[ ヘッセ_車輪の下.txt ] <TITLE>車輪の下
目次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
解説
年譜
あとがき
第一章
卸(おろし)商で代理店業者のヨーゼフ・ギーベンラート氏は、この町のほかの 連中とくらべてことさらすぐれた点やきわだった特徴をそなえているというわけではなか った。ほかの市民たちと同じようにどっしりとした丈夫そうな体格をし、熱烈なしんそこ からの金銭崇拝の心とは切っても切れない縁(えん)のある商才というやつも一応 はもちあわせ、庭つきの小さな家作を持ち、墓地には先祖代々の墓もあった。多少はひら けていたので、おもてむきの教会のおつとめのほうも底がみえていたが、それでも神様と お上(かみ)には適当に敬意を払い、市民生活の品位の基準である厳格な掟( おきて)には盲従するといったたぐいの人物であった。そういうわけで彼は、ときに相当 の酒をたしなむことはあっても、泥酔(でいすい)したことは一度もなかった。副 業にあまりほめられない仕事もやっていたが、おもてむきに許可されている限界を越える ようなことはなかった。自分より貧しい連中のことは「貧乏ったれ」とののしり、金持ち の連中のことは「お高いの」と悪口を言った。
町民有志会の会員で、毎週金曜日には「荒鷲亭(あらわしてい)」で催されるボ ーリングに加わり、そのうえパン焼き日の行事の常連で、豚などを屠畜(とちく) したあとのシチュウ鍋やソーセージスープの試食会の席も欠かしたことはなかった。仕事 中は安物の葉巻きを吸うが、食後と日曜日には上等のを奢(おご)ることにしてい た。
彼の精神生活はまさに俗物的といってよかった。心情と呼ぶべきものは、もうとっくに うすよごれてしまい、習慣的な味気ない家庭意識やひとり息子を誇りに思う気持ち、気ま ぐれからたまに貧乏人に施しをするときの優越感などを除けばいかほども残らなかった。 彼の精神的な能力といえば生まれつきの狡猾(こうかつ)さと計算に限られ、それ を使うことも自分にきびしく制限していた。読むものといえば新聞だけ、芸術を楽しみた いという欲求ときたら町民有志会で毎年おこなわれるアマチュア芝居と、それにたまのサ ーカス見物ぐらいで、もう癒(いや)されてしまうのであった。
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[ ヘッセ_車輪の下.txt ] もし彼が、だれでもいい隣の男と名前や住居を交換したとしても、別になんの違いもな かっただろう。いっさいのすばらしい能力や人物に対しては決しておさまることのない不 信の念を心の奥底に宿し、日ごろみなれない、自分たちより自由で繊細で精神的なものだ と、どんなものにでもねたましさから本能的な敵意を持つ、こういう点でも、彼はこの町 のすべてのおやじ連と共通していた。
彼の話はこれでもうたくさんだ。この男のこうした平々凡々の生活と無自覚の悲劇をこ れ以上つづけて描写しても、喜んで耳を傾けるのはいじわるな皮肉屋ぐらいのものだろう 。しかし、この男には息子がひとりあった。この少年の話こそする必要があるのだ。
ハンス・ギーベンラートは天才的な子供であった。ほかの子供たちの間をかけまわって いてもひときわめだって品がいいことは一目見てすぐわかった。この小さなシュワルツワ ルトの町からは、かつて一度もこの子のような人種は生まれなかった。この狭い地域を越 えてものを見たり活動したりした人間は、これまでまだひとりも出ていなかったのだ。こ の少年が、その真剣なまなざしと利口そうな顔とそして優美(ゆうび)な身のこな しをいったいどこからさずかったのかは、だれにもわからない。ひょっとしたら母からの 遺伝だったのだろうか。母親は数年前に亡くなっていたが、生きていた時分いつも病弱で 苦しんでいたということ以外はめだったところはなにもなかった。父親の血は問題になら ない。とすると、まさに、八、九百年の歴史のなかでたくさんの勤勉な市民を世に送った が、いまだかつてひとりの才人、ひとりの天才も生みだしたことのないこの古い小さな 田舎町(いなかまち)に突然不思議な火花が天から降ってきたということになるだ ろう。現代的な思考法を身につけた観察者なら、母親が弱かったことと家系が相当古いこ とを頭において、知的な因子(いんし)が家族の一員に突然強くあらわれたことを 、この家系に頽廃(たいはい)の徴候が始まったのだと説明したかもしれない。し かし、ありがたいことにこの町にはこういう現代的な人間はいなかった。なにしろ役人や 教師たちの間でさえ、若い世代の連中や世事に抜けめのない者だけが、雑誌の記事などで 「現代人」という存在のあいまいな知識を得ていた程度なのである。なにもツァラトゥス トラの教えを知らなくても学のある人間として暮らしていけたのだ。離婚はほとんどなく 、しかも幸福といえる結婚が多かった。すべての生活様式は癒(いや)しようがな いほど旧態然としていた。ぬくぬくとして裕福な市民たちは――そのなかにはこの二十年 のあいだに手職人から工場主になり上がったものもいるが――官員(かんいん)さ んの前では帽子をとっていかにも交際してもらいたいような様子をみせながら、仲間うち では官吏のことを貧乏ったれとか下っ端役人とか呼んでいた。そのくせおかしなことに、 自分たちの息子にはできれば学問をさせ、官吏にしたいというのが彼らのなによりの野望 であった。しかし残念ながらいつもその望みはかなわぬ甘い夢に終わったのである。なぜ なら、彼らの後継ぎでは、たいていは大汗かいて何度も原級に止め置かれたすえ、ラテン 語学校を出るのがやっとだったからである。
ハンス・ギーベンラートの才能について疑うものはだれもいなかった。先生も校長も、 近所のひとたちや町の牧師や同級生も、だれもかれもこの少年はすばらしく頭がよくて、 どこかひとと違っていることを認めていた。この子の将来はこれではっきり決められたよ うなものであった。というのは、シュワーベン地方では頭のよい子供には、両親が金持ち でない場合でも、たった一すじだけは道が開かれていたからだ。州試験を受けて神学校へ はいり、そこからテュービンゲン神学大学へ進み、さらには教会の説教壇か大学の 講壇(こうだん)に立つ道である。この地方の息子たちは、毎年四、五十名は、こ のめだたない堅実な人生行路を歩みだすのである。激しい勉学のためにやせこけた、 堅信礼(けんしんれい)を終えたばかりの十五、六歳の少年たちは、州の費用で 人文学(じんぶんがく)に属するいろいろな課目をおさめ終わると、八、九年後に は生涯の大半に当たる第二の人生の道を歩み始める。この間に州の恩恵で得た給費を返還 してゆくことになるのだ。
もう二、三週間もすると、例の「州試験」が行なわれることになっていた。「国家」( 州)が国内の抜群なあたまの持ち主を選びだす毎年の「いけにえ選び」はこういう名で呼 ばれていたのである。試験の期間中は、小さな町や村々から、自分たちの息子を送り出し ているたくさんの家族たちの嘆息(たんそく)や祈りが、この試験の行なわれてい る州の首都に向けられるのである。
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[ ヘッセ_車輪の下.txt ] ハンス・ギーベンラートは、この小さな町がそのつらい競争試験に送り出そうとしたた だひとりの候補者だった。名誉は大きかったが、彼がその名誉を何もせずに手に入れたな どとはもちろんいえない。毎日四時まである学校の授業のあとで、校長のギリシア語の特 別授業が続いた。六時になるとご親切に牧師がラテン語と宗教の補習をしてくれ、それに 週二回は夕食後、数学の教師の家で一時間勉強をみてもらった。ギリシア語では不規則動 詞と不変化詞(ふへんかし)で表現される多種多様の文章の結合形に力がそそがれ たが、ラテン語では問題になるのはもちろん作文の文章が簡単明瞭なことである。だから たくさんの韻律の美しさを知ることが大事だった。数学のポイントは複雑な比例方程式だ 。こんな数式なんかちょっとみると、将来の勉学や生活にはまるで役にたたないようだが 、じつはあくまでそうみえるにすぎないのだ、と先生はよく強調した。じつはこういうも のはとても重要なものである。主要科目よりずっと重要だといってもいいくらいだ。なぜ なら数式こそ論理的な能力を養い、すべての明解な、合理的で成果のあがる思考の基礎に なっているからである。
