Eric John Cunnigham
エリック ジョン カニングハム 京都大学人類環境学大学院 ハワイ州立大学文化人類学科
王滝 村にお ける資 源開発 とラン ドスケ ープの 変遷に 関する 考察 ※ランドスケープ(landscape) 社会学上の概念で「自然と人間の社会などを一体的に捉えた自然-社会環境、自然-社会構 造」の意。短かい適当な和訳語を見出せないので本文では、そのまま「ランドスケープ」と表 す。…・・ (訳者注 )
今日、日本の中山間地方の多くは憂慮すべき深刻な状況下にある。急激な人口減少、投下 資金の不足に加えて政府の地方政策から少数意見がゆえに置き去りにされている点である 地方行政の効率化、簡素化を旗印に中央官僚の手によって進められてきた市町村合併施策 により多くの地方自治体が近隣市町村と合併した。合併を望まないか、もしくは出来ない市 町村は将来に向けての自立の道を見出すまで自前の行財政力の範囲内でしか住民に基本的 で主要な公共サービスが提供できない形のまま(中央政府から)置き去りにされている。この ことは中山間田園地域の環境や社会システムがいとも簡単に壊れてしまうような脆弱な政 治-経済的立場に置かれていることを示している。近代日本において資本主義生産体制の 中で地方からの物的、人的両面の資源収奪が普遍的に行われるようになり、(都市と地方とい う)非対称の関係が歴史上に出現することとなった。 この小論文は筆者が王滝村という1山村で 2007 年の 10 月から研究のための調査で集め た資料に基づくものだ。村における資源開発の歴史の概要を簡単に説明するとしたら「王滝 村の自然--社会環境の変遷は物質的にも観念的な意味においてもその自然-社会的資源の 移り変わりの中に見ることができる」というものだ。更に(踏み込んで)言うと、この変遷 (の実態)は人間と自然との長い関りの歴史の中で形づくられてきた王滝村の社会 -自然環 境が今後も長期にわたって存続出来るか否かという命題と密接に関係しているということ だ。筆者は王滝村のような(小さな)社会が消えていくような空前の環境変化が今、日本で起 こっていると考えている。結論的には、(王滝村のような)社会-自然環境を今後もより良く 保持していくためには、全く新しいイデオロギー、社会、経済、地域の景観を再生する権限と 能力を備えた住民による政治体制などが新しい解決策の出発点になるだろうということに なる。
王滝村における資源開発の歴史は、都市部には(地方からの)物資や素材が豊富に還流しなけ ればならないとする価値観の外部圧力によって村自体が物質的にも観念的な意味でも地域 資源(の場)として(その影響を受け)再編を繰り返してきたことだ。しかしながら王滝 村のランドスケープは住民の価値観とは全く無関係に形成されてきたと言うつもりはなく 王滝村の資源開発はランドスケープの内と外、両サイドの人間にとっての本質的な価値が 巧妙に隠されたまま(何度も)手が加えられてきたものだと筆者は論ずるものだ。資源活 用に関する短期 (近世)の歴史の記録は王滝村のランドスケープの変遷過程を解明する上で 有用だ。 王滝地域(木曽)における大規模な資源開発 (木材の大規模伐採 )は豊臣秀吉が犬山城のよう な 記念碑的な建物群を建造するための木材確保手段として森林地帯を支配するようになった 16 世紀に始まった。江戸期に入り木曽山は(豊富な)木材資源ゆえに強大な力を持った権力 階級による支配を受けた。この時代には相当大規模な伐採も行われたことも確かなようだ が木材資源枯渇を防ぎ将来の木材を確保するために、植林技術もまた進歩した。 1989 年 Totman の生態に関する学術調査報告によれば当時、森林再生の樹種には広葉樹より丸太生 産に有利な松科の苗が用いられたようだ。こうして(針葉樹と広葉樹が混った)天然林か らヒノキやサワラ(※両者とも cypress-西洋イトスギの仲間)や後年にはカラマツ(larch)が ほとんどを占める人工単一林へと長期間にわたる転換の営みが始まることになる。 1868 年に明治天皇への王政復古(明治新政府の発足)に伴い王滝村の森林の大部分は皇 室資産となった。森林規制は地元住民の林野利用に対してより窮屈で厳しいものに強化さ れた。