の主観的な部分で、たいてい は文末に位置します。 ことがら ムード うまいそばを食べ たい (願望) うまいそばを食べ よう (意志) うまいそばをたべる だろう (推量) ムードを表す単位は助動詞が多いのですが、この他にも「形式名詞+だ」が全 体として様々な意味を持ちます。見過ごされることが多いですが、重要チェッ クポイントです。 b. モダリティ 感情や思考のような人の内面にある事柄を表現できるのは、その感情や思考の 持ち主本人だけである。我々は他人の心の中を直接見ることはできないので、 その人の内面にある感情や思考を直接言い表すことはできないわけである。 「太郎君はファミコンがほしいようだ。」や「幸子さんは嬉しいらしい。」の ように「ようだ」や「らしい」等の推量の表現を使うことによって、他人の気 持ちを表すことができる。ただしこの場合、他人の内面を直接表現しているの ではなく、他人の内面についての自分の推量を述べているにすぎない、という 点に注意する必要がある。 主観的表現というものは本来、今現在のことを表すものである。そのため、主 観的な事柄を表す表現は、過去の言い方になることはない。推量の気持ちを表 す「だろう」や意志を表す「しよう」のような表現は、過去の言い方にはでき ない。つねに、今現在の気持ちを表すのである。 主語 主語とは、述語の表す動き・状態・関係を実現、完全させるために要求される 成分の一つである。述語の表す広義の属性を担い・体現する主体を表す。「皆 が彼を愛した。」、「彼は皆に愛されている。」、「僕は酒が飲みたい。」な どの下線部が主語である。 主語は、ある種の従節には現れないし、述語のモダリティによって、自らの人 称に制限が存する。例えば、「コーヒーを飲みながら、僕は本を読んだ。」な どの下線部の従属では、主語は現れない。 目的語
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目的語は動詞の表す動作・作用の対象です。目的語は多くの場合「を」で表さ れます。しかし、主語と同様、目的語も述語との関係であり、本質的には形式 で判断できるものではありません。 格助詞 を に が
目的語の例 人を殺す、りんごを食べる 犬に噛み付く 歌が歌える
修飾語 文は述語と補足語で成立します。主語や目的語も補足語に入ります。補足語同士 の語順は原則的に自由です。修飾語は文の成り立ちには不要ですが、述語や補 足語をより詳しく述べます。 主題 修飾語 目的語 修飾語 述語 昨日は 新発売の ビールを 3本 飲みました。 修飾語の種類は、それ自体の品詞ではなく、それが何を修飾しているかによっ て分類されます。 連体修飾語:体言、即ち名詞などを修飾する語 例:赤い花、元気な人、病気の犬 連用修飾語:用言、即ち動詞、形容詞、形容動詞などを修飾する語 例:速く走る、元気に働く、とてもよい 主語・直接目的語・間接目的語・が・を・に 日本語の文法的特徴の一つとして助詞の数々を挙げることができる。助詞には いろいろな種類のものがあるが、統語的観点からして一番興味深いのはやはり 格助詞と呼ばれるものであろう。どのような助詞が格助詞と考えられるかは、 学者によって多少の差がある。しかし一般的には次のものが含まれている。 主格 「が」 対格 「を」 与格 「に」 具格 「で」 本章では文法範疇、主語・直接目的語・間接目的語と格助詞「が」・「を」・ 「に」の関係、及びこれらの格助詞の間にみられる格の交替現象のいくつかを 検討することにしよう。 日本語の文 a. 日本語の文の特徴
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日本語は、語順が自由だと言われますが、動詞が目的語より後ろに来るので、 英語と対照して SOV 言語とよく言われます。厳密に言うと、日本語の文末は動 詞だけでなけ、形容詞もあります。これらをまとめて文の「述語」と呼びます。 日本語の文の特徴の第一は、述語が常に文末に来ることです。 語順に関するもう一つの特徴として、日本語では修飾する語句と修飾される語 句の語順が常に同じで、修飾語が被修飾語の直前に来ます。これは修飾語や被 修飾語がどういう品詞であってもおなじです。 高い本 私がかった本 b. 