Port Arthur Guidebook Japanese

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  • Words: 792
  • Pages: 13
日本語版 / JAPANESE

ポートアーサー へのご案内

ご紹介の頁ツーリスト 情報 ポートアーサーの保存にご協力ください 現在この史跡は崩れやすい状態にあります。史跡を安全な状態に保つため、 またご自分の安全のためにも、壁や基礎の上を歩かないようにしてください。 史跡がそのままの状態を保つことができれば、他の人たちも楽しめます。

スペシャル・ツアー ポイントプエル少年刑務所と死者の小島への経路はガイド付きツアー専用の ルートです。料金をお払いください。このツアーのご予約はビジターセンター で、あるいはモーターボートのマラナ号に乗船中になさってください。

開園時間 ビジターセンターは午前8:30に開き、夜の最終ヒストリック・ゴーストツアー が終わるまで開いています。各ツアーが行われる時間帯、各建物の開いている 時間帯は午前9時から午後5時までの間で、それぞれ異なります。ビジターセン ターの「今日の時間帯 Today’s times」でご確認ください。構内と廃墟は午前 8:30から夕方まで開いています。

史跡入場パス 日帰り入場パスは連続2日間ご使用になれます。追加料金を少し払っていただく と年間パスがお買い求めになれます。 入場パス1枚で下記の催しがご利用になれます。

• インタープリテーション・ギャラリー

• ハーバークルーズ(20分) 史跡の入場パスをお買い求めになるとツアー時刻が発表されます。フェ リーは定刻に出発しますので、指定時刻の5分前までに桟橋にお集まりく ださい。クルーズでは造船所、ポイントプエル(奴隷岬。puerはラテン語 で奴隷、子供の意)少年刑務所、そして死者の小島の墓地を巡ってゆきま す。ポイントプエルと死者の小島でのツアーのチケットをお持ちの方は それぞれの史跡でお降りください。

ビジターセンターでは下記のサービスをご用意しています 応急手当、車椅子の貸し出し、貸し傘、レインコートの販売、各ツアーのチ ケット、ヒストリック・ゴーストツアーの予約、観光飛行のチケット、懇談会 「ブレイクアウト(脱獄)」そしてケータリング情報キット、タスマニアのビジ ター情報ネットワーク。

適切な衣服を ポートアーサーではお天気が非常に変わりやすいので、温かい衣服、レインコ ートか雨傘をご用意なさるのが賢明です。地面が平らでない箇所があり、また 歩く距離もかなりありますので、丈夫な履物をご準備ください。

障害者のためのアクセス 体が不自由な人については、ご支援のために特別な準備を図ることができます ので、チケット販売デスクでお尋ねください。

その他詳しいお問い合わせは: 郵便: Port Arthur Historic Site Port Arthur Tasmania Australia 7182

入口でトランプを1枚お渡しいたしますが、囚人になった積りでIDカード としてお受け取りください。

ファックス:

1800-659-202(日本からでは+61-1800-659-202)

電子メール:

[email protected]

ま ず 二 階 に 上 が る と 大 き い 模 型 が あ り ま す 。 史 跡 の 昔 の 大 き さ と 複 雑 さ が お 分 か り に な る で し ょ う 。 次 に 階 段 を 下 り て イ ン タ ー プ リ テ ー シ ョ ン ・ ギャラリーに進みます。ここでは「自分」が囚人となってポートアーサ ーでの受刑者人生を追跡してください。

ウェブサイト: http://www.portarthur.org.au

• 見どころ案内ウォーキングツアー(45分) ツアーは通常、ビジターセンターから降りたフロアの外から出発しま す。このツアーはポートアーサーでも重要度の高い各場所への基本的な 導入部となります。 2

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ポートアーサー にようこそ

ポートアーサー の略歴

「驚き」を期待してください 拷問や苦難に関する悲しい話を期待されるビジターが多いのですが、それは歴 史の一部にしか過ぎません。

何万年も前にはこの地域はピデライルメ族の所有地でした。

ポートアーサーの目的は「悪党たちを虐げて正直者に変えるメカニズム」であっ たのです。懲戒と刑罰、宗教的な教示や道徳的な訓育、選別と分離、訓練と教育 がこの機械の歯車として働きました。現在では残酷と思われる方法によって挫け てしまった人も多数ありました。しかし中には、将来に役に立つ技能を身に付け て出所した人たちもいました。ここにある建物は全て受刑者によって建てられた もので、彼らが受けた職業訓練のモニュメントとしての役割を果たしています。