1889 年の 12 月初旬には木曽谷に森林経営のほか不法伐採を取り締まる目的で森林 行政事務所(帝室林野局木曽分室)が置かれた。新政府によって木材資源は国家近代化プ ロジェクトの主要資源として位置付けされた。結果として王滝に限らずいたる所で大規模 開発が始まった。1913 年には奥山の大量の木材資源を取り出すため、木曽谷において森林 鉄道網の敷設工事が始められた。(1998 森下資料) 王滝での大規模伐採は終戦まで続いた。「はげ山」と呼ばれる全伐採により裸状態になっ て しまった林地は戦後に樹立された日本の民主政府に林野庁や他の林野行政事務所の発足や (拡大造林など具体的な)林野施策に影響を及ぼした。森林再生事業は植林を継続的に実 施していくための樹種を確定しないままに(ともかく)優先して実施されるようになった 針葉樹の単一林は動植物の生息環境の破壊、不安定な里山環境、生物種の減少など生態系全 体に悪影響を及ぼす(ことが知られている)が、長野県では根が浅く生長が極めて早いカ ラマツが県内全域に植林された。
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その木材資源の豊かさに加えて、御嶽山の南東斜面の深い峡谷地域に位置する王滝村は、ま た水資源にも恵まれている。それゆえ村には二つの大きなダムが立地する。その一つの三浦 ダムは 1945 年に完成した水力発電ダムで関西地域に電力を供給している。二つ目は名古屋 都市圏、愛知県、岐阜県の各地域に飲用水と農業用水を供給することを目的とした愛知用水 総合計画の一環として 1961 年に完成した牧尾ダムである。このダム建設により 137 戸 645 人の住民が移住を余儀なくされ、 247 ヘクタールに及ぶ農地や貴重な景勝地が水没し た。この二つのダムの合計貯水量は 1 億3千 7 百 21 万 6 千トンに及ぶ。 王滝村からの自然資源の大がかりな収奪に加えて、この地域の労働力(人口)は著しく減 少してしまった。日本の近代化が王滝村のような地方社会が直面している過疎という深刻 な危機を引き起こす構造的変化をもたらしたことはほぼ間違いないことだ。だとしても筆 者は人的資源(労働力)という概念を資源(の利活用)という定義の中で一括りにして等 しく論ずることについてはいささかためらうものだ。日本政府は最初に自国の地方の労働 力を総動員しながらやがては中国、韓国の植民地化の途へと進んでいく。それと対照的な 20 世紀後半の明らかな余剰労働力に対する政策はそれが非生産的で極めて破壊的な結果をも たらすことになったが(政策自体は)無計画でずさんなものだった。1940 年から王滝村の 人口は 78%減少し、現在は 986 人になっている。しかしながら、このような人口偏差をもた らす主因を特定することはなかなか難しい。主な要因は地方における教育機会の不足に象 徴されるような硬直した日本国家の教育体制であることを多くの王滝村の住民が示唆して いる。そればかりでなく高条件の雇用の場が大都市に集中していることは田舎における産 業の少なさを物語っている。このような人口分布の大きな偏差は王滝村のような小規模社 会の存続の危機を招いていることは今更言うまでもない。 私としては王滝村のランドスケープが(人間が)描き、具体化し、考察する過程でその具体 的な環境として変化を遂げてきた資源開発の歴史を通して資源開発と利用の原型はあくま でも日本の国家的な経済政策のパラダイム(※思考の枠組み)の延長線にあるものだとい うことを指摘しておきたい。更に言うと、このランドスケープ資源の変化が歴史的、文化的、 生態的、その他の価値的にすべて(が関係した)一連のものとして深く埋めこまれたもの であることが分り難くなってしまっている。それを明らかにするためには日本の国家的な 経済施策が目指すところを(きちんと)検証することが必要であると私は主張するものだ このようなランドスケープに置かれている地方社会では人々が国家に対して社会的、政治 的、経済的に何かをきちんと要求できる機会が失われていると論ずるものだ。更には王滝村 のような地方社会についての環境生態学上の見地からは「今まさに人間社会そのものや人 の社会的行動パターンのような社会環境が歴史の永い時間経過の中にしばしば見られる貴