しかし、こんなことばかりして精神的負担が過ぎないように、そして頭の訓練のあまり 情操のほうがおるすになったりしないように、ハンスは毎朝学校の授業の始まる一時間前 、堅信礼を受ける少年少女たちのための聖書の授業に出ることを許されていた。この時間 に、ブレンツの宗教問答を行なったり活発に暗記をしたり問答を唱えたりすることを通じ て、若い少年たちの胸にすがすがしい宗教生活の雰囲気がしみこんでいくのであった。だ が残念ながら、彼はこの新鮮な時間を割愛(かつあい)し、神の恵みを自分からと りあげてしまった。つまり、彼はこっそりと問答書の中にギリシア語やラテン語の単語と か練習問題の紙きれを入れておき、この一時間のほとんどを世俗的な勉学にあてていたの だった。それでも良心のほうはそれほどにぶっていなかったので、絶えず苦しいうしろめ たさとひそかな不安を感じていた。監督牧師が彼のそばへ近づいたり彼の名前を呼んだり すると、彼はいつもおじけづいてびくりとした。彼が答えをする破目(はめ)にな ると額に汗をかき胸がどきどきした。しかし答えのほうは文句のつけようもないほど正確 なものだった。しゃべり方も正しかった。そしてこの牧師はしゃべり方を重んじる人だっ たのである。
習字や暗記、復習や予習の勉強は、昼間のうち、いろいろな課目ごとにたまっていった 。それを家へ帰ってから夜おそく、落ち着いたランプのあかりのもとで片づけるのであっ た。静かな、家庭の平和に包まれてする勉強はとくに効果的で進みもはかどると担任の先 生がうけあってくれた。ふつう火曜日と土曜日は十時ぐらいまででやめておいたが、ほか の日は十一時、十二時、ときにはもっとおそくまで続けられた。
父親は、ランプの油を途方もなく使うことをこぼしはしたが、満足な誇りをもって息子 の「学問する」ありさまを眺めていたのである。そして時折りの暇な時間や、人生の七分 の一にあたる日曜日には学校で読まない書物を読み、文法の復習をやることをしつこくす すめた。
「もちろん適当にな、適当にやっとくんだぞ! 週に一、二回の散歩は必要だし、よくき くもんだ。天気のいい日には本をかかえて外へ出るといい――外の新鮮な空気の中だった ら勉強も気持ちよく楽しくできるってことがよくわかるよ。大いに胸を張ることさ!」
ハンスはできるだけ胸を張っているようにし、そのときからは散歩も勉強に利用するよ うにした。夜ふかしでやつれた顔をし、青い隈(くま)ができた疲れた目をして、 人目につかないようにそっと歩きまわった。
「ギーベンラートのことはどうお考えですか、通るでしょうね?」とあるとき担任の教師 は校長に言った。
「通るとも通るとも」と校長はうれしそうな声をたてた。
「あれはまったく利口なやつじゃないか、まああの子をみてみたまえ、まったく精神だけ で生きとるように見えるじゃないか」
試験の前の最後の一週間のうちに、この精神化現象はますますはっきり形をとってあら われてきた。かわいらしくてやわらかい少年の顔には、おちくぼんだ、落ち着かない目が - 3 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] 陰気な炎となって燃えていた。きれいな額(ひたい)には瞬間的に、精神的である ことを物語る細かいしわが見えることもあった。そしてもともとほっそりとしてかぼそか った腕と手がだらんと下がっているところは、ボッティチェリの絵にある倦怠(け んたい)の優雅という風情(ふぜい)があった。
とうとうどたんばになった。明日は朝早く父親とシュトゥットガルトヘ行き、そこでは たして自分は神学校の狭き門をくぐる資格があるかどうかを州試験の結果で示すことにな っていたのだ。たった今、彼は校長先生のところでお別れの挨拶をいってきたところであ った。
「今夜は」とおしまいに、みんなからこわがられている校長はいつになくやさしく言った 。「これ以上勉強しちゃいけないぞ。わたしに約束したまえ。あすは張り切ってシュトゥ ットガルトに行かなきゃならんからね。もう一時間散歩をしてそれから早めに寝たまえ。 若い者は眠らなきゃいかんぞ」
ハンスはびっくりした。山ほど忠告をされるかとびくびくしていたのに、こんなにたっ ぷり好意をうけたのだ。ほっと息をついて官舎を出た。大きなキルヒベルクの菩提樹が午 後の暑い日ざしをあびてけだるく輝いていた。町の広場では二つの大きな噴水がぴちゃぴ ちゃと音をたて、きらきらと光っていた。不規則に家々の屋根の連なる線の向こうに、近 くの青黒くしげったモミの木の山が迫ってきた。少年はこういう眺めをもう長いこと見な かったような気がした。そして今は、なにもかも不思議なほど美しく魅惑的にみえた。頭 が痛むけれど、今夜はもうこれ以上勉強をしなくてもよいのだった。彼はぶらぶらと広場 をよこぎり、古い町役場の前を通りすぎ、市場小路をぬけ、刃物鍛(か)冶( じ)の前を通って、古い橋のほうへ歩いていった。しばらくそのへんを歩きまわって最後 に幅の広い川べりの胸壁(きょうへき)の縁(ふち)に腰をおろした。何週間 も何か月ものあいだ、毎日四回はきまってここを通っていた。それなのに橋のたもとにあ るゴシック風の小さな礼拝堂にも、川にも水門にも堤防にも水車場にも一度だって目をく れたことがなかった。水泳のできる川べりの草原や、柳が立ちならび皮鞣場(かわ なめしば)が並んでいる川岸にさえ気をつけてみたことがなかった。そのあたりは川が湖 のように深く緑色をして静かで、柳の枝はたわみ、そのとがった先が水の中までたれ下が っていた。
今になって彼は思い出した。半日、いや、まる一日をどれだけここで過ごしたことだろ う。幾度ここで泳ぎ、もぐり、舟を漕(こ)ぎ、釣をして遊んだろう。ああそうだ 、釣だ。釣なんか勉強のためほとんどしないのですっかり忘れてしまっていた。去年、受 験勉強のために釣が禁じられたとき、あんなにひどく泣いたじゃないか。釣。釣こそ長い 小学校時代の最も楽しい思い出だった。柳のほそい木陰に立つと、近くの水車場の 堰(せき)では水がざわめいている。深い静かな水。流れにうつる光のたわむれ。 長い釣竿がかすかに上下する、魚が餌に食いつき竿(さお)をひくときの興奮、そ して肉のついたぴちぴちはねている冷たい魚を手にしたときのくらべようもない喜び。
彼だってよくいきのいい鯉(こい)を釣り上げたものだ。ウグイやニゴイも、ま た小さなコイ、美しい色のヤナギバエも釣ったのだ。長い間彼は水面を見つめていた。緑 色の川の一隅をじっと見つめているうちに、いつか彼は考えこんでしまい、悲しい気分に なり、乱暴で気ままな美しい少年の喜びが遥か遠くに去ってしまったように感じられてき た。機械的に彼はポケットからパンのかたまりをひっぱり出すと、大きいかたまりや小さ いかたまりに丸めて水に投げこみ、水の中に沈んでゆくのを眺めたり、魚がきてぱくりと それに食いつく様子を観察していた。はじめは、小魚どもが集まってきて小さなかたまり をむさぼるようにすっかり平らげてしまい、そしてまだものほしそうな口先で大きいかた まりを左右に突っつきまわしていた。そのうちに一匹の大きなウグイがゆっくりと用心深 く近づいてきた。黒くて広い背は川底よりいくぶんきわだっていた。悠々と大きなパンの かたまりをひっくり返すと、あっと思うまに丸い大きな口をあけてそいつをのみこんでし まった。ものうく流れていく川からは湿っぽくなま暖かいかげろうが立ちのぼり、明るい 雲が二つ三つ緑色の水面にぼんやりと映っていた。水車場では円(まる)鋸( のこ)がぎいぎいとあえぐような音をあげ、水車にとりつけてある二つの堰(せき )は、涼しそうに低音の水のざわめきをひびかせていた。少年は、ついこの間の堅 信礼(けんしんれい)が行なわれた日曜日のことを思い出した。あの日は厳(おご - 4 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] そ)かな儀式と感動のさなかにいながら、頭の中でギリシア語の動詞を暗記している自分 に気がついて、はっとしたのだ。最近はそれだけでなくいろいろな思いが入り乱れて、学 校の授業をうけていてさえも、目さきの勉強よりもむしろ前のことや、あるいは後のこれ から先のことに気をとられてしまうのだった。なあに、試験はなんとかうまくいくだろう さ!