ポートアーサーの始まりは1830年、木材取り入れのキャンプに遡ります。1833年 を過ぎると当地はオーストラリア植民地全土からの常習犯罪者を受け入れる刑 罰基地となりました。1840年までには主要な産業入植地となり、その居住者は 2000人を超えていました。 ヴァンディーメンズランド(タスマニアの旧称)への囚人輸送は1853年に終わり、ポ ートアーサーの住人は、囚人制度の脱落者である病気の老人が次第に増えてきまし た。 刑罰場としての入植地は1877年に閉鎖され、多数の建物が引き倒されたり焼却さ れたりしました。カーナーヴォンと改名されて小さな町となり、廃墟の中で大き くなってゆきました。囚人ツアーとしての観光事業が急速にビッグビジネスに成 長し、それが今日まで残っているのです。

ポートアーサーの保存にご協力ください。この崩れやすい状態にある史跡を安全 な状態に保つため、またご自分の安全のためにも、壁や基礎の上を歩かないよう にしてください。史跡がそのままの状態を保つことができれば、他の人たちも楽 しめます。 4

5

1.

管理地区...司令官の屋敷 (1833~56の間に建設)、 軍高官の屋敷(1833)、 裁判所(1846)。

「メカニズムのコントロール室」

2 . 軍地区...兵舎(1831、1847)、 タワー・コテージの役人たちの 居住区(1854)そして見張り塔 (1842) 常時警備態勢 兵士たちは働いている囚人を見張った り、脱獄囚を追跡したりしました。後 年になると、民間の警備員警察官が兵 士の代わりを勤めましたが、彼らの多 くは元囚人であった人たちでした。

ここには上級行政官たちが住んでおり、「メカニズムの操作」を指揮していま した。 司令官の屋敷は塀で守られていて、中は美しい庭園があり花やハーブ、果物や 野菜が満ちていました。 司令官は駐屯地以外の全地域を担当しており、駐屯地は軍高官が指揮していま した。その後、役人は全て文民がなることに変わりました。上級役人の妻たち は幸せな家庭を築き、他の家庭にとって模範となるように期待されました。 新たに到着した人たちは裁判所の外の街路に整列させられ、司令官の事務官 が1時間かけて規則や規定を読み上げました。監督者たちはここの囚人たちを 「グリーンドア」に送り込んで懲罰することを楽しみにしていたのです。

見学のポイント

独身男性たちは兵舎(バラック)にある 大部屋に住んでいました。結婚した夫 婦は別の大部屋でカーテンを吊って住 んでいました。12人の妻たちがそれぞ れ100人の男たちのために看護や洗濯、縫い物をしました。 兵 舎 は 何 度 か 増 築 さ れ ま し た 。役 人 た ち は タ ワ ー ・ コテージに住みました。見張り塔には兵器庫、警備員詰め 所、望楼があり、また兵士、民間犯罪者そして女性囚人家 政婦(下女)のための独房が3つありました。 入植地が閉鎖された後、軍の複合施設は解体されたり、 1897年の山火事で焼け落ちたりしました。 見張り塔の一階にある内壁を見てください。ここで火薬を 保管するのをやめた理由は何だったのでしょうか?

見学のポイント

司令官の屋敷の後ろにある丘の頂上に登って、 そこから司令官が何を見ていたのか想像してみましょう。 6

見張り塔の一階にある内壁を見てください。ここで火薬を保管するのをやめた 理由は何だったのでしょうか? 7

3 . 受刑者エリア...受刑者バ

4 . 産業エリア(1831、1857)