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重な自然環境が消滅の道をたどったような極めて深刻な変化のうねりにさらされている。 」 という報告がある。(フカマチ 2001 市川 2006 資料) 王滝の自然景観は、実利主義者の論理のもとで資源開発という具体行為の中で変化してき た。たとえば森林資源は木材収穫の最終到達点として、ある時伐採され、多様な機能が知ら れている混交林から、しばしば松科樹種がほとんどを占める単一機能林へという普遍的な 林業常識によって再び補給されることになる。生態系への影響は明らかだとしても、これま でに王滝村の森林がどのぐらい(単一林に)転換されてきたのかを正確に知ることは難し い。一例として多くの資料提供者が彼らの若い時分に較べると野生動物による(農林業) 被害がかなり増加していると述べている。食べ物を探す動物を村落近くまで導くことにな った原因は林相の転換によって動物の生息適地が減ったことを物語っている。山林所有者 で生まれてからずっと王滝に住んでいるKさんは次のように述べている。 「本当のところは山に餌がないから動物達が村里に出て来るんだよ。 そうだろ。そんでもって奴らは一度美味い食い物の味を覚えてしまったか ら、またぞろ出て来るって寸法だよ。なあ。人間が(そのことを)どう 考えるとかって問題じゃなくてさ、そういう仕組みに置かれているから 奴らは出て来るってことさ。まあ、こいつは俺だけの考えかもしれんが、 山に木を植える時に(将来)材木として金になる木ばっか植えたってことさ。 金にならない木は植えなかったってことになるが、分るだろ……(実際の ところ政府のお偉方は)色々な種類の木を植えるようにしたかい? そうさ、俺はずっとそんなことを考えてきたんだがね。 自然の持つ力とか自然の再生についても人間は自分流に気に入ったことし かやらないものだからね。だからそいつを(人間が)成し遂げられる道があると は到底思えんね。」 (5/21 08 個人面談) 確かに幾つかの野生生物はマカク(※カニクイ猿の仲間)の大群が農耕地を利用する例の ように(新しい)生存形態に馴染むことができる。(泉山 2003 参照) このような木材生産の形態は、また森林の細分化や結果として種の多様性が総体的に失わ れるような形で森林生態の単純化をもたらしている。(飯田,ナカシズカ 1995) さらには、(森林の単純化という)この現象により王滝地域のほとんどの林地は日本の気 候の恩恵である季節雨(※梅雨)を(保水し安定)供給して全ての植物を潤すには力不足 の状態にある。ハゲ山から流れ出す雨水の増加は王滝の河川機能に(下流へと)順を追っ て悪影響を及ぼしていく。住民の何人かから、王滝川の魚量の変化について語られている。 一例として、王滝村にずっと住んでいて熱心な釣師でもあるTさんは次のようにコメント している。 「そう、川は昔とは随分変わったね。君が言った変化という意味で思いつくのだが、ど
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っちにしろ水辺の植物のことは俺は余り知らないんだが、例えば林道が出来て山腹に 平場がどんどん増えていくよね。そういった種類の話なんだが…ええっと…道路の 表面のことさ。どう言ったらいいのかな…そう、砂利や砂の類がどんどん川に流れ込 むのさ。分るでしょ。それで魚が住めない場所…ええっと…・魚が住む場所がどんど ん埋まってしまうようになったってことさ。」 (5/30 08 個人面談) 王滝村においてこれまでに最も大きく景観が変ったのは、おそらく三浦ダムと牧尾ダムだ ろう。このような二つの巨大プロジェクトは村の住人にとって文化的、生態的にまた経済的 に重要だった土地を電気や水資源を都市部の市場に供給するための開発によって完全に変 えてしまうことになった。この二つのダムプロジェクトが地元住民とランドスケープにど の程度の衝撃を与えたのかを知ることはなかなか難しい。