彼はぼんやりと立ちあがったがどこへ行くというあてもなかった。がっしりした手で肩 をつかまれ、親しそうに話しかけてきた男の声をきいたとき、彼はひどくびっくりした。
「こんちわ、ハンス。すこしいっしょに歩かないか?」靴屋の親方のフライクだった。以 前はよく彼の家で夕方何時間かを過ごすことがあったが、このところそういうことはつい ぞなくなっていた。ハンスはいっしょに歩きながら、この熱心な敬虔派の信者(ピ エチスト)のおしゃべりにあまり注意も払わずに聞くともなく聞いていた。フライクは試 験の話にも及んで、成功を祈り少年を勇気づけてくれたが、ほんとうのところはこの話を お説教にもっていくのが彼の目的であった。試験なんて外形的で偶然なものにすぎないの さ。試験に落ちるということは決して恥ではないし、いちばんできるやつだって落ちるこ ともあるんだ。もしそんな目にあったときには神様がめいめいの人間に応じて違った 思召(おぼしめ)しを持っておられ、その人本来の道へ導いてくださっているって ことを考えてみるんだね、と彼は話を結んだのだ。
この人と相対していると、ハンスはなぜか良心がやましいような気がしてくるのだった 。彼を尊敬し、いかにも自信ありげで立派そうな彼の生き方に敬意を払ってもいた。しか しハンスは世間の人々がこうしたコチコチのお祈り屋を冗談の種にするのをきいていっし ょになって笑うこともあった。そういう時、良心のやましさを感じることもまれではなか った。まだほかにも自分の卑怯(ひきよう)を恥じなければならないことがあった 。ある時期から彼は、遠慮会釈(えんりよえしやく)なくいろいろのことを尋ねら れるのでこわくなってこの靴屋を敬遠(けいえん)するようになっていたからであ る。彼が先生たちの自慢(じまん)の種になり、自分でもすこしお天狗(てん ぐ)になってからは親方フライクはときどき奇妙な目で彼を見たり、へりくだった態度を みせようとしたりするようになった。そのために、かえってこの少年の心はこの善意の指 導者からしだいに離れていったのだ。なぜなら、ハンスはちょうど少年の反抗期( はんこうき)の絶頂という年ごろだったので、いやな感じで自意識にふれるものにはひど く敏感(びんかん)になっていたからである。今も彼はこのお説教屋と並んで歩き ながら、当のその人がほんとうに親身になってやさしく彼を見おろしているのについぞ気 がつかなかった。
クローネン通りでふたりは町の牧師に出会った。靴屋は形式的に冷たく挨拶(あ いさつ)し、急にいそぎ足になった。この牧師は新思想の持ち主で、キリストの復活さえ も信じていないという評判(ひようばん)がたっていたからである。牧師はハンス をいっしょにひっぱっていった。
「どうかね」牧師はたずねた「やっと試験になってうれしいだろう」
「ええ、まったくそうですね」
「うまくやるんだよ。わたしたちはみんな君に期待をかけているんだからね。ラテン語じ ゃすばらしい成績をとると思っているよ」
「でも、もし落ちたら」とハンスはおずおず言った。
「落ちる?!」牧師はびっくりしてたち止まった。「落ちるなんて絶対にありえないさ、絶 対にない。思い過ごしだよ!」
「僕はただ、ただそういうこともあるかもしれないと思って……」
「そんなことはありえない、ハンス。ありえないんだよ。そんな心配はいらない。パパに よろしくいっておくれ。頑張(がんば)るんだよ!」
ハンスは牧師を見送った。それから靴屋のほうをふり返ってみた。靴屋はなんと言った っけ。心を正しくもち神様を敬(うやま)ってさえいれば、ラテン語なんかたいし たことはないだって。あいつ、きらくなことを言ってらあ。ところで牧師さんのほうはな - 5 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] んといってたかなあ。もし落ちたら、もうあの人には顔むけもできないぞ。
すっかり憂鬱(ゆううつ)になってこっそりと家のほうに帰りかけ、小さな、斜 面になっている庭へ戻ってきた。ここには、とうに使われていないくずれかけた園亭があ った。このなかに小さいころ、板がこいを作り、三年ほどウサギを飼っていたが、去年の 秋、試験のためにとり上げられてしまった。それ以来、気晴らしの時間がまったくなくな っていた。
庭にもずい分長いこと来なかった。空っぽの板仕切りの中はすっかり荒れはてていた。 鐘乳石(しようにゆうせき)をかためた壁の隅(すみ)も崩れ落ち、小さな木 製の水車もこわれて、水樋(とい)のわきに傾いたままになっていた。そういうも のをみんな自分で作ったり彫(ほ)ったりして楽しんでいたころのことが思い出さ れてきた。もうあれから二年になる――まったく永遠の時がたったようだ。彼はその水車 をとりあげてへし折ると、めちゃめちゃにこわして垣根の外へ放り投げた。こんなくだら ないものは捨てちまえ。もうとっくに用はなくなっているんだ。ふと、級友のアウグスト のことが頭に浮かんだ。アウグストは水車を作ったり、ウサギ小屋の修繕(しゆう ぜん)をするのを手伝ってくれたものだ。何度も、午後いっぱいここでいっしょに遊んだ っけ。パチンコをとばしたり、猫に罠(わな)をかけたり、テントをたてたり、お やつになまの人参(にんじん)を食べたりした。しかしそのうちに、とうとうガリ 勉が始まるときがきたのだ。アウグストは去年学校をやめて機械工の徒弟(とてい )になった。それ以来、彼は二度しか姿を現わさない。もちろん、彼にだってもうまるで 暇がないのである。
雲のかげがせわしく谷を越えてゆき、日はもうすでに山の端(は)近くまできて いた。少年は一瞬(いつしゆん)身を投げ出して、わっと泣かずにはいられないよ うな気持ちに襲(おそ)われた。しかしそうするかわりに物置から手斧(てお の)をもち出し、きゃしゃな腕で斧をふりまわして、板がこいを木(こ)っ端 (ぱ)みじんに壊しはじめた。木片(きぎれ)が散乱し、釘(くぎ)はきしん で曲がり、去年の夏ごろのもう腐りかけてきたウサギの餌(えさ)がなかから出て きた。彼は手当たりしだい、何もかもぶちこわしていった。そうすることで、ウサギやア ウグストや子供っぽいいっさいがっさいなつかしい思い出を抹殺(まつさつ)でき るとでもいうように。
「いやはや、いったいこれは何ごとだ」父親が窓から叫んだ。「そこで何をやらかしてい るんだ?」
「まきわりさ」
それ以上答えずに斧を投げ出し、一目散(いちもくさん)に庭を走り抜けて路地 にでた彼は、さらに川岸を上流のほうへ走って行った。造り酒屋の近くに二つの筏 (いかだ)がつないであった。むかしはよく筏で川を何時間も下ったものだ。暑い夏の午 後、材木と材木の間でぴちゃぴちゃいう水の音をききながら筏で下ってゆくと、興 奮(こうふん)もするが同時に眠気を催(もよお)してくるのだった。彼は、ゆる くつながれた浮いた材木の筏に跳(と)び移ってみた。そして積みあげられた柳の 枝の上に横になって、この筏が流れているものと空想してみた。速くなったり遅くなった りしながら、筏は草原や田畑や村々や、ひんやりとする森のはずれを通り過ぎ、橋や、ひ きあげられた堰(せき)の下をくぐり抜けて行くのだ。自分はその筏にのんびりと ねそべっている。こうくれば、なにもかもまた昔通りだ。カプフベルクへウサギの餌をと りに行ったり、岸辺の皮鞣(なめし)場で釣をしたり、その上頭痛もせず、心配ご ともまだ何も知らないのだが。
疲れきり、むしゃくしゃしながら彼は夕食に帰ってきた。父は目前に迫ったシュトゥッ トガルトヘの試験旅行のためにどうしようもないほど興奮していた。本はつめたか、黒い 服は用意したか、行く途中で文法を読むつもりか、気分はどうかなどと十数回もたずねる しまつだった。ハンスはそっけなくかみつくように手短かに返答し、ほとんどなにも食べ ずにまもなくおやすみを言った。
「おやすみハンス。よく眠るんだぞ。じゃ朝六時に起こすからな。ジ(・)クショ - 6 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] ナリーは忘れてないかい」
「ディ(・・)クショナリーは忘れていっこないよ。おやすみなさい」 彼は自分 の小さい部屋に帰ってからまだかなりの間あかりもつけずに起きてすわっていた。今日ま で、この部屋は受験勉強のおかげで恵まれた唯一(ゆいいつ)の恩恵(おんけ い)であった。ここでは彼がこの小さな部屋の主であり、だれからも邪魔されることはな かった。ここの部屋で彼は、疲れや眠気や頭痛とたたかったのだった。幾晩もシーザーや クセノフォンやいろいろな文法や辞書類、数学の問題などで頭を悩まされ、ねばり強く、 むきになったり、功名心(こうみようしん)に燃えたり、時には絶望せんばかりに なったりしながら。しかしここで、失われた少年時代のすべての楽しみよりも、はるかに 値うちのある数時間を経験することもできたのだ。誇らしさと興奮と勝利感にあふれた夢 のように不可思議(ふかしぎ)なこの数時間の間は、学校や試験やいっさいのこと を超越して、もっと高い領域を夢み、あこがれたのである。彼は、頼っぺたをふくらませ た人のいい級友たちとはどこかちがった、もっと立派な人間で、いつかは自分が高い別世 界からこの連中を見下ろすようになるかもしれないという楽しい予感に襲われた。空気だ ってこの部屋のほうがずっと自由でさわやかだというように、彼は大きく息を吸い、ベッ ドに腰をおろし、夢と期待と予感に胸をふくらませながら、二、三時間をぼんやりと過ご した。そのうちに、あわい色のまぶたがゆっくりと彼の疲れきった大きい目の上におりて きて、ちょっとまばたいていたがまたくっついてしまった。青白い少年の頭はやせた肩に 傾き、ほっそりした腕がだらりと伸びた。いつか着物をきたまま眠りこんでしまったのだ 。母のようにやさしいまどろみの手は子供の心でざわめく不安の波をしずめ、彼の美しい 額(ひたい)からは小さなしわを消してくれた。