ラック用地(1830、1834)、 感化院(1857) 生活のための労働

ライオンのおり 受刑者たちは下見板張りのバラック(板張りの外壁だけで内 壁のないバラック)に収容されていました。製粉所と穀物倉 が感化院に改造されると、そこに移されました。この製粉所 は入植地の小麦粉を一手に供給することを目的としていまし たが、思うように稼動したことはありませんでした。 感化院には「重い判決を受けた、性格の悪い受刑者」であ る「ライオンたち」のため、最下階に隔離独房が138室設け られていました。上には大食堂(夜間学校のようにダブル用 途)、図書館、カトリックのチャペル(礼拝堂)がありました。 振る舞いがましな約416名の男たちは最上階にある寄宿舎 で寝泊りしました。西端には 厨房と製パン所が設けられて いました。正面には壁で仕切 られた中庭があり、ここで男 たちは集められてお祈りを聞 き、作業の前後には点呼を受 けました。本館の裏には運動 用の中庭、洗濯場、トイレ棟 がありました。 1897年の火事で建物は全焼し ました。

見学のポイント

入植地の存続のためには、また矯正 のメカニズムにおいては工作場が必 須の建物でした。職業訓練が施さ れ、入植地にとって基本的な物品も 与えられ、残ったものは販売に供さ れました。 入り江の南海岸にある一続きの工作場 には鍛冶屋、靴屋、大工、桶屋、木 工旋盤工、仕立て屋、靴屋、釘作り などが陣取っていました。 これらの工作場は1857年に感化院の 西端に、ずっと大きい複合建物に置 きかえられました。ここには大工、 桶屋、塗装工、鍛冶屋、鋳物工が陣 取り、蒸気を動力とした製材所やボ ーンミル(骨粉−ボーンミール−を作 る挽き臼)が設けられました。 入植地は加工商品の輸入に頼ること が次第になくなって自給自足へと移 行し、ついには輸出に転じました。しかし1864年を過ぎると体の丈夫な男たち の数か少なくなった工作場は衰退し、やがては撤去されるに至りました。 1930年代になるとこの用地に1軒の店と、人気の高い19世紀の「名品珍品」 の博物館が建てられました。

見学のポイント 感化院の方を向いて右手の草深い空き地をご覧ください。昔ここの空気はどん な音、どんな匂いで満ちていたのでしょうか...思いを馳せてみましょう。

この火事の形跡をご覧になれますか? 8

9

5 . 福祉エリア...貧民収容所 (1864)、保護施設(1868)

1860年代の初期までには、健康状態にもよりますが多数の人たちが、貧民収容 所、病院、精神異常者保護施設の間を行き来しました。寄る辺のない人たちの ための備えを作ること、これがオーストラリアでの近代福祉制度の誕生となりま した。

残酷から親切へ

「老いた紳士たち」の家 年を重ねたり、虚弱であったり することで自分の身の回りを始 末できなくなった人たちは貧民 収容所に集められました。食堂 には最高140人がベンチに座って 食事をしました。正面にあった バラック、下見板張りの寄宿舎 である大きい建物は今では姿を 消してしまいました。

この精神異常者保護施設にいた人たちの多くはうつ病、痴呆、精神障害を患って いました。

貧民たちはやはり受刑者同様の 扱いを受けていました。彼らは 働けるならば職に就かせられる ので、便利で従順であると思わ れていました。彼らの仕事としては羊飼い、養豚者、ランプ点灯夫、時計の守り 役、役人の召使などがありました。

しかし受刑者と同様、病人たちはやはり働かされて、窓はあまりにも高くて外を 見ることもできず、建物は高いフェンスで囲まれていました。だれもが中央の広 間で食事をしましたが、ここでは分裂的な収容者が発する感情の激発によって平 安な雰囲気が打ち砕かれました。

また楽しくて「ためになる」活動も「老いた紳士たち」にとって重要であると考 えられました。食堂のホールには図書室が設けられ、毎週音楽やドラマの楽しみ が催されました。

見学のポイント

近代治療のためには適切な建築様式を、という最近の考えがこの建物に取り入 れられていました。落ち着いた、清潔な環境の中で親切な扱い、運動、娯楽、宗 教的な慰め、作業を与えられたら「精神異常者」たちは癒されることでしょう。 各部屋は広くて明かりも充分に取り入れられ、分裂的な病人たちは隔離されまし た。「すばらしい浴室」が設けられていました。行ないの良い人たちは庭園で作 業したり、太陽を浴びて座ったりすることができました。乱暴な病人は隔離され た裏庭に閉じ込められました。