牧尾ダムの完成により水没した 小さな部落で生まれ育って、ずっと村に住んできたSさんが水源地域としての王滝村でダ ム建設が住民感情にどんな影響を及ぼしているかをリサーチする会合で語った言葉がある Sさんは彼が生まれ育った小さな部落がどんなに美しかったことか、また子供の頃の魚獲 りでは今はもう見ることの無くなった多種多様の魚に胸がどきどきした思い出をため息交 じりに語っている。彼はまた、沢山の種類の昆虫やカエルが生息していたことなども付け加 えた。(フィールドノート10/24 08) 牧尾ダム建設の金銭補償として王滝村に支払われた総額は 2 億 1 千万円であった。この当 時としては、村が通常の年間予算として必要な額の何倍にもなる膨大な金額であり、(余剰) 資金は山岳信仰で旅行客を集めていた御嶽山地の開発に向けられることになった。 王滝村の神聖な景観部分である御嶽山周辺の資源開発へ向けた住民と行政スタッフの決心 は(地元民の)観念的な転換を示すものだが、付随して物質的な変化も絡み合って起こる ことになった。※Bourdieu と他の研究者は人間が、自らが住み接している自然社会環境に おける自分達の行動習慣の規範として社会構造を創りあげたり改変したりするということ について、(何がそれを果たすのか)その役割について議論してきた。( Bourdieu 1977) 人間の行動習慣の全てにおいてその社会構造は、ランドスケープとして形づくられて、明瞭 になっている。これは自然世界の socializing(※社会化?)に分類できることかもしれな い(Bennett1976)別の言い方をすると、変化した有形のランドスケープは、その器の形 でそこに住む人々の生活を表している。この意味で言えば、具体的および観念的側面の両方 で人々の生活は、ランドスケープによって形作られる一方で、逆にランドスケープを形づく り、またその中に埋め込まれるようになる。(Ingold 1993)王滝村では(ランドスケー プの)物的及び観念的変化は、地元に暮らす人々の活力(活動)を心身ともにコントロー ルする役目を果たしてきた。一定範囲に区切られたランドスケープ(※国有林?)の転換、 変化が地域の社会活動に及ぼした影響がごく限定的なものだったこと、逆に言うと地元住
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民の社会-文化的(活動)空間が周囲の景観(※国有林?)に及ぼした影響がごく限定的 なものだったことについては,私達は一定の納得ができるものだ。別の言い方をすると、た とえ国有林の自然環境について意義深いものと考えようが、地元民の move through※浸 透力?)は弱いということだ。結論的には、人間と自然環境との関係力の衰退は、(人間の) 環境に関する知識や習慣の衰弱化を伴っているということになろう。王滝村において村土 の大半を占めている国有林との断絶した感情を住民が語っているが、前述したような事象 の徴候だろう。 ※Pierre Bourdieu(ピエール ブルデュー)フランスの社会学者 Ha b itus(ハビタス)を「歴史の生産物」とする概念。持続的に習得された過去の経験が 作用することによって、人は、起こる確立が高い実践を「可能なもの」 「すべきこと」とし て 選択し、起こる確立の低い実践を「不可能なもの」 「すべきでないこと」として排除すると い う理論。象徴的権力( pouvoir symboliqu が特定の社会の見方を押し付けて habitus の作用により支配するような例。……訳者注 インターネット資料
最初に王滝村に来て調査のために住民との接触を始めた頃、 「地元住民として地域の森林 に 関して何らかの要求をする権利があるのではないか?」という筆者の暗示に対して、住民か らは、しばしば怪訝な視線を受けた。 「何故なら周囲の森林は国有林であり 、(経営等に関する) 決定は全て村の外部によってなされ、地元民の生活とは何のつながりも持っていないでは ないか」と率直に問うてみたのだ。