文の構造 文は普通述語を中心にし、その述語が必要とする種々の各成分を備えて、その 基本的な構造をなす。その上に、他のいろいろな成分を伴いしだいに詳しい情 報の整った複雑な構造をなしていく。 文の構造は、例えば次のような図示の仕方がある。 [緑が[[[かわいい]服を]選んだ]]。 文には、複数の文相当のものから成り立つものもある。このようなものには、 複数のものが対等に並んだ場合と、一方に埋め込まれた場合とがある。例えば、 次の (ア)[田中さんはやさしいが]、[山田さんはなかなか厳しい]。 (イ)[その言葉は、[彼が思わず吹き出すぐらい]おかしかった]。 (1)が前者で、(2)が後者である。 c. 副詞節 副詞節とは、述語が「しながら」「しつつ」などといった形を取るもので、主 節の表す動きの行われ方を表すものである。「コーヒーを飲みながら本を読ん でいる。」「汽車は煙りをはきつつ、駅を出ていた。」などの下線部が、この 副詞説である。副詞節には、「堅いいすに座らせらながら話を聞いた。」のよ うに、ヴォイスは生起するものの、アスペクトやみとめ方など、それ以外の文 法カテゴリーは、生起しあに。 d. 従属の程度 日本語の従属節には制限のあるもの(つまり、より従属の程度の高いもの)か ら、主節に近いもの(つまり、より自由度が高く、従属節らしくないもの)ま で程度差があり、下の表のように3種類に分かれています。これはそもそも複 文と重文の区別が日本語でははっきりしないためです。例えば以下の二つの節 を比べてみましょう。 彼は歩きながら考えていました。 彼は行かなかったらしいですが、私は行きます。 16
下の「が」の取る節の中には、「は」、否定、過去、ムード、丁寧体などの要 素が含まれていますが、これらはいずれも上の「ながら」の節の中には現れま せん。「ながら」節の中に現れない主語やテンスは、主節と同じと解釈されま す。つまり、主節に頼っているのです。それだけ、「ながら」の節は「が」の 節に比べて制限が多くなっています。 連体修飾節 連体修飾節というのは、例えば次のように名詞を修飾する節のことを言います。 (1)ケーキを焼く花子 (2)ケーキを焼く匂い 「ケーキ」を焼くという部分は「花子」、「匂い」という名詞をそれぞれ修飾 していますが、これらの被修飾語は修飾節とどのような関係にあるのでしょう か。 (3)花子がケーキを焼く (4)匂い(?)ケーキを焼く (1)の「花子」は修飾節中の述語「焼く」の主格(が格)という関係にあります が、(2)の「匂い」はどのような関係にあると言ったらよいでしょうか。連 体修飾には、修飾されている名詞が修飾する述語に対して主格、対格などの格 関係にあると解釈できるもの(1)と、そうでないもの(2)とがあります。 さて、(1)の修飾部のようなものは英文法で関係節と呼ばれています。関係 節という用語は、修飾されている名詞が修飾する述語と何らかの格関係にある 場合に用いられます。日本語の場合、(2)のように格関係がないものがあり、 それも含めて連体修飾節と呼ぶのが一般的です。 哀しい予感 a.おばの家で過ごしたほんのひとときの不思議な印象は、私の胸に深くしまいこ まれた。あの独特な色をした空気、おばのいろ空間では過ぎてゆく時間さえ足 を遅くするように思えたこと。奇妙になつかしく胸に追ってきたあのひととき の印象が胸に焼きついた。 やがて、木々の間におばの家の白い壁が現れ、そのぼつりと明かりのついた窓 が見えた時、私はほっとした。 b.「弥生、あんたそういうのが上手ね」 「何。」 「犬小屋作り。私犬小屋の図面なんて絶対に書けないわ。想像もつかない。」 「犬が来っちゃうとなれば、なんとか作れるもんだよ、こうして。そうでもな ければ面倒くさくて考え付きもしないよ。」 弥生は並ぶ板を指した。 「それもそうね。」