<scramble>
まさに前代未聞(ぜんだいみもん)のことだ。校長さんご自身が、こんなに朝早 くというのに停車場まで来てくださったのだ。ギーベンラート氏は黒のフロックに身をつ つみ、興奮と嬉(うれ)しさ、誇(ほこ)らしさで、いっときもじっとしてい られないようだった。校長先生とハンスのまわりをうろうろし、駅長や駅員たちから旅の 安全と息子の試験がうまくいくようにと声をかけられ、小さなごついトランクを右手に持 ったり左手に持ちかえたりしていた。傘を小脇にかかえたり股にはさんだりし、何回も地 面に落としてはそのたびに、トランクをおろして落ちた傘を拾いあげた。まるでこのまま アメリカ旅行にでもでかけていきそうで、シュトゥットガルト行きの往復切符ご持参とは どうしてもみえなかった。息子のほうは落ち着き払っているようにみえたが、しかしじつ は、ひそかな不安が胸一ぱいにつかえていたのである。
列車が到着して停車し、ふたりはのりこんだ。校長は手をふり、父親は葉巻きに火をつ けた。町も川も下の谷のなかに消えていった。ふたりともこの旅行はつらかった。
シュトゥットガルトに着くと父親は急に元気になり、陽気で人づきあいがいい世なれた 人のように振舞(ふるま)いだした。数日の滞在のために首都にやってきた田舎町 住まいの小市民が嬉しくてすっかり羽根をのばしたのだ。しかしハンスのほうは、都会を 見たとたんにますますおとなしくなり、心配がつのってくるのだった。胸をぎゅっとしめ つけられるような気がしてきた。見知らぬ顔、威張(いば)りかえったように大き なごてごて飾りたてた家々、気が遠くなりそうな長い道路、鉄道馬車、街頭の雑踏 (ざっとう)などが彼をすっかりおびえさせ、苦しめるのだった。ふたりは伯母( おば)のうちに泊まった。ここでは、少年は見なれない部屋部屋や伯母の有難迷惑 (ありがためいわく)の親切とおしゃべりに悩まされ、長い間意味もなくすわらせられた り、父のはてしない激励(げきれい)の言葉をきかされてすっかり参ってしまった 。よそよそしいうつろな気持ちで、彼は部屋にすわりこんでいた。みなれない環境、都会 風な伯母のなり、大きな模様の壁紙、大型の置時計、壁にかかっている絵や窓からみえる 賑(にぎ)やかな大通りなどを眺めているうちに、自分が裏切られているような気 になった。家を出てからはてしない時がたち、せっかく苦心して憶(おぼ)えたこ ともいつかすっかり忘れてしまったような気がしてきた。
午後、彼はギリシア語の不変化詞にもう一度目を通すつもりだったのに、伯母は散歩し ようと言い出した。一瞬ハンスは、緑の牧場やざわめく森を思い浮かべ喜んで承知 - 7 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] (しようち)した。だが、散歩といってもこの都会の散歩は、故郷(こきょう)の とは全く別種の楽しみなのだということが、すぐにいやというほどよくわかった。
パパは町に人を訪ねにいったので、彼は伯母とふたりだけで出かけた。階段まで出たか と思うともうひどいめにあった。二階で太った高慢(こうまん)ちきな婦人に出会 うと、伯母は挨拶(クニツクス)もそこそこに、さっそく立板に水でおしゃべりを はじめ、少なくとも十五分はひきとめられた。ハンスが階段の手すりにもたれかかって立 っていると、婦人の小犬が彼の匂いをかぎまわり低く唸(うな)りだした。何度も その見知らぬ婦人に眼鏡越(めがねご)しに頭のてっぺんから爪先(つまさき )までじろじろ見られるので、自分のことも話題にされているのだということは彼にもだ いたい察しがついた。やっとおもての通りに出たと思うと、もう伯母は一軒の店にはいっ ていき、出てくるまでかなり待たされた。その間、ハンスは小さくなって往来に立ってい たが、通り過ぎてゆく人達からおしのけられたり、町の悪童(あくどう)どもから 馬鹿にされたりした。伯母は店からもどってくると、板チョコを一枚おしつけた。ほしく なかったが、彼はていねいに礼を言ってそれを受けとった。次の曲がり角のところで、ふ たりは鉄道馬車にのりこんだ。ぎっしり満員の馬車は鐘を鳴らしっぱなしで通りから通り を疾走(しつそう)し、やがて広い並木道と緑地のあるところに着いた。噴水が水 をあげ、垣根をめぐらせた花壇(かだん)は満開で、人工の小さな池には金魚が泳 いでいた。ふたりは散歩をする群集のあいだを縫って往復したり、ひとまわりしたりして あたりをぶらついた。無数の人々の顔やエレガントな変わった服装、自転車や病人用の手 押車や乳母車(うばぐるま)などが目にはいり、さんざめく人々の声を聞き、なま ぬるいほこりっぽい空気を吸った。最後にふたりはべンチにほかの人たちと並んで腰かけ た。伯母はほとんどたてつづけにしゃべりまくっていたが、大きく息をして少年にやさし く微笑(ほほえ)みかけ、チョコレートを食べろとすすめた。
「おやまあ、遠慮(えんりよ)をおしかい? さあ、お食べ、お食べ」
そこで彼はチョコレートをとり出し、しばらく銀紙をむいていたが、おしまいに仕方な くほんのちょっとだけかじった。チョコレートなんか全然ほしくはなかったが、伯母には どうしてもそう言えなかったのだ。そのかじりかけた塊(かたまり)をのみこみか けて、もてあましているうちに、伯母は群集の中から知人を見つけ出してとんでいってし まった。
「ここにすわっておいで。すぐにもどってくるからね」
ハンスはほっとしてこのチャンスを利用し、チョコレートを芝生(しばふ)の中 へ投げ捨ててしまった。それから両足を拍子(ひようし)をとってぶらぶらゆすっ てたくさんの人々をじっとみつめていると、自分がひどくみじめに思われてきた。おしま いにもう一度、不規則動詞を言ってみようとしてみると、それをほとんど憶えていないこ とに気がついて死ぬほど驚いた。みんなきれいに忘れているのだ! しかもあしたが州試 験だというのに!
伯母がもどってきた。彼女は、今年は百十八人の受験者が州試験に応募しているという 情報をきいてきた。合格できるのはたったの三十六人なのだ。少年はすっかり気落ちして しまい、帰る道じゅう一言もものを言わなかった。家へつくと頭痛がして、また食欲がな くなっていた。あまり憂鬱(ゆううつ)になっているので父は彼をひどく叱りつけ 、伯母さえ彼のことを手に負えないと思ったほどだった。夜中に彼は恐ろしい悪夢 (あくむ)に追われながら、死んだように深く眠った。夢ではほかの百十七人の競争者た ちといっしょに試験を受けていた。試験官は町の牧師さんに似ているかと思うと伯母みた いでもあり、彼の前にチョコレートの山を積みあげるのだ。そいつを食べさせられる 羽目(はめ)になって泣きながら食べているうちに、ほかの者たちはひとりまたひ とりと立ち上がって小さなドアから消えていった。みんな自分の山を食べ終わったのに、 彼の山はみているうちに大きくなって机や椅子にいっぱいになり、彼の息の根をとめよう とするのだった。
翌朝、コーヒーを飲みながらも、試験におくれては大変だというので時計から片時も目 をはなさないでいるころ、郷里の町ではみんなが彼のことを考えていてくれたのだ。まず 靴屋のフライクだ。彼は、朝のスープの前にお祈りの文句をとなえる。そのあいだ家族の 者たちは、職人やふたりの徒弟(とてい)といっしょにテーブルをかこんで起立し - 8 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] ていた。この日、親方は朝の祈祷(きとう)に『主よ、今日受験する生徒、ハンス ・ギーベンラートに御身(おんみ)の御手(みて)を貸し給え。彼に恵みと力 を与え、いつの日か、彼を御身の神聖なる御名(みな)の正しき勇気ある伝道者と なし給え!』という言葉をつけ加えたのだった。
町の牧師は彼のためにお祈りこそあげてくれなかったが、朝食のとき妻に言った。「今 ごろはギーベンラートが試験に行く時間だなあ。あの子はそのうちもっとたいしたものに なるぞ。きっと世間の注目を集めるようになるさ。そうなれば、わたしがラテン語で助け 舟をだしてやったこともむだにはならんというものさ」
担任の先生は授業が始まる前に、生徒たちに言った。「シュトゥットガルトでは、ちょ うど試験が始まるころだ。ギーベンラートがうまくやるように祈ってやろうじゃないか。 そんなことをしなくても受かるにはきまってるがね。なにしろ、お前たち怠(なま )けものが十人かかってもとてもかなわないやつだからね」ほとんどすべての生徒たちは 、欠席している彼のことを思った。というのは、合格か不合格がに仲間同志で賭( かけ)をしている連中もたくさんいたからである。