(フィールドノート 4/23 08) 地元民として国有林に対して経済メリットなどを要求する権利があるのではないかという 感覚が少なからぬ住民の間に有ることを発見し、少し掘り下げて言及してみても、また、、 木 曽山支配には (地元民が)関与すべきものは何一つ無いとの態度で長期にわたった過酷な支 配を象徴する「木一本首一つ」という有名な成句や王滝村域の森林(木曽山)における長い外 部支配の歴史をひも解くことにより、このような(部外者としての)感覚が時に弱まるとして も、筆者は (住民)がそのことについて余りにも多くを語らないことに深い興味を覚えた。さ らに別の言い方をすれば、地域の森林管理や統制から授かる地元利益がほとんど無いこと を意識している地元民の間には、この支配構造が彼らの現実の生涯を通じて正当化され (刷 り込まれ)、それを受容する感覚が生まれるということかもしれない。また、大変興味をそそ られることは、住民の間にある権利意識の薄さや(支配体制への)従順な受容感覚については、 [Totman 1989, ウシオミ 1968 ]の報告文献では否定的な見解が述べられていることや過 去の国有林管理は(今より)ずっと柔軟なもので、地元民はしばしば薪や建築材として使うこ とができたとする高齢の地元民の談話のことなどである。(個人面談 2008) 王滝村の森林景観が消えてしまったとする地元関係者の実感は、全国的な森林管理の官庁
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である林野庁及び木曾地域を管轄する (中部)森林管理局の内部資料の中に (その裏づけを ) 見ることができる。これらの官庁が作成している様々な計画書や広報文書では、その管轄下 にある森林について国土 (を考える上で)の必須要素である人間社会 -生物生態上からの観点 という複合した論点を加えることなく、 「国民」を単に「庶民」という一括りの中 に(おそらく 「煙に巻く」意図であろうか?) 位置づけた従来と変わらない行政論理の下できわめて扁平 で欺瞞に満ちた論議が展開されているからだ。また、国有林に囲まれたり、その周辺部に暮 らす人々の地域社会に言及することなく、(役所の管理計画等の)作成者は、人間と森林とい う相互作用を持つ事柄を自らが管理する森林の保水力とか資源循環のような単純な一方向 からの利用の観点からしか見ていない。王滝村のような社会 -生態的な意味での地域社会と その歴史は、地元民や地域に生息する全ての生物は(役所の)管理機構の一部分ではないこと をはっきりと示す必要性と、それが強く望まれていることを教えてくれる。別の言い方をす れば、森林資源は、すなわち国家資源であるという一側面の観点からのみ(森林を)管理し、乱 開発するような(時代錯誤の)官僚機構が未だに存在するということだ。
町村合併に失敗し、財政危機に直面している王滝村にあって住民のための地域資源を再生 し、そこからより大きな利益を得られる潜在的な可能性が(具体的に)現れ始めているという (一見して)矛盾するような現象のことを述べてみたい。王滝で暮らす間に筆者は住民の様々 な取り組みにより、これらの可能性が次第に成熟していく様子を(幾つか)見てきた。一例と して、王滝村の地域社会の生態環境的な現状を歴史的、文化的に考え、(今後の)方向付けをし ながら(住民の)リーダーシップを担う目的でグループが組織された。 「ずくだせ応援隊」と い う名のこのグループは各種会議、講演会の開催のほか王滝村とその自然環境をアッピール するためのイベントなどを企画実施した。このグループは過去の王滝村の地域社会につい て学び、その長所を更に増進していくことに努めているが、まさに「地域社会の再構築」(の 動き)と言っても良いだろう。 筆者は(ずくだそ応援隊の)オブザーバーとしての役割を通じて多くの収穫を得ただけで なく、王滝の住民自らが強い使命感を持って行動し、社会-自然環境をより良くしていくた めの新しい手段を模索しながら様々な取り組みを進化させている、このような地域社会を 見て(王滝村への)見識が改めて深まった思いがする。最優先の課題として、もっと多くの 住民の活動による組織強化が必要であり、次には地域住民が王滝村の自然環境の第一権利 者であることを(外部に)認識させることや(自然環境の)管理方針決定などに、より多 くの人々を参加させることが不可欠だ。これは数年では実現することが出来ない一つの理 想かもしれないが、理想を現実にするための方法を考え始めるには今が、その時だと思う。 結論的には村で暮らす若い住民やU.Iターンの人達の支援,奨励や新しい住民の誘致策 などにより王滝村の人口確保を図ることが最も大切だということだ。一つの方向と思われ