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c. その時私はまだ小学生だった。母方の祖父の葬式の朝、真冬の、今にも雪が 降ってきそうな光る曇り空だった。よく覚えている。私はふとんのなかから障 子越しにぼんやり明るいその空を見ていた。 廊下でひっきりなしに電話をしている母の声が時々、涙でつまるのが分かった。 私はまだおさなくて、死がよく分からなかったが、悲しむははがただ悲しかっ た。 雪国 「どうしたんだ。」 「帰るの。」 「馬鹿言え。」 「いいから。あんたお休みなさい。私はこうしてたいから。」 「どうして帰るんだ。」 「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ。」 「つまらん、意地悪するなよ。」 「意地悪なんかしないわ。」 「じゃあ。」 「ううん、難儀なの。」 貝の火 今は兎たちは、みんな短い茶色の着物です。 野原の草はきらきら光、あっちこっちの樺の木は白い花を付けました。実に野 原はいい匂いで一杯です。 子兎のホモイは、よろこんでぴんぴん踊りながら申しました。 「ふん、いい匂いだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴蘭なんかまるでパリパリ だ。」 風が来たので鈴蘭は、葉や花をお互いにぶっつけて、しゃりんしゃりんと鳴り ました。 ホモイはもう嬉しくて、息もつかずにぴょんぴょん草の上をかす出しました。 不思議の国のアリス アリスは川の堤の上でお姉さんのそばに座ったまま、なにもすることはないの で、とても退屈になってきました。お姉さんの読んでいる本は、一度、二度の ぞんでみましたがその本には挿絵も会話もありません。「これじゃ、何のため の本かしら」とアリスは思いました。 NHK a. 日本文化というと、まずお茶や生け花とか、歌舞伎などがよくあげられたり します。一方現代のコンピュータやロボットがよく知られています。歌舞伎や お茶や花が一方にあり、他方性能のいい自動車とか、世界一の生産高を誇るの 18
ロボットなどという二つの全く異なる性質のものによって代表されやすい日本 文化になるものは、誰かに外国人にとって、大変理解しにくいものでしょう。 そうなると、日本人が説明を求められることになります。ところが、日本の文 化や日本の社会について説明するのは日本人にとっても容易ではありません。 b. 日本がよく外国人から子供天国といわれるのも、子孫を大事にする伝統のせ いです。日本では小さな子供はあやまかされ、のびのび育てられます。小学校 と幼稚園にあがるまでは、ヨーロッパやアメリカと違って、あまりきびしくし つけられません。 日本でも、このごろは核家族では夫婦のヨコの関係よりも、親子のタテの関係 が優先されます。一家の長でもあり夫でもある人が転勤を命令された時、しば しば、妻子と別居して単身赴任します。 c. 日本人が何気なく使う言葉は、外国人にはずいぶん奇異に響くことがあるよ うです。例えば道で思いがけんなく知人にあったとします。日本人のうちには、 「おれがどこへ行こうと勝手ではないか、おれの私生活に入ってくるな」とい いたくなる人があるかもしれません。 日本人はそういう質問をするのは、「この人に、きょう、思いがけないところ で逢った。この人に何か変わったことでも起こったのではないか。それならば 一緒に心配してあげよう。」というやさしい気持からそういうのです。ですか ら聞かれた人は、簡単に、「ちょっと、そこまで」といえばそれでよろしいの です。 少子化 子供の数が減っている! 1992 年に出生率が 1.50 人に下がったという原生省のデータが発表された。人口 が減らないようにするためには、女性一人あたり 2.1 人以上子供を持つことが必 要だが、1992 年の出生率はこれを大きく下回った。つまり、最近の日本の家庭 は子供の数が減り、一人っ子の家庭や子供のいない夫婦が増えているというこ とだ。このままでは、日本の人口はだんだん減ってしまう。 このような[少子化]にはさまざまな原因が考えられるが、第一の原因として、20 代前半で結婚しない女性が多くなっていることがあげられる。日本では未婚の まま子供を産む女性はまだ非常に少ないから、結婚しない女性が増えることに よって出生率が下がることになる。 まだ、最近では、結婚して一人目の子供を産む年齢がだんだん高くなっている。 2,30 年前には 20 歳ぐらいで結婚して、すぐに子供を産む、30 歳の時には子供が 二、三人いるという人が多かった。今は 30 歳を過ぎて初めて子供を産む人が珍 しくない。その結果、どうしても一人っ子が多くなる。
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