このような欠点があるものの、この人たちは英国の「精神病院」にいる人たちよ りも幸運でした。 保護施設は1895年の山火事でひどく損傷して以来、大規模の変更をいくつか加え て改築されました。1970年までタウンホール(市役所)とコミュニティーセンター (公民館)として機能していました。

見学のポイント

貧民たちの食堂を覗いてみてください。 老人たちはどうやって暖を取っていたのでしょうか? 10

あなたが保護施設で係員をしているとします。出来るだけいろいろの場所を見 回せるようにするにはどこに座るでしょうか? 11

14

スミス・オブライエンズ・ コテージ 7

カーナヴォン・ ベイ

1

桟橋

役人たちの 居住区

司令官の屋敷

見張り塔

6

メーソンコーブ

Cha mp Stre et

カトリック司祭館

次席医療技官の家

ポートアーサー・ モーターイン

Str ee t Ta rle to n

フェリーターミナル

お手洗 救護所

桟橋コテージ 造船所往復8分 造船所往復15分

BBQ

ビジターセンター

石灰炉 現場監督の家

ガー 9 デン ズ

教会

パット・ジョーンズ・ コテージ

車椅子のお客様に お勧めのコース

プライスの炉 12

スコーピオン・ ロック

時間の限られたお 客様にお勧めのコ ース

造船工の家

スチュワーツ・ベイ・トラック

(ユースホステル)

ガバメント・ コテージ

ビジター用駐車場 ad Ro tty Je

造船台

10

ガバ メン ト・

子供の遊び場

第二駐車場

YHA

牧師館

メモリアルガーデン

電話

主計官の家

セントデービッズ教会

カナディアン・ コテージ

インフォメーション

たべもの

et ay Stre Tramw

トレンサム

3

N

エフトポス

11

分離型の刑務所

Ch urc hS tre et

死者の小島

農場監督者のコテージ

行政官および外科医の家

4

感化院

駐車場

8

警察官の邸宅

桟橋

郵便

5 貧民たちの食堂

メモリアルアベニュー

ポイントプエル

12

保護施設、スタディー センター、博物館、 コーヒーショップ

司令官のオフィス

カーナヴォン・ベイ・ トラック

13

洗濯場 病院

2

ダム

13

6 . 病院(1842)

7 . スミス・オブライエンズ・ コテージ(1840年代後半)

仮病使いの人はご用心! 「どうやって笑うのか、全く忘れていたよ...」 ウィリアム・スミス・オブライエン、1850年

病院は健康に良いそよ風を受ける丘に立っていて、病気の受刑者80名のための 病室、店舗、厨房、死体保管所2箇所、洗濯棟、廃棄物回収室が設けてありまし た。 病人の大半は労働災害で、あるいは屋外作業してから寒い独房で濡れた衣服の まま寝ることが原因となった呼吸器やリュウマチの愁訴で苦しんでいました。 貧民の人数が増えるにつれて、年配の人たちの病気も増えました。病人は、 本当の病人であると分かるまでは皆にせ病人であると考えられていました。 付添役の囚人が外科医を手伝っていました。補給品は適切でなく、原始的な治 療が行なわれるのが常でした。喉を切った受刑者を縫うために外科医はストッ キング用の針を使って縫い、それから脂肪を抜いた塩漬け豚肉から作った自家 製の軟膏を塗りました。 過酷な条件下ではありましたが、ここでの罹病率と死亡率は英国の市街地での 率よりもはるかに低かったのです。 この病院は1890年の山火事で消失しました。

見学のポイント

もともと厩舎であ った、このコテー ジにはポートアー サーで最も有名な 政治犯の一人であ ったアイルランド の国会議員、ウィ リアム・スミス・ オブライエンが住 んでいました。彼 はアイルランドの 英国からの独立を 求めて闘っている 革命グループに参 加していました。1849年にオブライエンは、大逆罪のかどで終身刑としてヴァ ンディーメンズランドに移されました。1850年の8月には結局、ポートアーサー に送られましたが、ここではその身分のおかげである程度は快適に過ごしまし た。 この入植地は「悲惨と罪悪の所在地というよりも非現実的な場所に置かれた可 愛い村のように」見えると彼は書いています。訪問者に会うことは許されませ んでしたが、小さい庭園で働くことから慰めを得ていました。4ヵ月が過ぎると 彼は自由の身になり、1856年にはアイルランドに戻りました。