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ることは、住民がエコツーリズム(に代表される)のような親自然環境的な産業に着目し つつあることだ。とはいえ、筆者としては教育面での(計画や)実施に目を向けることも、 また必要だと提言したい。それゆえ筆者は現在、村の(小中)学校で、環境教育の果たす役 割について研究しており、生徒達とともにマップを造ることで、彼らの地域社会について更 にクローズアップする調査を進めている。 永い資源開発の歴史は王滝村の地域社会を筆者が地域資源と呼ぶ(全ての)ものを巻き込 む形で変えてしまったという結果を生んだ。この変遷は人口の減少,有力な産業の欠乏, 資金的な困窮に直面しているという(現実において)今や王滝村の村域全体の存続を脅か している。こういつた局面は、過去に体験したことの無いような激しい変化に(かろうじて) 耐えている王滝村の社会-自然環境の遠い将来にわたる存続(の困難さ)を暗示している ごく限られた期間のしかも文献上のリサーチ(を主とした)研究でしかないにしても、筆 者は、王滝村のような地域社会を考え、(健全に)運営していくにあたっては理念的、社会 的、経済的、政治(行政)機構的に全く新しい(条件)設定が必須であり、このことが(辺 境の地域社会が)未来へと健全に引き継がれる(唯一の)途であると論ずるものだ。現在 進行中である筆者のリサーチの方向は、王滝村の(切迫した)危機感が今まで(巧妙に) 覆い隠されてきた日本の近代化の中にある国家的なパラダイムという地域社会の(構造を 決定する)根本要素を住民が見つけ出し、修復し、再構築するという新しい行動を緊急に必 要としている点である。筆者は、このような努力を今すぐに始めることが王滝村の地域社会 を内的変化させる新しい筋道になり、このことが、もっと公平で環境に優しい未来を約束す るといった良好なサイクルの始まりになることを切に望んでいる。 参考,参照文献リスト… ・・省 略 訳者あとがき エリックは何する人ぞ? 私の問いかけに「参考に」と、このリポートをもらったのは去年の秋 口だったと思う。世間話と季節の肴でたまに一杯やるだけの仲だし、せいぜい中学生程度の英 語力の身としては、小論文とはいえ8枚もの英文を律儀に読みきる気など始めから無かっ た。 「ちょっとだけ」のつもりで見た1ページ目から過疎、町村合併、中山間地の社会問題など が 出てきて、つい好奇心をあおられてしまった。色んな用例もいっぱい出ていてしごく便利な今 風電子辞書であればビールを飲みながらでもおぼろげには意味が掴めるもので、時たま、ヨロ ヨロと読み進むうちに論文の本旨は別としても「ほう、ガイジンというものは、こんな考え方を するものなのか」 「ありゃー、こんな簡単な字句にこんなとんでもない意味もあるわい」と実 に 新鮮な気分になれた。何のためも意味もないが、 「とにかく誰の手も借りずに完走した」こと が エライのであって、少しぐらいというか大々的な誤訳があってもとりあえず誰かに迷惑をかけ
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ることは無さそうだし「まあ、いいか」とした。 エリック君は一応キョーダイでドクターコースであるからして頭はいい。(らしい)何より人 間がいいのが良い。礼儀正しい、大人の常識をわきまえている、感性鋭い。その辺のアンちゃん よりよっぽど日本人的な好男子だ。この文は間抜けな迷訳文モデルとしてどこかで採用される かもしれないが、少なくとも彼がどんな学問をしているのか、王滝村が好きでどんな想いを抱 いているかについては解ってもらえるのではないか。 そんな想いから、興味のある方にはコピーを差し上げることにした。 09年6月 田中秀夫
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