心のこもった祈願や深い関心というものは、距離が大きくともやすやすと遠くまでとど くものだが、ハンスもその例にもれず、郷里の連中がみんな自分のことを思ってくれてい るのを感じとった。彼は父親につきそわれて胸をどきどきさせて試験場にはいり、助手の 指図(さしず)に従っておどおどしながら席につき、まるで拷問(ごうもん) 部屋に入れられた罪人のように青い顔をした少年がつめこまれた大きな部屋を見まわした 。しかし教授がやってきて、静粛(せいしゆく)を命じてからラテン語の文章に直 す問題文を口述(こうじゆつ)しはじめると、なんだ、ひどくやさしいじゃないか と思って一息(ひといき)ついた。すらすらと楽しいぐらいの気分で下書きを書い てから、それを今度は慎重(しんちよう)にきちんと清書し、答案を出してみると いちばん早いほうであった。試験のあと、伯母の家へ帰る道をまちがえて、二時間も暑い 往来(おうらい)を迷い歩いたが、もうそんなことで、落ち着きをとりもどした彼 の気持ちはそれほど乱されるようなことはなかった、むしろ、伯母や父親としばらくでも いっしょにいないですんだのが嬉しいぐらいで、この見知らぬ騒々(そうぞう)し い都会の通りをさまよっていると、自分が大胆な冒険家になったような気がしていたので ある。そこらじゅうで道をききながら、やっとのことで帰りつくと、たちまち彼は質問ぜ めにあった。
「どうたった? どんな具合(ぐあい)? できた?」
「やさしかったさ」彼は得意そうに言った。
「あんなのならもう五年級のときだって訳せたぐらいだ」
それから彼はさかんに空腹(くうふく)を満たした。
午後はまったくひまだった。パパは二、三の親類や友人のところに彼をご挨拶にひっぱ りまわした。そのなかの一軒で彼は、ゲッピンゲンから同じように州試験を受けにきてい た黒い服を着た内気な少年と知り合いになった。少年たちはふたりだけ放ったらかしにさ れておかれた。そこでお互いに好奇心をもって恐る恐る相手を見つめあった。
「君、ラテン語の作文をどう思った? やさしかったろ、ね?」とハンスはきいてみた。
「ものすごくやさしかったよ。だけど、こいつがまさにこと(・・)なんだよ。や さしい問題ってやつで、いちばんまちがいをしちゃうもんなんだ。つい不注意になるんだ ね。きっと、あれも落とし穴があったんだと思う」
「そうかなあ?」
「もちろんだよ。先生はそんなに馬鹿(ばか)じゃないよ」
ハンスはちょっとびっくりして考えこんでしまった。それからこわごわ、「君まだ問題 をもってる?」とたずねた。
その少年がノートをもって来ると、ふたりは問題をはじめから、一語一語やりなおして みた。そのゲッピンゲンの少年はラテン語は達者らしかった。少なくとも二回ほどハンス がまだ聞いたこともない文法用語をつかった。 - 9 -
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「あしたは何があったかな」
「ギリシア語と作文だよ」
それからゲッピンゲンの少年は、ハンスの学校からは何人試験を受けにきているかきい た。「だれも」とハンスは言った。「ぼくだけさ」
「へえ、ぼくたちゲッピンゲンのやつは十二人きてるんだぜ。三人できるやつがいて予想 じゃトップクラスはまちがいなしだ。去年だってゲッピンゲンから来たやつが一番だった んだ。君、落ちたら高等学校(ギムナジウム)に行くの?」
そんなことは考えたこともなかった。
「わからない……多分いかないだろ……」
「そう? ぼくはどっちみちこれで落ちても大学までいくんだ。それからお母さんはぼく をウルムにやるつもりさ」
こういう話をきくと、ハンスには相手がひどくえらいやつにみえた。三人も秀才 (しゆうさい)がいるというゲッピンゲンから来た十二人のことも心配になった。そんな とこにはとても顔出しできそうもないぞ。
家へ帰るとさっそく机に向かい、miで終わる動詞にもう一度目を通した。ラテン語のこ とは、もともと全然心配していなかったから自信があった。しかしギリシア語には特殊な 事情があった。ギリシア語は大好きで夢中になったといってもいいくらいだが、好きなの は読むほうだけだった。ことにクセノフォンの文は美しく躍動的(やくどうてき) で新鮮に書きあらわされ、読めば、すべて明るく、美しく、力強い響きがあり、自由 闊達(かつたつ)な思想があり、なんでもとてもわかりやすかった。しかし文法を させられたり、ドイツ語をギリシア語に訳さなければならないことになると、厄介 (やつかい)きわまる規則と変化形の迷路に迷いこんでしまい、ギリシア文字のアルファ ベットさえも読めないはじめての授業のときとたいして変わらない不安な恐れをこの外国 語に対して抱(いだ)いてしまうのであった。
次の日はいよいよ問題のギリシア語の番だった。その後にドイツ語の作文があった。ギ リシア語の問題は相当長く、やさしいなどとはとてもいえなかった。作文の題はきわどく て意味をとりちがえる恐れもあった。十時ごろから部屋の中はむし暑くなり、ハンスは書 きよいペンをもっていなかったので、答案をきちんと清書しあげるまでに二枚も紙をだめ にした。作文を書いているとき、隣り席の厚かましい少年のおかげで危険なめにあった。 わからないところを書いた紙きれをそっとまわしてきて、脇腹(わきばら)をつっ つきながら答えを教えろと強要するのだ。席の隣同志で話し合うことは絶対厳禁されてお り、見つかれば容赦(ようしや)もなく試験の資格を取り上げられてしまうことに なるのだ。恐ろしさに震えながら、彼はその紙きれに「ほっといてくれ」と書き、答えを きいてきた子にくるりと背を向けた。ひどく暑かった。絶えまなく、規則正しく部屋を往 復して、いっときも休もうとしない監督の教授でさえ、たびたび顔をハンカチでぬぐった ほどである。堅信礼(けんしんれい)につくった厚手の正式な服を着こんでいるハ ンスは、びっしょり汗をかき頭が痛くなって、とうとうやりきれない気分のまま答案用紙 を出してしまった。答えはまちがいだらけだし、これではもう試験もおしまいだという感 じがした。
帰って食卓についても一言もいわず、あれこれきかれてもただ肩をすくめるばかりで 罪人(ざいにん)のように顔をしかめるのだった。伯母は慰(なぐさ)めてく れたが、父親はすっかり興奮していらいらしてきた。食事がすむと息子を隣の部屋につれ てゆき、また根ほり葉ほりきき出そうとかかった。
「ひどい出来だったんだ」とハンスは言った。
「なぜお前、気をつけていなかったんだ。落ち着き払っていたってよかったんだぞ。こん 畜生(ちくしよう)!」
ハンスは黙っていた。そして父親ががみがみ言いはじめると、まっかになって言った。 「ギリシア語なんてまるでわからないくせに!」 - 10 -
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二時に口頭試問(こうとうしもん)に出かけなければならないことが、いちばん の悩みの種だった。これこそなによりも怖気(おぞけ)を震(ふる)うことだ 。でかけていく途中、焼けつくような暑さの往来ですっかり気持ちが悪くなり、苦しさと 不安と目まいに襲われて目さきがまっ暗になった。
大きな緑色のテーブルをかこんだ三人の先生の前に十分間もすわらされて、ラテン語の 文章をいくつか訳し、出された質問に答えた。別の三人の先生の前でまた十分間、今度は ギリシア語を訳し、いろいろ質問を受けた。最後に不規則動詞の不定過去を一つ言ってご らんと要求されたが、彼には答えられなかった。
「出てよろしい。そこの右のドアからね」
彼は行きかけた。だがドアの方まできてその不定過去が急に頭に浮かんだ。彼は立ちど まった。
「行き給え!」と先生が言った。
「行き給え。それとも気分でも悪くなったのかね」
「いいえ、たった今不定過去を思い出したんです」
彼は部屋にむかってその不定形を叫んだ。ひとりの先生が笑っているのが見え、顔から 火が出るほどまっかになって彼は部屋をとび出した。あとで、質問と自分の答えとを思い 出そうとしたが、いろんなことがごちゃまぜになってしまうのだった。そのたんびに頭に 浮かぶのはただ、大きな緑色の机の表面、フロックコートを着用したいかめしい三人の老 先生、開かれた本や、震えながらその本をさしている自分の手ばかりであった。ほんとに いったいなんて答えてきたんだろう!
通りを歩いていると、自分がもう何週間もここに滞在していてもうこの町をたち去れな くなってしまうような気がしてきた。家の庭や縦(もみ)の深緑に染まった山々や 川べりの釣場は、今ではずっと遠くへだたった昔見たことのある光景みたいにみえるのだ った。ああ、もし今日にも故郷(くに)へ帰れたらいいんだが。この町にこれ以上 いたってどうせなんの意味もないんだもの。とにかく試験はだめだったんだ。彼はミルク パンを一個買い、父に答弁(とうべん)するのがいやさに、午後いっぱい町じゅう を通りから通りへとやみくもにうろつきまわった。
やっと家へ帰りつくと、みんながひどく心配して待っていた。彼の疲れきって加減が悪 そうな様子を見ると、玉子スープを飲ませて寝かせてしまった。明日は算数と宗教の試験 で、これが終わるともううちへ帰れるのだ。
次の日の午前中は、まったく好調だった。昨日、主要課目であんなにひどいめにあった のに、今日はなにもかも上出来だったとは、なんてひどい皮肉(ひにく)だろうと 思った。そんなことはどうでもいいや、もう帰るんだ、うちへ帰るんだ!