見学のポイント

地下を見下ろしてください。 遺体安置所がそこにあった理由は何であったと思いますか? 14

もし庭園で働いているスミス・オブライエンであったなら、 何が見えたと思いますか? 15

8 . 分離型の刑務所(1849)

9 . 市民の街(1842~48)、 ガバメント・コテージ(1853)、 ガバメント・ガーデンズ(1846)

「囚人の心にひそむ悪い傾向を変えるのだ」 司令官ボイド、1864年 分離型の刑務所はその隔絶状態と高い塀で反抗 的な人たちに得体の知れない、恐ろしい宿命感 を与え、威嚇することを目的としていました。 それは犯罪者たちを改心させる新しい考え方を 取り入れたものでした。いまや肉体的な懲罰は 人を頑なにするだけであり、穏やかで整然とし た雰囲気にいれば、人は悔い改めることができ る、と考えられるように変わっていたのです。 新たに到着した人たちはそれぞれ4ヵ月から12ヵ月、ここで隔離と静寂のうちに 過ごしました。常に監視されていました。チャペルと掃除の勤め、運動を別とし て、毎日23時間を自分の小さい独房で過ごし、その中で衣服や靴、マットや箒を 作りました。与えられたのは小さいテーブル、丸椅子、ひと巻きの寝具、屎尿用 のバケツ、食事用品のためのコーナーの棚、手回り品、掃除用具一式、そして聖 書。屋外に出るときは、他の収容者と連絡を取ることが出来ないようにマスクを 着けられました。品行不良があれば懲罰独房に入れられ、暗闇と静寂の中で最高 30日間パンと水だけで耐え忍びました。運動は一人だけで行ない、チャペルでは 個人ブースに入って立ち、仲間から遮断されました。 収容者の心身の健康は医療職員たちが観察しました。この制度においては精神 的な挫折の事例は残っていません。そのような診断を確定することはまず不可能 なことでした。どの囚人も仮病を使っていると考えられていたからです。しかし、 ポートアーサーの分離型の制度と共通点の多い現代の刑務所ではそのような挫折 は実際に起きているのです。 1895年の山火事で建物の殆どが消失しました。20世紀の半ばに各区画が再建され ました。

見学のポイント

人目を避けて これまでの木造コテージに替わって市民 の街が作られ、この街をふさわしい宿泊 施設として派遣行政官、上級外科医、ロ ーマカトリックの司祭、次席医療技官、 主計官、そして英国教会の教区牧師たち が宿泊しました。このおかげで彼らの私 生活は囚人たちの道徳的汚染、肉体的汚 染の及ばないところに高められました。 ガバメント・コテージには重要なビジタ ーたちが宿泊しましたが、その中には総督とその妻であるサー・ジョンとレディ ー・フランクリンがいました。 囲われたフェンスの範囲内で重要なビジターたちと居住者の家族たちがガバメン ト・ガーデンズに出て散歩することができました。この庭園については充分に調 査を重ねた上で再建が行なわれ、1860年代から70年代にかけての庭園と同じ外 観となるように復元されました。 市民の街の前にある役人の家庭菜園では 「我が家」の果物や野菜が全て栽培され、 退屈な配給品に対する嬉しい追加品となり ました。しかしこれらの庭園も人を罪に誘 いました。役人たちは法を犯して余剰の作 物を売りましたし、囚人たちは食料を盗ん で食べたり、闇市で取引したりしました。