「試験はすみました。もううちへ帰れるんです」と彼は伯母に報告した。
父は今日はまだ帰らないつもりだった。湯治場(とうじば)のカンシュタットに でかけてそこらの公園でゆっくりコーヒーでも飲もうじゃないかと言うのだ。しかし、ハ ンスの嘆願(たんがん)にまけて彼だけひとりで今日発(た)つことを許して くれた。駅まで連れていってもらい、切符を受けとると、伯母からお別れのキスと車中の 食べものをもらい、まるでふぬけ(・・・)のようになって帰郷の旅にっき、一路 緑の丘陵地帯(きゆうりようちたい)を通過していった。深緑のモミの山々が目に はいってくるころ、やっと嬉しくなり解放されたような気持ちになった。うちの年とった 女中にもまたあえるし、小さな自分の部屋、校長さん、なれしたしんだ天井(てん じよう)の低い教室、こういったすべてのものとの再会が楽しみだった。
有難いことに停車場には知りたがり屋の顔見知りは見当たらず、だれにも気づかれずに 小さい荷物をさげて家路に急ぐことができた。
「シュトゥットガルトはえがったでしょう?」とばあやのアンナがたずねた。
「よかった? 試験がいいことだなんて思っているのかい? 帰ってこられてほんとに嬉 - 11 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] しいよ。お父さんは明日にならなきゃ帰ってこないよ」
新鮮なミルクを椀(わん)に一杯のむと、窓先にかけてあった水泳パンツをとり こみ家をとびだしたが、みんなの泳ぐ川原は避けた。
彼は町からずっとはずれた「ワーゲ」というところへ行った。その辺(あた)り は水が深く、川はゆっくりと高い茂みの間を流れていた。着物をぬぐと、冷たい水の中に 手を突っこみ、足をそろそろとひたした。ぶるっとしたが思いきってざんぶと流れの中に とびこんだ。ゆっくりとゆるやかな流れに逆らって泳いでいくと、数日来の汗と不安が洗 い流されていくのを感じた。流れが彼のやせたからだをひんやりと抱いてくれているあい だ、彼のこころは新たな喜びで美しいふるさとをとりもどした。泳ぎを速めたり休んだり 、また泳いだりしながら気持ちのよい冷たさと疲れにつつまれるのを感じ、あお向けにな って川下に流されながら、金色に蚊柱(かばしら)となってむらがるカワカゲロウ の羽音(はおと)に耳をすまし、矢のように小さなツバメが飛びかわす夕空を 眺(なが)めていた。夕日はもう山の向こうに落ちていたが空はバラ色に照らされ ていた。彼がふたたび着物を着て、夢みるようにぶらぶらと家路に向かうころには谷はも うすっかり影にはいっていた。
やがて、商人ザックマンの家の庭を通りすぎた。とても小さかったころ二、三人の仲間 とここのまだ熟していないスモモの実を盗んだことがある。それから大工キルヒナーの仕 事場の前に出る。モミの角材があちこちに転がっている。むかしはよく材木の下から 釣餌(つりえ)にするミミズを掘った。視学官ゲスラーの小さな家の前も通ってい った。二年前氷滑(すべ)りのときこのうちの娘のエンマに言い寄ってみたいと思 ったことがある。その娘は町の学校ではいちばんかわいらしくって上品な生徒で、年も彼 と同じだった。ひところは一度でも彼女と話すとか、手を握りしめることが何よりののぞ みだった。のぞみはかなわなかった。彼はあんまり内気すぎたのだ。やがて彼女は寄宿女 学校へ入れられてしまい、今はもう彼女の顔さえほとんど憶えていない。だのにこのころ の一駒(こま)が、はるかに遠い昔の出来事のようにふと思い浮かんだのである。 この思い出は、それ以後のいっさいの体験よりも強烈な色彩と、なんとも言えない不安な 甘さをたたえていた。あのころはまた夕方になるとよくナショルト家のリーゼのところで 戸口にすわってじゃがいもの皮をむきながらしてくれる話をきいたり、日曜となれば朝早 く、すこし気がとがめながらズボンをまくり上げて川下の堤防にザリガニ取りや魚釣に出 かけ、後で日曜の晴着をびしょぬれにしておやじさんからなぐられたりした。それにあの ころはずい分たびたび不思議(ふしぎ)なことがあったり、変わった人がたくさん いたりした。長いことすっかり思い出さないでいたが、猪首(いくび)の靴屋とか 、おかみさんを毒殺したともっぱらの噂だったシュトローマイヤー、それから、いつも杖 とずだ袋をかついてこの郡一帯を歩きまわっていた奇人の「ベック旦那(だんな) 」。「旦那」と呼ばれていたのは、昔彼が金持ちで、四頭だての馬車を持っていたからで ある。ハンスはもうこういう人たちの名前だけしか憶えていないが、おぼろげに感じられ るのは、路地の小世界は彼の記憶から失われてしまっているのに、そのかわりに生き生き した価値のある体験を得たわけではないということだった。
次の日もまだ休んでよかったので、朝はゆっくり寝坊し自由を存分に楽しんだ。お昼に 父を迎えに出かけた。父はシュトゥットガルトのいろんなお楽しみで、まだしあわせそう に満足しきっていた。
「試験に受かったら、何かねだってもいいんだぞ」と彼は上機嫌(じようきげん) で言った。
「よく考えときな」
「だめだよとても」少年は嘆息(たんそく)した。「きっと落ちてるよ」
「馬鹿げたことを、なにを言うんだ。こっちの気が変わらないうちに欲しいものでも考え たほうがましだぞ」
「お休みのあいだ、また釣をしたいんだ。いいでしょう?」
「いいとも、試験に受かればかまわないさ」
翌日の日曜日は雷が鳴り、急に豪雨(ごうう)が来た。ハンスは何時間も部屋に - 12 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] ひきこもって本を読んだり考えこんだりしていた。シュトゥットガルトの試験の結果を正 確に思い返してみたが、何度くり返しても結果は同じことだった。とりかえしのつかない 失敗だ。ずっといい答えが書けたはずなのに。とにかく合格点に達するはずはない。いま いましいあの頭痛のおかげだ! しだいに高まってくる不安に胸をしめつけられ、おしま いには重苦しい心配に矢も楯(たて)もたまらたくなって父のところにとんでいっ た。
「ねえ、お父さん!」
「何か用かい?」
「ききたいことがあるんだ。おねだりの話なんだけどね、ぼく、釣の話はやめにしておく よ」
「そうか、いったい今ごろになってなぜなんだ?」
「なぜって、そりゃあね……そうだ、ちょっときいときたいんだけど……」
「すっかり言っちまえ、そんなごたいそうなことなのかね、いったいなんだい?」
「もし落ちたら高等学校(ギムナジウム)へ行ってもいいかしら……」
ギーベンラート氏は唖然(あぜん)とした。
「なに、高等学校?」それから彼はどなった。「お前が高等学校に行く? そんな入れ 知恵(ぢえ)をしたのはだれだ?」
「だれもしやしない。ただ自分でそう思っただけだよ」
彼が顔に恐ろしい不安を浮かべているのがはっきりわかった。しかし父親はそんなもの には目もくれなかった。
「いやはや!」と父は不愉快(ふゆかい)そうに笑いながらいった。
「たいしたのぼせようだな。高等学校に行くなんて。このおれが商業顧問官(こも んかん)とでも思ってるのかい」
父ににべもなくはねつけられたので、ハンスはあきらめ絶望して部屋を出た。
「どっかの坊っちゃんみてえにさ」と出てゆく彼のあとから父の怒った声がおっかけてき た。
「とんでもねえこった。今度は高等学校に行きたいと来やがった。たいしたもんだよ、 何様(なにさま)みてえなつもりでさ」
ハンスは三十分ほど出窓に腰かけて、磨きたての床板をじっとみつめながら、もしほん とうに神学校も高等学校も大学もだめになったらいったいどうなっちまうだろうと考えた 。父親は自分をチーズ屋の徒弟にするか、会社の事務員見習いにするだろう。そうしたら きっと一生を平凡な、つましい人間のひとりとして過ごすことになるだろう。自分が 軽蔑(けいべつ)し、なんとしてもそんな環境からはぬけだそうと思っていたああ いう人種になってしまうのだ。彼の整った利口(りこう)そうな顔が、怒りと苦し みにゆがんだ。むかむかして立ち上がり、ペッと唾(つば)をはくと、そこにあっ たラテン語の詩集をつかんで腹だちまぎれに壁にたたきつけ、雨の中をとび出して行った 。
月曜日の朝はまた学校へ出かけた。
「どうだね?」と尋ねながら校長さんは手をさしだした。「昨日うちに来てくれるかと思 っていたんだよ。試験はどうだったんだね?」
ハンスはうなだれた。
「どうした、うまくいかなかったのかい?」
「そうらしいです」
「もう少しの辛抱(しんぼう)だ!」と老先生は彼を慰めた。「たぶん、今日の午 前中にはシュトゥットガルトから通知が来るよ」