チャペルに立ってください。何が見えるでしょうか? 無言独房に入って時間を過ごしてみましょう。何が聞こえるでしょうか? 16

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1 0 . 教会(1837) 神の仕事をすること

1 1 . 港と造船所(1834~48) ポートアーサー・ハイウェイ

矯正のメカニズムの中心を占める歯車は宗教が 担っていて、この地域では教会の建物が最高の 威容を誇っていました。ポイントプエルの少年 たちは装飾用の石造物や室内の建具類を生産し ました。大きい窓を一枚物のガラスで作りまし た。 毎日曜日にはだれもが教会(英国国教系)に出席 することになっていて、最高1100人の人たち が教会で参拝しました。建物の身廊には武装し た警備が配置され、その中で囚人たちは祈り、 世間の人たちはカーテン裏の左右にある一段と 高い木製の信者席に座りました。行儀のよい囚 人たちの聖歌隊が賛美歌を歌いました。説教で は従順にしなさい、悔い改めなさい、と皆に諭 しました。 受刑者の中でもカトリックの人たちは 結局、英国教会の礼拝に出席すること を拒みました。この参拝拒否の結果、 カトリック司祭とチャペルが整えられ ることになりました。教会の建物が奉 献されていなかったのでカトリックも それを使うことができたのです。

ポートアーサーと外界とを結ぶハイウェイの役目をしていたのは海でした。囚 人と必須補給品を乗せた船が入港し、また製造した商品を積んで、政府の店舗 や市場に向けて出港してゆきました。 兵站部倉庫の前にある埠頭には厚板、タイルや瓦、レンガ、石灰が積み上げら れ、船積みを待ちました。貨物を裁くクレーンの基盤を今でも見ることができ ます。 港は逃亡ルートにもなっていました。一つの厄介な出来事を例に取ると、司令 官ブースのホエールボート(昔は捕鯨用に使っていた両端がとがった細長いボー ト)の8人の囚人乗組員が海に漕ぎ出しました。司令官が一緒に乗っていないこ とに気が付いたのはその後のことでした。8人は4ヵ月後にニューサウスウェー ルズで捕まりました。

新しい植民地に向かう船 造船所では15年の間にデッキ付きの大型船 舶を16隻、小型オープンボート(甲板のない 舟)をおよそ150杯建造し、大型、小型の船舶 を多数修理しました。その多くは8本オール のホエールボートで、一般の輸送にも用いら れました。大型の船舶の1つ、レディー・フ ランクリン号は非常に良く建造されていたの で、1898年まで解体されませんでした。

1884年の火災で建物が焼失しました。 その後各区画の再建が行なわれていま す。

造船所のピーク時には70人の男たちが雇用さ れていました。技能のある人たちが常に不足 しており、ポイントプエルの少年たちを含めて多数の囚人たちがここで訓練を 受けました。ポートアーサーでは、囚人たちは造船所も船も建造したのです。 大英帝国の他の現場では囚人たちは造船所の掘削工事をしただけでした。

見学のポイント

見学のポイント

教会に入ってタワーの西面を見上げてください。 石の色が変わっている理由は何だったのでしょうか? 18

この敷地に平らな場所が見えますか? この小冊子にある地図を使って、 ここに何があったのか、確認できるか調べてみましょう。 19

1 3 . ポイントプエル少年刑務所

1 2 . 死者の小島

(1834~49) 「安全にして乱されることのない休息場所」

「ずるくて下劣な重犯罪者たち」 アーサー総督、1833年

マントン牧師、1833年

ここは大英帝国での最初の少年刑務所 でした。年長者たちの堕落から少年たち を救い出し、将来に役立つ技能を与え ることを目的としていました。9歳から 17歳までの少年たちが15年間に3,000人、 ポイントプエル(奴隷岬)を通過してゆき ました。その多くは英国のスラム街か ら来たストリートキッドたちでした。 収容施設はすし詰め状態で荒れ果てていました。少年たちは互いにいじめ合った り、職員を襲ったりしました。盗めるものは何でも盗み、大勢が逃げ去りました。 教練や刑罰は情け容赦ありませんでした。ささいな違反に対して少年たちはとて も小さい懲罰独房に入れられて、パンと水だけで何日も過ごしました。しかし行 儀のよい少年たちは靴作りなどの職を教えてもらいました。

ここには約1100名の人たちが埋葬されています。死んでからでさえ、厳格な社 会序列が維持されていました。島を2つに分けて低い方が囚人や精神異常者、病 弱者、貧民に充てられました。高い方の土地は市民や軍人の埋葬に確保されま した。囚人たちと兵士たちの死亡原因は労働災害、あるいは肺炎などの病気でし た。女性は一般に出産で死に、子供たちは百日咳や麻疹(はしか)などの病気が原 因で、老人たちは卒中や心臓病が原因で亡くなりました。

チャペルや教室では、疲れ切ってお腹の減った少年たち最高800人に読み書き、 算術を教える試みがなされました。読本として、また宗教的な教示のために聖書 が用いられました。最初の数年間は遊びの時間が与えられましたが、やがて廃止 されました。 少年たちの中には順調な専門職に進む者もい ましたが、多くは卒業して成人の囚人システ ムに進級し、その後は福祉施設に進みました。 この基地は1849年に閉鎖され、その後は若い 犯罪者たちは英国の刑務所に入ることになり ました。 今日の若年者拘置所(少年院)にポイ ントプエルの影響を見ることができます。

この島に住んでいた一人の墓掘り囚人は花を栽培していましたが、あるとき「こ の土から出来た野菜は私には食べられません」と言いました。

見学のポイント

見学のポイント 死者の小島のウォーキングツアーのご予約はビジターセンターで、 あるいはモーターボート、マラナ号に乗船中になさってください。 20

ポイントプエルのウォーキングツアーのご予約はビジターセンターで、 あるいはモーターボート、マラナ号に乗船中になさってください。 21

1 4 . 廃墟の中で...カーナーヴォン 以降

1 5 . ポートアーサー・ メモリアルガーデン 1996年4月28日の日曜日、ポートアーサー・ヒストリックサイトにおいて一人 のガンマンが35人の人を殺し、さらに数十人の人に傷を負わせました。この男 は捕らえられ、裁判で有罪と申し立てられました。彼は保釈なしの終身刑投獄 を言い渡されました。 この衝撃的な犯罪の余波を受けて、いくつかの種類の銃を規制する厳格な法律 が連邦議会を通過しました。 この記念庭園は実に美しく、穏やかな黙想の場所となっています。ここで私た ちはあの惨劇を思い起こし、多数の犠牲者を忍ぶことにいたしましょう。

1877年にポートアーサーが閉鎖された後、廃墟の中で一つの町が大きくなりまし た。新しくカーナーヴォンと名付けられ、「嫌われた汚点を消し去ろう」との試 みがなされましたが、あの嫌われた汚点がなんと、立派なビジネスに変わったの です。ツーリストたちがこの史跡に集まって、囚人生活の恐怖を間接的に体験し たくてたまらない、と言うようになったのです。 1920年代までには多数のカーナーヴォ ンの人々が観光事業の経営者になってい ました。カナディアン・コテージとか警 察官の邸宅、パット・ジョーンズ・コテ ージのような新しい建物もいくつか出 現し、増えてゆく人口に対処する家とな りました。20世紀初期でのその遺産価 値のために、政府は史跡を再開し始め、 1971年にはこれが国立公園となりまし た。 22

23

きっとご満足 いただける味! フェロンズでは、質にこだわります。素材については、タスマニアの生産者 から厳選されたものだけを仕入れております。可能な限り、タスマニア半島 の生産者から直接買い付け、お客様にポートアーサー地域独自の味をお楽し みいただいております。

フェロンズで、最高級のタスマニア産シーフード、ビーフ、ゲームミート(狩 猟肉)をご堪能ください。全品とも、当地の市場向け菜園・果樹園からとれた ての野菜、フルーツを付け合せとして、タスマニア半島産ハーブで香り高く 仕上げております。 また、とびきりのパン、ペーストリー、最高品質のタスマニア産ワインを主 とする数多くのワインも用意しております。オーストラリアで最も古い囚人 施設跡内で、素晴らしいランチやディナーをお楽しみいただける全てが揃っ ています。 フェロンズ・レストランは、ポートアーサー史跡ビジターセンター内にあります ■ 定休日: 無休 ■ 酒類ライセンスあり ■ 冬季営業時間: 午後5時 8時 ■ 夏季営業時間: 午後5時 9時 ■ ヒストリック・ゴーストツアーにあわせてご予約いただけます。

P HONE: 1800 659 101 24

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