午前中が恐ろしく長く感じられた。通知は来なかった。心でははげしくむせび泣いてい たので昼食はほとんどのどを通らなかった。 - 13 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ]
午後になって二時ごろ教室にはいると、もう担任の先生が来ていた。
「ハンス・ギーベンラート」と彼は大声で呼んだ。
ハンスは前へ出た。先生は彼に握手を求めた。
「おめでとう、ギーベンラート、君は州試験に二番で合格したんだよ」
教室はしんとした。扉が開いて校長先生がはいってきた。
「おめでとう。さあ今度はどうだ?」
少年は驚きと喜びでしびれたようになって口がきけなかった。
「まだ何もしゃべらないのかい?」
「こんなことだったら」思わず言葉が出てきた。「その気になれば一番だってとれたのに と思います」
「さあ家へ帰りなさい」と校長さんは言った。
「お父さんにお知らせするんだね。もう学校へは来なくていいよ。どっちみち一週間すれ ば休暇になるんだからね」
めまいを感じながら、少年が表へ出ると、立っている菩提樹(ぼだいじゆ)や 陽(ひ)の当たっている広場が目にはいった。なにもかもいつもと変わりないのに 、いつもよりずっと美しく喜ばしく意味ありげに見えるのだった。合格したんだ、それも 二番で。最初の激しい喜びの嵐が過ぎ去ると、今度はあつい感謝の念でいっぱいになった 。これでもう町の牧師さんを避けなくてもいいのだ。チーズ屋や会社の事務室にやられる 恐れもなくなった。
それにまた釣をすることもできるのだ。父は彼が帰ってきたとき、ちょうど戸のところ に立っていた。
「どうしたんだ」と父は何気なくたずねた。
「たいしたことじゃないよ。学校を追っぱらわれちゃったのさ」
「え? いったいなぜだ?」
「だってぼくもう神学校生だもの」
「そうか、畜生(ちくしよう)。おまえ、受かったのか」
ハンスはうなずいた。
「ほんとうか?」
「ぼく二番だったんだよ」
お年寄りはそんなことまでは期待していなかった。彼はなんと言っていいかわからず、 ただやたらに息子の肩をたたき、笑って頭をふった。それから何か言おうとして口をあけ たが、やっぱり何も言わずにまた肩をたたくばかりであった。
「すごいぞ!」ようやく彼は叫んだ。それからもう一度「すごいぞ!」
ハンスは家へかけこんだ。階段をかけのぼって屋根裏部屋へとびこむと、壁のはめこみ の戸棚を乱暴にあけてごそごそと中をひっかきまわし、いろいろな箱や釣糸の束や うき(・・)にするコルクの栓(せん)などをひっぱり出した。これが彼の釣 道具だった。なによりさきに釣竿にするきれいな枝を切り取らなければいけなかった。彼 は下の父のところにおりていった。
「パパ、パパのナイフを貸して」
「何に使うんだ」
「枝を切るんだよ、釣竿に」
父はポケットに手をつっこんだ。
「ほら」と上機嫌で鷹揚(おうよう)に言った。「ほら、二マルクだ。自分用のナ イフを一丁(ちょう)買っていい。だけどハンフリートの店はやめろ――向こうの 刃物鍛冶(はものかじ)に行きな」
あとはとんとんと運んだ。鍛冶屋は試験はどうだったときき、合格という嬉しい報告を きかされるととびきり上等のナイフを出してくれた。川下のブリューエル橋の下手 (しもて)には、しなやかなハンノキやハシバミの茂みがある。そこで長いこと選んだあ げく申し分のない腰のつよい枝を切りとり、急いでうちへもどった。 - 14 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ]
顔を紅潮(こうちょう)させ目を輝かせながら、釣と同じくらい楽しい釣仕度に とりかかった。午後から夕方まではそれにかかりきりだった。白と茶色と緑色の釣糸をよ り分け、念入りに調べてつなぎ合わせたり、古い結び目をいくつもほどいたり、こんがら がった糸をほぐしたりする。いろいろな形や大きさのコルクや浮き羽を検査し新しくけず る。釣糸のおもり用のいろいろの重さの鉛を金槌(かなづち)で丸く叩(たた )いて切りこみを入れる。それから、しまってあった釣針をつける段取りになる。釣針に は四重の黒い縫糸でつけるもの、楽器の絃(げん)のあまりでつけるもの、より合 わせた馬の毛でつけるものなどがある。夕方ごろやっと仕事がすんだ。ハンスはこの長い 七週間の休みはぜんぜん退屈(たいくつ)しないですむにちがいないと思った。釣 竿さえあれば彼は一日じゅうひとりで川べりで過ごせるのだった。 第二章
これでこそ夏休みだ! 山脈(やまなみ)の上にはリンドウの花のような青い空 がひろがり、何週間も太陽が輝く暑い日々が続き、ただ時折り激しく短い雷雨がやってく る。川への道は砂岩のかたまりがごろごろして、モミの木陰におおわれていたり、せまい 谷間もあったが、それでも川の水はすっかりあたたまって晩方まで泳ぐことができた。町 をめぐって干し草や二番刈りの草の山の香がただよい、あちこちの穀物畑の細い帯は 黄金色(こがねいろ)に変わり、小川のほとりでは白い花をつけたドクゼリに似た 草が人の背たけほども生い茂っていた。この花は傘のような形をしていていつもテントウ ムシがいっぱい群がっていた。なかに穴の通っているこの茎を切って草笛や呼子笛を作る ことができる。森の縁をはなやかに色どる連なりは、綿毛のような黄色い花をつけた王者 のようなビロウドモウズイカである。ミソハギとヤナギランが細くしなやかで強い茎の上 でゆれ、斜面を一面に赤紫色でおおっていた。森の中のモミの木の下に、異様な感じを与 えながら美しくいかめしく一本の赤いジキタリスが、銀色の綿毛の密生したひろい根生葉 の間からぬっと突き出していた。茎は丈夫で、茎の上のほうに美しい赤色の萼状花 (がくじょうか)が一列に並んでいた。そのそばに、いろいろな茸(きのこ)が生 えている。赤く光ったアカハエトリタケや厚みも幅もあるヤマドリタケ、不可思議な形を したバラモンジン、赤くてたくさん腕のでているホウキタケ、それに奇妙に色があせて病 的にむくんだシャクジョウソウなどだ。森と牧草地の境目のヒースの茂った荒地には、強 いエニシダが燃えるような黄色いいろどりを見せ、それからうす紫のエリカの花の長い帯 が続き、そのうしろが牧草地になる。まだたいていは二度目の草刈りの前で、タネツケバ ナやセンノウやサルビアや松虫草などが色とりどりに茂っていた。濶葉樹(かつよ うじゆ)の森の中ではウソが小止みなくさえずり、モミの森では狐色(きつねいろ )のリスが梢から梢へと走りまわり、畑の畦(あぜ)道や石塀や水の枯れた掘り割 りには、緑色のトカゲが気持ちよさそうに陽だまりで呼吸しながらうろこを光らせていた 。そして牧場一面にいつ果てるともなく、ぶつけるような蝉の声がひびきわたっていた。
この時期になるとこの町は農村のような感を呈した。干し草を積んだ車や、干し草の香 りや、鎌(かま)とぎの音が往来にあふれ、大気をみたした。もし二つの工場がな かったら、ほんとうに農村にいるような気がしたところだろう。
夏休みの第一日めの朝早く、年とったアンナがまだ起きてもいないうちから、ハンスは いらいらしながら台所でコーヒーを待っていた。火をおこすのを手伝い、パンを鉢からと り出し、新鮮なミルクを入れてさましたコーヒーを大急ぎで飲みほすと、パンをポケット につっこんでとび出した。山のほうの線路の土手のところで立ち止まると、丸いブリキ缶 をズボンのポケットからひっぱり出し、熱心にバッタをつかまえ始めた。列車が通過する 、しかし猛烈(もうれつ)な速さではない。この辺りは線路が急な登り坂になって いるので、わずかな乗客をのせ、すべての窓をあけ放し、楽しそうにはためく旗のように 煙と蒸気をたなびかせて走って行った。乗客はほんの少しだった。彼は列車を見送り、白 い煙が渦(うず)を巻いてやがて朝の澄んだ大気の中に消えてゆくのを見つめてい た。なんて長い間、こういう光景を見ていなかったことだろう! もう一度、失われたす ばらしい時を倍にしてとりかえし、ふたたび気ままな、なんの屈托(くつたく)も ない小さな少年になろうとするかのように大きく息を吸いこんだ。 - 15 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ]
バッタのはいった餌箱と新しい釣竿を持って橋をわたり、向こう側の果樹園を通り抜け て川がいちばん深くなっている馬池(ロスワイアー)のほうへ歩いていく途中、ひ そやかな歓喜の念と釣をする楽しみで胸がどきどきした。そこは、ほかのどこよりも快適 に、邪魔されずに柳の幹によりかかって釣ができる場所だった。彼は釣糸をほどき、小さ な錘(おもり)をつけ、容赦なく一匹のふとったバッタを釣針に突きさすと、大き く一振りして針を川の真ん中に投げこんだ。いつもの、ようく知っている遊びが始まった 。小鮒(こぶな)が群れをなして餌のまわりにむらがってきて、餌だけを針からは ずそうとかかるのだ。まもなく餌はすっかり食べられてしまい、二番目のバッタの番にな る。また一匹。四匹め、五匹めもあっさり餌食(えじき)になった。しかし餌のつ け方はだんだん念入りになってくる。おしまいに糸につける錘を一つふやしてみると、は じめて魚らしい魚が餌をつつき出した。ちょっと餌をひっぱってつき放し、もう一度同じ ことを繰り返す。今度は食いついた――慣れた釣手なら、糸と竿を通してぴくぴく動く感 触を指に感じられるのだ! ハンスは、わざと、ひとつはずみ(・・・)をつけて から用心深く竿を引き始める。魚はかかっている。やがて魚の姿が見えてくると、ウグイ だということがハンスにはすぐわかった。この魚は、幅の広い飴色(あめいろ)に 光る姿と、三角の頭と、特に美しい肉色の腹びれの生(は)え際のところですぐ見 分けがつくのである。どのくらいの重さだろうか? しかしまだ見定めのつかぬうちに、 魚は必死の勢いで水を切り、水面をめちゃめちゃに暴れまわったあげくとうとう逃げおお せた。水中で三回、四回と旋回するところまでは見えたが、それから銀色の稲妻のように きらりと光って深みへ消えて行った。餌によく食いついていなかったのだ。
釣手の心はようやく興奮し、釣師の熱心な注意力が動員された。彼の視線は細い茶色の 釣糸が水に触れているところに、鋭く、じっと注がれていた。頬は紅潮し、動作にはむだ がなく敏捷的確(びんしようてきかく)だった。二匹めのウグイが餌につき、釣り 上げられた。それから釣るのもかわいそうなほどの小さな鯉がかかった。それから続けざ まにハゼが三匹釣れた。ハゼは父の好物(こうぶつ)なのでなにより嬉(うれ )しかった。よくふとった鱗(うろこ)の細かいやつで、ふくれた頭におかしな白 い鬚(ひげ)があり、目は小さく尾のほうはほっそりしている。色は緑と茶色の中 間色で、陸に釣り上げると鋼(はがね)のように青光りするのだった。そのうちに いつか日は高く昇り、川上の堰(せき)では水の泡がまっ白に輝き、水面には暖か い大気がチカチカしていた。見上げると、ムック山の上に掌(てのひら)ほどの大 きさのまばゆい雲が二つ三つかかっていた。暑くなってきた。紺碧(こんぺき)の 中空(なかぞら)に純白に静止して、長いことみつめていられないほど、あふれる ようにいっぱい光を浴びている小さな二、三片の雲、この雲ほど強烈に真夏の暑さを表現 できるものはほかにない。この雲がなかったら、青空を見ても、水面が鏡のように輝くの を見ても、暑さにぜんぜん気がつかないことがあるだろう。だが泡のように白い、ぎゅっ と丸めたような真昼の雲を見ると、急に灼熱(しやくねつ)する太陽を感じて日陰 を求め、汗ばんだ額(ひたい)を手で払うものだ。
ハンスはだんだん釣への注意が鈍(にぶ)ってきた。少し疲れてきたし、それに 昼ごろはどうせほとんどなにも釣れないものだ。ハヤは、年のいったのも大きいのも、昼 ごろになると水面近くに日に当たりにやってくる。大きな黒い列になって川上のほうへ水 面すれすれを夢みるようにゆっくりと泳いでゆくが、ときどき急になにかに驚く。なぜだ かそのわけはわからない。要するにこの時間は決して餌についてこないのだ。
彼は釣糸を柳の枝にひっかけて水の中に垂(た)らしておき、地面に腰をおろし 、緑色の川を見つめた。魚たちはつぎつぎに黒い背を見せながらゆっくりと水面近くに浮 き上がってきた。静かにゆっくりと泳ぐ魚の群れ、ぬるむ水に誘われてうっとりした魚た ちの行列。魚たちも暖かい水の中が居心地がいいんだろうなあ! ハンスは靴をぬぎ足を 水にひたした。水の表面はとても生ぬるかった。バケツの中の釣り上げた魚を見ると、と きどき静かにパチャッと音をたてて泳ぎまわっていた。なんてきれいなんだ。白・茶・緑 ・銀・渋い金・青、そのほかいろいろな色が、魚が動くたびに鱗やひれにきらめいた。
あたりはとても静かだった。橋を通る車の騒音はほとんど聞こえず、こっとんこっとん と水車のまわる音も、ここではただかすかに聞きとれるだけだった。ただ水が白く泡だっ ている堰のあたりからたえず聞こえてくるやさしいざわめきが、静かに、涼しそうに眠気 - 16 -
[ ヘッセ_車輪の下.txt ] を誘い、流れる水が筏を止める杭(くい)のところで渦を巻いてたてるかすかな音 が聞こえてくるだけだった。
ギリシア語、ラテン語、文法と作文、算数と暗唱、休みなく追いたてられたこの長い一 年の拷問(ごうもん)のような混乱した苦しみ、すべては、眠気を催すような暖か いこの時間の中に、静かに沈澱(ちんでん)してしまった。ハンスの頭は少し痛か ったが、いつものようにひどい頭痛はなかった。いまは、晴れてふたたび川べりにすわっ て堰の水の泡がはねかえるのを見、またたきしながら釣糸から目を放さないでいていいの だ。そして彼のそばの器の中で、獲(と)った魚たちが泳いでいるのだ。ほんとに すばらしいじゃないか。そのうち突然、自分が州試験に、しかも二番で受かったのだとい うことを思いついた。そこで彼は素足を水の中でばちゃばちゃさせ、両手をズボンのポケ ットにつっこみ、あるメロディーを口笛で吹きはじめた。ほんとは口笛はちゃんと吹けな いのだった。昔は、これが彼の悩みの種で、級友たちからもさんざん笑いものにされたの だ。彼は歯の間からしか音を出せず、それもごく低い音だったけれど、うちで吹くには十 分だった。今ならだれも聞いてやしない。ほかの連中は今学校で地理の時間だ。彼ひとり だけが釈放されて自由なのだ。ほかの連中をみんな追い越してしまった。連中はもう彼よ りはるか下にいる。彼がアウグストのほかだれも友だちを持とうとせず、ほかの連中の 喧嘩(けんか)や遊びなどはちっともおもしろがらないというので、これまではさ んざんみんなにいじめられたものだ。だけど、みろ、今度こそやつらが見送る番だ、くだ らない愚かなあいつらが。彼は軽蔑のあまり一瞬口笛をやめ、口をゆがめた。それから釣 糸を巻き上げてみると思わず笑いだしてしまった。釣針の餌がきれいになくなっていたか らだ。缶に残っていたバッタを放してやると、どうしていいか見当もつかないように、気 がない様子で丈(たけ)の低い草むらの中にもぐりこんでいった。近くの鞣( なめし)皮工場はもう昼休みだ。食事に帰る時間になっていた。
食事の時はほとんど口をきかなかった。
「何か釣れたか?」と父がきいた。
「五匹」
「へえそうか。だけどお前、親魚はとっちゃだめだぞ。親をとるとあとで小魚がいなくな っちまうからな」
それ以上会話は発展しなかった。とても暑かった。だからなおのこと食後すぐに泳ぎに 行けないのが残念だった。いったいなぜいけないんだろう? 毒だからだって! 毒なわ けはない、それはハンスのほうがよく知っていた。これまでだって禁を犯して出かけたこ とは何度もある。しかしもうそんなことはすまい、もうそんな子供っぽい反抗をする年じ ゃないんだ。試験じゃ「あなた」と言われたじゃないか!
とすれば、一時間ほど庭のアカハリモミの木陰で横になるのも悪い思いつきではなかっ た。陰はたっぷりあるし、本を読んだり蝶を眺(なが)めることもできる。こうし て彼は二時までそこに横になっていた。危うく寝こんでしまうところだった。さあ、泳ぎ にいける! 川原には、たった二、三人の小さな子供たちがいるだけだった。上級の子供 たちはまだみんな学校なのだ。ハンスは連中が学校で大いに絞(しぼ)られること を心から願った。ゆっくりと着物を脱ぐと水へはいった。彼はからだを暖めたり冷やした りをかわりばんこに繰り返して楽しむことを心得ていた。しばらく泳ぐと潜水(せ んすい)し、水をばちゃばちゃはねとばし、今度は岸に腹ばいになってみるみるうちに乾 いてゆく肌に太陽が灼(や)けつくのを感じるのだった。小さい子供たちは、偉い 人である彼に遠慮して忍び足で歩いていた。そうだ、彼は有名になっていたのだ。それに 彼は、見ただけでもほかの連中とはまるでちがっていた。ほっそりとした陽にやけた 頸(くび)はすらりと優雅に形のいい頭部につながっていた。その顔は知的で人並 みすぐれた目つきをしていた。ところでからだつきのほうはやせこけていて、手足も折れ そうにかぼそく、胸と背中は肋骨が数えられるほどであり、ふくらはぎはほとんど肉がつ いていなかった。
ほとんど午後いっぱい、彼は太陽と水の間をいそがしく往復した。四時過ぎると、クラ スの連中のほとんどが、急いで大騒ぎしながらかけてきた。
「いよう、ギーベンラート! 羨(うらや)ましいねえ」